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明朝五つ時(朝八時ごろ)、お琴はそわそわしながら直樹を待っていた。
もちろん二人とも朝餉を食し、既に支度はできている。
「お琴ちゃん、もう支度はできたのかしら」
「はい、おばさま」
「それじゃ、ちょっとだけいいかしら」
「はい、どうぞ」
襖が開き、お紀が入ってきた。手には何かを持っている。
「お琴ちゃんにぜひ見てもらいたかったの」
「何をですか」
「これよ」
そう言ってお紀が手にしたものを広げた。
その巻物は広げると誰かの姿絵のようで、それはそれは愛らしい少女の姿絵だった。
「うわぁ、可愛いですね」
「でしょう」
「どちらのお嬢さまですか」
「これね、直樹よ」
「はい?」
「ふふふ、直樹の幼い頃なの」
「え…ええっ、直樹さん?」
お琴は姿絵をじっと見た。
確かに面影はあるが、そこに描かれていたのはあまりにも愛らしい少女の姿だ。
「実は女の子だったとか?」
「いいえ。ほら、嫡男だったでしょ。無事に育つようにって女の子の格好をさせていたの。 それがもうよく似合っていてね、七歳を過ぎても忍びなくて本人が怒ってやめるまで着飾っ ていたの。
幸いうちは小間物問屋で、着飾るものならたくさんあったから。
でもある日をきっかけにそれはもう怒ってしまって、しばらく店からいなくなってしまって 、帰ってきたときには今のあの仏頂面のかわいげのない姿に」
「いなくなってしまった?」
「ええ。しばらく親戚の家にお世話になっていたようなの。母である私にも会いたくないと 言ってね。だから少しだけよそよそしいでしょう」
「そんなことは」
そう答えながらもお琴は家族に対しても素っ気無い直樹の態度を思い返していた。
そして、途中から急にこの界隈に現れた神童なる直樹の噂もこれで少し事情がわかり納得し た。皆が小さな頃の話をしないことも。
「この姿絵は、今では懐かしいけれども直樹には内緒ね。
お琴ちゃんが来てからこうやって着飾ることもできて私は本当にうれしいの。
だから遠慮せずにこれからも簪を使ってちょうだいね」
「はい、ありがとうございます」
「それに、今では家の中でも禁句になってしまっていたのだけれど、どうしても誰かとこの話をしたかったの」
「あたしに話してくれてとてもうれしいです」
「うふふ、お琴ちゃんには知っていてほしかったのよ」
「でも、本当に可愛いですね。それに…」
どこかで見たことがある気がする、とお琴はちらりと思ったが、それは口にしなかった。
あまりにも記憶はあやふやだったからだ。
「お琴ちゃんには一枚差し上げるわ。大事にしてくださるでしょう?」
「いいんですか」
「いいのよ。もしかしたらお琴ちゃんならと思っていたの」
「ええ、くださるのならもちろんいただきます。だって、こんなにも可愛いんですもの。しまっておくのがもったいないくらいに」
「ええ。その姿絵を描いた画家がほれ込んで何枚も書き散らすほどだったのよ。
もちろんその姿絵を他に出すことはできなかったのだけれど」
「もったいなかったですね」
「そうでしょう。でも将来の縁談に差し支えるからって言われてね」
「そ、そうなんですか」
お琴は少しだけ顔を曇らせた。
それをお琴に見せるというのはどういうことだろうと。
「お琴ちゃんなら、決してこれを揶揄したり笑ったりしないでもらってくれると思っていたの」
「えーと、でも笑っちゃうかもしれませんよ。だってあまりにも可愛いから」
「ううん、いいの。きっと馬鹿にしたりしないでくださるわよね」
「ええ、もちろん。だって、このお陰で直樹さんは無事に大きくなれたんですもの、感謝しなくちゃ」
「よかったわ。でも、とりあえずはしまっておいてちょうだいね。見られても構いはしないんだけれど、怒るとうるさいのよ、あのこ」
「ふふ、そうですね」
お琴は姿絵を丸めると、大事に文箱の中にしまった。
「でも、どうせなら今の直樹さんの姿絵が欲しいな」
「あら、本物がそこにいるのに?」
「ええ。だって、いつも怒られてばかりで、怖くて顔を見られないんですもの」
「あら、やだお琴ちゃんったら」
ほほほと笑いながらお紀は部屋を出て行った。
思いがけず姿絵をもらい、お琴は複雑な心境だった。
女装してもあれだけ可愛ければ、それはお琴程度の顔では納得しないだろうと。
それでもお琴は自分の部屋で鏡に向かい、ほつれ毛と簪の向きをしきりに気にしていた。
簪程度ならば、さほど代わり映えもしないのだが、それでも曲がっていないかとか、髪に乱れはないだろうかとぎりぎりまで鏡のぞいていた。
少しでも直樹によく見られたかったからだ。
あの姿絵を見たからなおさらだ。
「おい、いつまでやってるんだ」
承諾もなくがらりとお琴の部屋の襖が開けられた。
「は、はい」
お琴は直樹の言葉に驚いて慌てて立ち上がると、思わずよろけて直樹のほうへ突進していった。
直樹は驚いた顔をしたものの、当たり前のようにお琴を抱きとめた。
「ったく、何やってるんだ」
「ご、ごめんなさい」
「行くぞ」
「はい」
直樹は片手に風呂敷包みを持っている。
その中身はきっと医学の本なんだろうとお琴は思ったが、直樹が家族に隠している手前、そっと見るだけに留めた。
連れ立って家を出ようとする二人を見て、お紀は満面の笑みで「いってらっしゃ〜い」と送り出した。
母であるお紀の笑みとは正反対に、お琴は緊張した面持ちで、直樹はものも言わずに歩いていた。
直樹の後ろを付かず離れず歩く琴子を、直樹は少し気にしていはいたが、後ろを振り向くことはせず、黙々と歩いていく。
少し歩いたところで先を歩いている大工を見かけた。
直樹はあの大工かとつい身構えたが、どうやら人違いのようで思わず止めた息を吐いた。
そこではっとする。
何故自分が大工を気にしなければならないのか、と。
後ろをちらりと見やると、お琴はうつむきながらひょこひょこと歩いてくる。
しとやかには程遠い。
その頭には先日直樹の父母である佐賀屋の主夫妻から贈られた赤い珊瑚玉が光っている。
よく磨かれたその逸品は、お琴の雰囲気には合っていた。
幼い頃から小間物に囲まれていたので、その品が高価かどうかもわかっている。
そもそもあのお琴のために出されていた品はどれも決して安いものではない。
一見して品は地味だったが、どれも大名家に下ろされても決して悪くはないものばかりだった。
お琴の目利きはさほどのものではないので、あれが全て高級品だったかどうかなどわからなかっただろうが、直樹にはわかった。
父母の意図からすれば、お琴はあの高級品のどれを選んでもよかったし、二品を選んで決められないならば二品ともあげると言い出しかねない勢いだった。
そこまで気に入られたのは、お琴が親友の娘だからだけだろうかと直樹は考えていた。
それだけではないようだが、深くは考えなかった。
考えてしまえば何かの罠にはまりそうな、そんな気がしていた。
医学の道に進みたいと知られたのは偶然だったが、お琴はそれを両親には言わなかった。
もっと口が軽いかと思っていた直樹は、少し意外な面持ちでお琴を見ることになった。
ずうずうしいかと思えば妙に控えめになったり、うるさいかと思えば今のように黙ったままのときもある。
その辺の女心はよくわからなかったが、頬を染めてこちらを見る様子を見れば、文を差し出してきたあのときの気持ちが薄れたわけではないのだろうと察する。
あれだけひどいことも言ったのに、と思わないでもない。
ただ言えるのは、以前よりも二人で歩くことが苦ではないというだけだ。
どちらにしても時折お琴が「あ、こんどあれを買っていこうかしら」など言う声に思わずつられて見てみたり、そんなふうに余所見をしていたために、急ぎ足で駆け抜けていく棒手振り売りにぶつかりそうになるのを思わず腕をつかんで避けさせたりと、退屈している暇はなかった。
やがてお琴の父の店、福吉にたどり着いた。
直樹の目的の場所はお琴の父の店よりはかなり離れている。
正直に言えば離れているどころか遠回りだ。
それでも直樹が通っている場所をお紀には言えなかったし、お琴を一人で歩かせるには直樹といえども心配ではあったのだ。
「直樹さん、ありがとうございました。その、帰りは、店の誰かに送ってもらいますから」
「いい。どうせ俺の分の夕飯は用意されないだろうから寄って食べていく。
その代わり俺の席、確保してくれるように頼んでくれよ」
「はい、わかりました。父に伝えておきますので、お勉強が済みましたらお寄りくださいませ」
直樹は黙ったままうなずいて歩き出した。
その直樹の背に向かって「いってらっしゃいまし、直樹さん」とお琴の声がした。
まるで夫婦《めおと》になったばかりのように頭を下げてから、うれしそうに見送っている。
もちろん笑って行ってくると返事をしたわけでもないのだが、悪い気はしなかった。
むしろ足取りも軽く師のもとへ歩いたのだった。
日が暮れる前に、と直樹はいつもより早く師の所を出ることにした。
食事をしているうちに日が暮れるのはわかっていたが、下手な遠慮をしてお琴に先に帰られてもお紀に何を言われるかわかったものではない。
福吉へ着くとお琴は襷がけで店を手伝っていた。
お膳を両手に危なっかしいにもかかわらず、思ったよりうまく運んでいるようだった。
それは家で見るお琴とは違い、人と話すのが好きなお琴には性に合っているのか家にいたときよりも楽しげで、直樹はその姿を見て思わず得体の知れない気持ちが湧きあがった。
その気持ちもやはり今までに味わったことのない奇妙な気持ちで、少しだけ不機嫌な面持ちで座敷に座った。
「直樹さん、いらっしゃいませ。もうすぐ父が参りますのでお待ちくださいませ」
いつもより丁寧にそう挨拶をして、お琴は座敷を退いた。
その出た先でお琴と誰か男の会話する声が聞こえた。
「お琴、佐賀屋のぼんが来てるんだって?」
「ぼんじゃありません、直樹さんです」
「あいつ、本当にお琴にちょっかい出していないやろうな」
「…出されてません」
少しくぐもったお琴の声がした。
思わず直樹は笑う。
「お琴はわしと夫婦になるんやから、あんな顔だけの男のいる家にいつまでもおらんとはよう戻ってきたらええのに」
「直樹さんは顔だけの人じゃありません、頭もすっごく良いんですから。それに、金ちゃんと夫婦になるなんて決まってません。もう、勝手なことばかり言わないで」
「でも、あいつは大将の店は継げないんやから」
「…そんな恐れ多いこと、考えてません。あたしはまだ誰とも夫婦になる気なんてありませんから」
お琴はそれだけを言うと、足音高くどこかへと立ち去ったようだった。
思いがけず座敷の外の会話を聞いていた直樹は、手にした本を読みつつ息を吐いた。
お琴を見ていると、何やらわからない感情を刺激されていらつくのだ。
逆にその瞳にじっと見つめられると、何かを暴かれそうな気になってくるのだ。それが何かとは言えないのが余計に腹立たしい。
素直なだけにその瞳は真っ直ぐに直樹の心を見透かし、奥に隠したものを白日の下にさらけ出されそうな気がしていた。
もちろんお琴に何かやましいことがあるわけではない、と直樹は自分に言い訳してみるのだった。
「直樹さん、ようこそ。いつもお琴がお世話になって申し訳ないね」
襖の外からお琴の父の声がした。
直樹は「いえ」と返事をしつつ、手にしていた医学の本を風呂敷包みの中にそっと隠した。
襖が開いた瞬間にふわっとおいしそうな匂いが漂ってきて、直樹はそこで腹が空いていたのだと自覚したのだった。
(2013/12/04)
To be continued.