大江戸恋唄



38



それは新たなる生活だった。
それまでの坂巻は、武家としての生活ばかりで、商人の家に世話になったことはない。
長崎に行ってしばらくはその自由な生活に戸惑ったりもしたくらいだ。
ようやく慣れた頃に今度は商家の生活である。
一度家には戻って今までの仕送りに対するお礼も伝えた。
長男で後を継いだ兄夫婦は少しだけ疲れたような顔をしていたのが気にかかった。
いよいよ新しい時代が来るやもといった時代の流れの中では、幕府内での新しいお役目など期待できるものでもないらしい。
仕送りがないから戻ったと言われても困るばかりだろう。
もっと言えば、家に残っている兄弟姉妹もいずれ家を出ねば生活が成り立たないくらいだった。
甚五郎一人が武家を捨て、医者になる、商人になると言っても何ら差し支えはないようだった。
そして、家での食い扶持は一人でも少ない方がいい、というわけで、坂巻はそのまま佐賀屋の主夫妻の好意に頼って世話になることにした。
もちろんただ客人として安穏としていたのは旅の疲れが残っていた最初の二日だけで、あとは他の奉公人とともに立ち働くことを希望した。
自分の食い扶持は自分で見つけねばならない。
坂巻は今までの武士としての矜持を保つばかりでは生活できないことをひしひしと感じていたのだ。
そうしてよく観察してみると、今や世の中を回しているのは武家ではない。商家の面々で、武家は商家に呆れるほどの借金をしているのがよくわかった。
いずれこの世の中は商家が中心となるのだろうと鈍い坂巻でもわかるほどだった。
特に長崎は外国の思想も文化も豊富だったため、密かにいずれ幕府は倒れるだろうとも思っていた。
その時、根っからの武家である兄夫婦はどうするのだろう、と坂巻は思うのだった。
そして、こうして商家で暮らすに至って、坂巻は自分の意外な才能にも気づいた。
武士としてはやや優しすぎる性格と、医者としてはやや不器用な手先だったが、商人としての金勘定に対する早さと正確さ、人付き合いの良さは商人として向いているかもしれないと佐賀屋の主夫妻にも太鼓判を押してもらえた。
これでもう少し駆け引きを学べば、商家の婿としてやっていけそうだと佐賀屋の主がうなずいたとき、坂巻はようやく「その話は何ですか?」と聞く勇気が出たのだった。
「あの直樹がそう書いてきたのですよ、文に。良い話だと思います」
「そんなおせっかいを?」
思わずそう口走って、坂巻を口を押えた。
「ええ。あの直樹が、ですよ。それほどあなたを買っているのだと思いますよ。そして、医者には向いていないから、再び目指すのはお勧めしないとも」
そこまで言って主は申し訳なさそうに勘当したとはいえ自分の息子の口の悪さを詫びた。
「…そうですか」
坂巻は長崎での日々を思い返していた。
日々の勉強は、ついていくのがやっとだった。
兄弟の中では決して愚鈍な方ではなかったが、より優秀で努力家な者たちが集まる長崎の学び舎では坂巻自身は真面目なだけで決して出来が良い方ではなかったのだ。
加えて自分のはっきりとした欠点に気付いた。
このまま医者になったとしても、子どもの治療に非常に苦労するだろうということに。
今回禿を治療して思ったのは、幼い身体が病気やけがで苦しむのを見るのは耐え難いということだった。
耐え難いので、それを根絶するためにも治す方に努力が向けばよかったのだが、坂巻にはやはりかなり堪えたのだ。
一緒に手を握って励ますだけでは医者としての役目を果たさない。治療してこそなのだ。
それに気づいたとき、坂巻は長崎で医者修行を続けるための金策を諦める決心がついたのだった。
おそらく直樹はそれに早くから気づいていたのだろうと思う、と坂巻は思い出す。
決定的にはあの禿の治療だったとして、あえてその治療に伴った直樹の意図を坂巻も感じていたのだ。
そう思えば、ここ佐賀屋での世話もかなり前から考えていたのではないだろうかとその頭脳に感嘆する。
「坂巻さんは直樹さんに認められたそれだけで十分貴重ですよ」
主との会話の後で、坂巻はお琴にそう言われた。
「直樹さんって、自分以外の人間は全部馬鹿だと思ってるんですよ」
「まさかそこまでは。そう言うお琴さんも?」
「ええ。あたしなんてその筆頭じゃないかしら」
「随分と私を買い被られたものですが、大丈夫でしょうかね」
「あら、直樹さんがおっしゃったんですもの、商人に向いていると思いますよ」
そこで坂巻は笑う。
あることに気付いたがあえて言わなかった。
「向いてますかね」
「ええ。大丈夫。きっとお嬢様方からも引き合いがありますよ」
そう言ってお琴は去っていった。
商家とはいえ佐賀屋は広い。奉公人も何人かいるくらいの大店であれば、お琴と言えどそうそう毎回顔を合わせるわけにもいかない。
何よりもお琴は直樹の許嫁で、この佐賀屋の娘同然の存在なのだ。
若い男が居候となって警戒されても文句は言えない。
そしてお琴自身も実家とこの佐賀屋を行き来しているのだ。家の中で合ったのはしばらくぶりだったりする。
それなのに、お琴は屈託もなく、佐賀屋の主夫妻は坂巻に良くしてくれる。
唯一坂巻に対して警戒を怠らない相手が女中のおもとだった。
おもとは一見にこやかに対応してはくれるが、お琴と親しくなりすぎてはいけないとさらりと忠告してきたのだ。
確かにそれは心得ている、と坂巻が返せば、「お琴さんはああいう人ですから、良くも悪くも親しくなった殿方が放っておけない人なんですよ。そして、そうこうしているうちにお琴さんを皆が好きになっているんです。ええ、それも本気になるほどね」とため息をついたものだ。
それこそ寝た子を起こすとやらではないのかと突っ込もうかと思ったが、それも危険な気がして坂巻はそれ以上言わなかった。
最後の方の直樹のあの心配ぶりは、どうやらこの江戸において直樹がいない間に悪い虫が付きそうだというところなのかもしれないということに気付き、それ以降注意して見てみることにした。
確かにお琴の周りにはさまざまな男が現れる。

「お琴ちゃん、今日もかわいいね。ついでに君に簪を見立てようか」
「西牧さまいらっしゃいませ」
「西垣だけどね。まあいいや」
「あ、申し訳ありません、西脇さま」
「ねえ、それわざと?わざとだよね」
「ええと、あたしに簪は間に合っておりますので、どなたかのお嬢様にお選びになるのであれば一緒にお見立てしますけど」

「お琴〜、今日は近くまで用事があったで迎えに来たで〜」
「えー、金ちゃんもう来たの?あと半刻は無理って言ったでしょ」
「そんなつれないことを。大将に頼まれてるんやで」
「もう、お父さんったら、いつまでも過保護なんだから」

「お琴さん、久しぶりですね」
「あら、啓太さん。今日もあの乾物屋の普請で?」
「以前直したところの腕を買っていただけて、また別のところを頼まれたんですよ」
「そうなの」
「また芝居小屋に良かったら顔を見せてやってください。新しい演目が始まるようですよ」
「ああ、そう言えばおじんに言われてたっけ」
「おじんさんは、長吉と仲良くやっているようですね」
「そうらしいわねぇ」
「それでは、また近いうちにお誘いしても…」
「…それはちょっと…無理かもしれないわ」

坂巻は店表に出たところでそんな場面に出くわした。
確かにお琴の周りには好意を持っているらしい男がよく現れる。
お琴自身はちっとも気づいていないようだが、坂巻は見ていてはらはらして仕方がない。おもとが言っていたのはこういうことだろうとようやく悟った。
そして芝居に誘った男は、初めて佐賀屋を訪れた日にお琴に話しかけていた男に違いないとも思った。
おもとが危惧していたのはこの男かもしれないと思うと、つい邪魔をしたくなった。
「お琴さん、おもとさんが捜しておりましたよ」
そう声をかければ、啓太と呼ばれた男自身が驚いてこちらを見た。
「ああ、お久しぶりです。今はこちらの佐賀屋にお世話になっております、甚五郎と申します。お見知りおきを」
そう言ってしれっと挨拶をした。
「あ、そう言えば…。啓太さんは知ってるわよね。佐賀屋まで案内したお方。長崎で直樹さんと一緒に勉強していた方だったの。しばらく佐賀屋で奉公人として働くことになったのよ。それでは、またね、啓太さん」
何の疑いもなく、お琴はそれだけ言ってさっと奥に入っていった。
残された坂巻は少々気まずいが、そのまま頼まれた水撒きを始めた。
はあと大きなため息をついて啓太とやらは行ってしまったが、なるほどとその後姿を見ながらこれは報告だなと坂巻は思うのだった。
そしてその報告の文を見て、直樹が盛大に眉をしかめる様子が浮かんで人知れず坂巻は笑った。
おもとに言えばたしなめつつも同じように笑っている。その話をさらにおもとが女将に告げ、同じように興奮しながら笑っている。
それを見て坂巻は直樹に悪いことをしたと多少困った感もあったのだが、楽しそうに話している様子や困ったように笑う主を見ていると、少しほっとしながらもお世話になったのがここで良かったと心から思った。
坂巻もこの佐賀屋に馴染みつつあったのだった。
そして、あの直樹がこのお琴をそれはそれは大事に思っていること、佐賀屋の面々もお琴が気に入っていることを感じて、坂巻は肝に銘じた。
もしも誰かがお琴に手を出そうものなら、あの視線だけでそんな男は殺されるんじゃないかと。
そして、お琴もまた、直樹に絶大なる信頼と愛情を寄せているのを坂巻は感じた。
お琴には言わなかったが、坂巻が商人に向いていると太鼓判を押してくれた大店の主人の言葉よりも、今は医者修行をしている息子の直樹の言葉のほうを信じていることに、坂巻は気付いたのだ。
これほどの二人の仲を他の誰かが邪魔をするなどできるわけはないと思っているが、それでもできるだけ二人が無事に祝言を上げられるように協力することに決めた。
そう思えば、この江戸での初日に啓太からの問いに困っているお琴に行き会って、結果的には啓太から邪魔したことになった自分の巡り会わせに不思議な縁を感じるのだった。
「貴方はこの佐賀屋でのお預かり人ですから、お琴さんとも親しくするのは認めます。でも、いいですか。あくまでお琴さんは直樹さまの許嫁。それまでの虫除けと思ってよーく肝に銘じておいてくださいましね」
そんな注意をおもとにされたりもしたが、うまく佐賀屋で働いていると坂巻は思っている。
本当にこのまま商人になれるのかはわからないが、それでも医者の元へ行くお琴を見ていると、あの医学館での日々が懐かしく思い起こされた。
今も仲間たちはあの場所で励んでいることだろう。
もしももう少し度胸があったならば。そして、あの場所に留まることができていたならば。
坂巻は、ふとした時によくそう思うのだった。


その年の七月、佃島沖から江戸に脅威がもたらされた。
あっという間に船乗り、荷揚げ夫から次々とうつっていった。
ひどい下痢と嘔吐から脱水して衰弱し、あっという間に死に至る。
江戸市中においても猛威をふるいだした。
そしてそれは江戸よりも先に外国船が入る長崎で流行ったのだ。
朝は元気だった者が夜には起き上がれないほどになり、早ければ翌日には死んでしまうほどの病だった。
人々はそれを虎狼痢《ころり》と呼んだ。
現代におけるコレラ菌の流行だった。

(2015/04/05)


To be continued.