大江戸恋唄



37



あれから少しだけ戸惑ったせいもあって、お琴は町で啓太を見かけた時も声をかけることができなかった。
直樹のいない寂しさを見透かされ、気晴らしにと出かけた芝居見物だったが、それがやはりいけなかったのだろうかと自問していた。
いや、あれは言葉のあやで、自意識過剰というものではないかとも思った。
おさととおじんに相談しようと思い、福吉に行ったついでに二人の家に寄ると、意外なことが判明した。

「そうなのよ〜。ちょっとあれから芝居に入れ込んじゃって」
楽しそうに話すおじんを前に、お琴は「そうなの」と合の手を入れるしかなかった。
なんとあの芝居を見て気に入って、連日芝居小屋に通っていたらしい。
ここまで熱心に通うにもわけがあったのだが、あの時会った長治にも入れ込んでいて、どうやら今はその長治といい仲に。
おじんの話だけを聞いておさとの家に。

「もうびっくり」
そう言って話したお琴は、自分の相談よりもおじんのことを話すのみだ。
おさとが「へぇ、おじんがねぇ」とうなずくと、その頭できらきらしている蒔絵のちょっとばかり高そうな櫛がちらりと目につく。
お琴はいつの間にかその櫛に目がいってしまっていた。これでも小間物問屋でお世話になっているうちにそれなりにいいものには目がきくようになったのだ。
「あ、これ?」
そう言っておさとは櫛を手に取る。
「どう、これ」
「結構高そう」
「そう思う?」
「うん、どうしたの、これ」
よくぞ聞いてくれたとばかりにおさとが話し出す。
「あの時芝居小屋にお金を出してる男がいたでしょ」
「そうだったかな」
直樹以外の人物はさほど気にしていないので、あまり覚えていない。
「さすが大店の息子らしくて、贈り物だっていただいたの」
「えー、こんな高そうなものを?」
「そ、そりゃ、まあ、それなりにちょっといろいろあって」
「…まさか」
「おほほほほ、ちょっとね」
「おさとまで」
「い、いやーねぇ、そういうお琴はどうなのよ」
「…う…」
「あの大工、結構親切だったわよね」
「啓太さんは別に」
「え、何かあったの?」
好奇心でいっぱいのおさとの顔に、お琴は下を向く。
「あたしには直樹さんがいるし、そんな他の人なんて考えられないもの」
「まあ、そりゃお琴が次々とそれほどもてるとは思わないけど、そうだったらそれもありかなとか思ったのよ」
「なんで」
「だって、直樹さんは当分帰ってこない。となれば、他の男に目がいったって仕方がないじゃない」
「でもあたしはっ」
「わかってるわよ、お琴が直樹さん一筋なんてことは」
「そうよ、だから、他の人のことなんて考えられないの」
そう勢い込んで言ったお琴は、それ以上啓太のことを相談できなかった。
啓太のことは、これ以上何か言われたらきっぱり断ればいいのだ。
「…それじゃあ、またね」
そう言ってお琴は帰ることにした。
おさとは「また今度、一緒に団子食べに行きましょう」とお琴に手を振った。
その帰り道でお琴はため息をついた。
自分が悪いのか、啓太が悪いのかわからない。
おもとに言えばいいのだろうが、何となく私のいない間にと言われそうな気もする。
それでは申し訳ないと思うと、やはりおもとにも安易に相談などできなかった。
お琴はその後も自然と啓太には会わないようにしていたため、ある日突然行き会った啓太にお互いに驚きつつも見合ってしまった。

それは、とあるお茶屋からお琴が出た時だった。お紀のお遣いでほんの数件先のお茶屋で手に入った新茶を受け取りに行ったのだ。
「あ…と、お琴さん…」
ぶつかりそうになって避けると、それは大工仕事が終わったばかりの啓太で、それもお茶屋の向かいでの普請だったのだ。
受け取ったばかりのお茶を手にしたお琴はそのまま固まって啓太を見た。
それでも何とか微笑むと、「こんにちは、啓太さん」と返した。
「いつもぶつかりそうになってますね」
啓太はそう言って笑った。先日の言葉などなかったかのような口調で、お琴は少なからずほっとしながら「そんなことないわ」とむくれて見せた。
「新茶ですか」
「ええ。最初の一杯は皆でいただいて、それから上得意様にお出しするつもりなんですって」
「へぇ。おれには縁がなさそうだ」
「そうね。お父さんの店でもこんな上等な新茶、お出しすることなんてないわ。だからあたし、そんなに上等でないお茶でも上手にいれられるようになったの。入れ方次第でそれなりのお茶だって結構おいしくいれられるのよ」
「…へぇ、機会があったら飲んでみたいですね」
「お店に来る機会がありましたなら、ぜひ」
「それも無理だな」
そう言って啓太は笑う。
どうやら先日の件はお琴の勘違いかもしれないと思いながら、そう言えば直樹さんはあたしのお茶だけはおいしそうに飲んでくれたわね、と思い返していた。
どうやらそれはそのまま口にしていたようで、啓太の眉が寄せられた。
「お琴さん、あの若だんなが万が一帰ってこなかったらどうするおつもりで?」
啓太の言葉にお琴ははっとして啓太を見た。
「…あたしは、たとえ直樹さんが帰ってこなくても、もしも直樹さんが他の人を選んでしまっても、お医者さんを助ける仕事がしてみたいの」
「だが、それではお琴さんの将来はずっと若だんなに縛られたままってことかい」
「縛られるだなんて、そんな…」
「だって、そうだろ。いつ帰ってくるかもわからないんじゃ」
「そんなことないわ。文だってもらって…」
お琴は少しだけ胸が痛む。
勉強に忙しいであろう直樹は、それほどまめに文をくれるわけではない。そもそも文を送るにも金が要るのだ。
それでも、あの直樹にしてみたら、お琴が焦れた頃に文が届くのなら、十分なまめさではないだろうか。
「そんなお琴さんの顔は見たくないな」
「だって仕方がないじゃない。啓太さんが困らせるんですもの」

「あの、もし」

二人でのやり取りに必死で気づいていなかったが、ここは往来で、周囲の人間は二人を少し邪魔だなと思いながらも通行していたのだ。
そして、二人に話しかけているらしい人がいることに気付き、二人ははっとして声をかけた人物を見た。
「はい、何でございましょう」
お琴は旅姿の若侍風の男に何気なく返したが、啓太はそれよりもやや警戒してお琴の前に立ちふさがって隠すようにして「何でしょうか」と無愛想に返した。
「この通りにある佐賀屋というのは、小間物問屋でしょうか」
お琴は即座に客かと啓太を押しのけるようにして男の前に立った。
「はい、そうでございますが」
「はあ、良かった。意外に佐賀屋という名前が多くて苦労しました」
「私はそこでお世話になっている者ですが、ご案内いたしましょうか。すぐそこなんです」
「え、じゃあ、お琴さん?」
「…ええ」
お琴は首を傾げながら答えた。
啓太はますます怪しいとばかりにお琴に「お琴さんの名を即座に言い当てるなど、怪しいですよ」と小声で忠告した。
「でも」
「お琴さんは警戒心がなさすぎです」
「そうは言っても、お客さんかもしれないじゃない」
「こんな身なりの者があの店の品を買えるとお思いで?」
「でも、人は見かけによらないと…」
二人の声は小声から少しずつ男にも聞こえるようになっていたが、男は気を悪くするふうでもなく苦笑して言ったのだった。
「確かにそうは見えませんよね。見かけどおり貧乏ですし」
「あ、いえ、し、失礼いたしました」
お琴は頭を下げて詫びると、改めて男を見た。
「他人の許嫁に気安く話しかけてしまった私が悪いのですから」
その言葉に啓太の方がう…と言葉に詰まる。
「あの…どうしてそれを…」
「…申し遅れました。長崎で直樹殿にお世話になった坂巻甚五郎と申します」
「直樹さんの…」
時間がかかりすぎたせいか青ざめて迎えに来たおもとに声をかけられるまで、しばらくそのまま呆然としていたのだった。

坂巻は店に入る前に店を見上げてため息をついた。
「どうされました」
お琴が声をかけるとはっとしたように言った。
「いや、大店とはうっすら聞いてはいたけれど、本当に大した大店だと思って。なのに、それを放ってあえて医者修行するなんてな、と」
「そうですね、きっと直樹さんはお店を継いだとしても十分やっていけるとは思うのですけど」
「いや、直樹殿は良い医者になれそうですよ」
「そうですか!」
お琴は坂巻の言葉に飛び跳ねるようにして喜んだ。
「お琴さん、大事なお客様とそんなところでお話ししなくとも」
「あ、そうだったわ。ごめんなさい、どうぞ中へって、あたしの店ではないのですけど」
「いえ、お邪魔させていただきます」
お琴は坂巻を伴って佐賀屋の暖簾をくぐり、奥へと案内することになった。
店先で足を拭うための灌ぎ水を出し、坂巻は旅の汚れを落とすかのようにして店の奥に案内されることになった。

奥に座ってすぐに茶を供され、坂巻はその香りに目を見張った。
「こんな上等なお茶を」
「あ、よくおわかりで。先ほど受け取りに行った新茶なんです」
「ありがとうございます。これほどのお茶は実家でも飲んだことはございません」
坂巻は良く味わうようにして最初の一杯を飲み干すと、お琴は早速二杯目を入れに戻った。
その間にこの家の主でもある福顔の重樹がやってきた。
「ようこそ、佐賀屋へおいでくださった」
「いえ、突然の訪問をお許しください」
「長崎では直樹と懇意にされていたそうで」
「懇意と言うほどでは…一方的に世話になっただけです」
「あの直樹が世話をするほどならば、十分です」
「はあ、そうですか」
「元気でやっていますでしょうか」
「はい。悔しいくらいに優秀で…」
「そうですか。勘当したとは言え、愚息の許嫁を預かっておりまして、どうしても気になってしまうのです」
そこで坂巻は少し笑った。
「何か」
その様子に穏やかに重樹が問いかけた。
「申し訳ありません。これは後で当人が聞けば怒り狂うかもしれませんから、御内密に」
「失礼いたします」
そう言って二杯目の茶と主のための茶を運んだお琴と、茶菓子を持ってきたお紀が入ってきた。何とも好機でやってきたとお紀は後で自画自賛するほどに。
「直樹殿はどちらかというと自分についてあまり詳しいことは話さず、気難しいと思われておりました。…かわいらしい許嫁がいると知られるまでは」
「ほう」
さすがの重樹も興味津々で話に身を乗り出した。
「あの直樹殿が、文が届いたとなるとこそこそと一人でじっくり読むために姿を消したり、見られないように隠したり、果ては返事を書くために人払いをしたり、からかわれれば容赦なく反撃するし、許嫁から贈られたらしい餞別には手も触れさせないといった具合です」
お琴は口をぽかんと開けて坂巻を見た。
お紀は楽しくて仕方がない様子だ。
「それ故に、許嫁など持てぬ貧乏学生の間では、ぜひとも江戸に参って許嫁を一目見たいとまで言いだす者も出る始末。そして、それを伝え聞いた者には直樹殿からの容赦のない牽制が応酬され、とても楽しかったです」
それを聞いて、お琴はこれはまずいのではないかと思っていた。
もしも江戸に参った学生たちがお琴に会ったならば、がっかりするのではないかと。
「直樹殿が隠し通すわけです。大変にかわいらしい許嫁殿だったと皆に文を書かねばなりません」
お琴が赤くなって顔を伏せるのを見ながら、坂巻は笑うのだった。

「ところで坂巻さまは長崎での修業を終えて…?」
お紀の言葉に坂巻は少し顔を曇らせた。
「いろいろ考えたのですが、勉学を続ける資金と努力が足りないということで、私だけ先に帰郷することとなりました」
「そうですか…」
「そこで図々しいお願いとは申しますが、こちらの文を直樹殿から預かっております。一つはお琴さんに。もう一つはご両親様に。勘当されたとは言え、御子息からの文を受け取ってもらえますでしょうか」
「…ええ。あのこがこうしてわざわざ勘当された家に文を寄こすのですから、何か事情があるのでしょう。頂けますか」
お紀の言葉に重樹もうなずいた。
そこでようやく懐からお琴宛の文と佐賀屋の主夫妻への文を取り出した。
お琴は久方ぶりの直樹からの文をすぐに開けることはせずに胸に押し当て、主夫妻は文を広げた。
そこには実家の仕送りが途絶え、どうしても医者修業を続けることができなくなった坂巻を、長崎で世話になった代わりに江戸において助けてやってほしいと書かれていた。
何も施しを与えろとは書いていない。何か仕事を世話してやってほしいと。貧乏武家の五男でもあるので、いっそのことどこかの店の跡取り娘を世話してやっても遜色はないとまで書いていた。
もちろん坂巻は内容を知らないので、主夫妻が笑って涙を流すのを黙って見ていた。
「何か?」
坂巻は少し不安になり、主夫妻に問いかけた。
「よろしいでしょう。しばらくこちらでお世話いたしましょう。武士であることも捨てられる覚悟がおありなら、然るべきところへの婿入りのお世話もさせていただきましょう。なあに、不肖な息子とは違い、愛想も人も良さそうな貴方さまなら、貰い手はどこでも転がってまいりましょう」
思わぬ話に目を丸くする坂巻をしり目に、主夫妻は愉快そうに笑って、そして泣き続けるのだった。
その隣でお琴はお紀の手を握り、一緒になって笑って涙している。
坂巻は直樹の一家を見ながら、文の内容とそれに対する返事はともかく、良いご家庭だと微笑んだのだった。

(2015/03/26)


To be continued.