大江戸恋唄



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了安堂に運び込まれた患者が一人減り、二人減りする頃、長崎では虎狼痢≪ころり≫が収まって、医学館ではようやく平穏な生活が戻ってきていた。
同じように学びに来た者の中でも、気が付くと一人二人と人がいなかった。
この騒動の間に帰っていった者もいるし、亡くなった者もいた。
幸い直樹の周りでは皆無事で、その旨を江戸に書き送ったばかりだった。
逆に江戸からはかなりの騒動が感じられる文を受け取り、離れている分、今お琴が感染していてもどうにもできない辛さを味わった。
もちろん自分もいつ感染するとも知れない中にいたのだから、お琴だけをどうこう言えるものでもない。
ただ、少なくとも佐賀屋の面々も、お琴の実家福吉の知った顔も、江戸へと帰った坂巻も、皆無事であることが救いだった。
お琴からはこれで大手を振って直樹の手伝いができると書いてよこした強者≪つわもの≫だ。
江戸で虎狼痢が流行りだした頃、お琴の文が了安堂からだったのが最初の驚きだった。
本当なら、お琴だけはその場にいてほしくない、と思ったのも本当だ。
お琴自身も散々佐賀屋の奉公人に止められたと書かれていた。
医学を学ぶ身でありながら、お琴の行為に否を唱えるのは非道だとわかっていても、お琴が江戸の空の下で生きて元気にしていることが直樹にとっての生き甲斐でもあったのだ。
長崎で学んでいるその意味を自分のためだと言いながら、それでも将来をお琴と二人で生きていくための一つの手段だとわかっていたからだ。
誰にも言っていなかった将来への希望を伝え、医師に向いている、いい医師になるとお琴に言われた時、お琴が自分の火傷を顧みずに火の中から拾い上げた焦げた医学書を見た時に感じた気持ちは、簡単には言えないほど直樹にとっては大切なことだった。
長崎に行くと言った時には、お琴なら何年経とうと待っていてくれるだろうと思った。
それが二人にとって辛いことで、待たせる方のお琴にどれだけ勝手なことを押し付けているかとわかっていても、だ。同じようにお琴も思っているのだと、了安堂からの文で直樹は知った。
了安からの短い文がお琴の文に添えられていた。
まるで念押しするようなその文には、了安の普段は見せない心遣いを感じた。
つまり、お琴を裏切るようなことがあれば、江戸に帰ってくるなと。
ここまでする女子を袖にするならば、弟子でも何でもない、江戸にも帰ってくるな、顔を見せるなということらしい。
お琴を裏切るなら一生をその長崎で果てよとまで暗にほのめかしている文には、さすがの直樹も顔をしかめるしかなかった。
更に松本屋からの文も同じような文面だった。
あれほどの覚悟はさすがのお裕にもない。そこまでするお琴をこのまま放っておくなど、女の敵であるから、帰りが遅くなるようなら江戸に戻ってきても手をまわして開院すらできないようにさせるとの脅し文句だった。
坂巻にいたっては、直樹にではなく下宿先の同室の京者と大坂者に宛てての文で、いかにお琴がこちらでもてているかとの文面だったのだ。
話半分にしても、わざわざ直樹宛てではないところが腹の立つところで、一緒にいる坂巻に対しても佐賀屋に託したのを失策だったかとの思いすらしていた。
ここまで味方を付けたお琴に直樹は安堵するとともに若干の複雑な気持ちだった。
それは、お琴が好かれているとの証だが、少なくとも直樹のいない江戸での話だ。
思わず文の山を放り出してしまうくらいには嫉妬していた。
「何や、ちょっと女子に会えんから言うて、しっぽ巻いて江戸に帰るか」
これまた大坂者が機嫌の悪い直樹をさらに機嫌悪くさせるような悪態をついた。
「これこれ」
京者は鷹揚に窘めるだけで、余計に直樹の不機嫌を買った。
「…出かけてくる」
このままいれば確実に当り散らしてしまう。
不機嫌な顔をしたまま、直樹はいったん外に出て頭を冷やすことにした。

下宿先は医学館のすぐそばである。
医学館で学ぶ者たちのために確保されているようなものだ。
近場には本屋、古本屋、貸本屋とそれぞれ軒を連ね、時にはそういう店からの依頼で写本をして金を稼いだこともあった。
頭を冷やそうと歩くうちに、やがて本屋以外の店にも目が行くようになった。むしろ今まで目に入らなかったのが不思議なくらいだった。
さまざまな暖簾からうかがえるのは、自分の生家でもある小間物屋やらお琴の好きな団子屋、お琴の生家の料理屋と江戸の通りを思い起こさせた。
もちろん江戸一番とまで言われる賑やかな通りに生まれ育った直樹にとって、ほんのわずかな道程にひしめくお店の数々は、比べ物にならない。
それでも、今までただひたすら医学館と下宿とを行き来していただけで見ておらず、ここにもちゃんと江戸と同じような生活があり、さまざまな人々が暮らしているのだと実感したのだった。
丸山遊郭に近づくほど、華やかな店が連なっていく。
直樹が禿を助けた筆を扱う店はまだ地味な方で、身を飾るものや呉服などの店を外国人を連れた花魁が暖簾をくぐっていったりもしている。
そして、これも偶然のなせる業か、その中にあの禿を連れた梅田屋の椎乃太夫の姿があった。
もちろん脇には紅毛の外人を連れており、更には店の若衆をお供に買い物の途中らしかった。
あえて直樹などは見ぬふりで通り過ぎようとしたが、椎乃太夫が小間物問屋に入っていったのを見送ったところで、しばらくして禿が一人直樹の傍に寄ってきたのだった。
「その節は」
その一言と共に文を手に押し付け、すぐに店に戻っていった。
手の中にはただ一言したためられた文が残された。

『縁≪えにし≫の糸を忘れじ』

それに返す言葉はなく、こういう戯れの言葉も手練手管も花魁たるゆえかと直樹は思ったが、この文をその場に捨てるわけにもいかず、懐に仕舞ったのだった。
そして、頭も冷えたかと来た道を引き返そうとしたとき、向かいの店に江戸では見ない変わった店を見つけた。
ふらりとその店に引き寄せられるようにして直樹は暖簾をくぐった。

 * * *

季節はすっかり夏を過ぎ、お琴が佐賀屋に戻ったのは秋の気配も濃厚になった頃のことだった。
おもとは何度かお琴の様子を見に来ていたが、連れて帰ることは叶わず、佐賀屋の面々は心配しながらの日々だった。
一方実家である料理屋福吉からはたびたび弁当が届けられたりと、心配しながらもお琴の父である重雄も見守っていたのだった。
弟子も含め大所帯だった了安堂と言えど、手も回らないくらいの日々からようやく解放され、お琴は安堵のため息とともに佐賀屋に戻ることができたのだった。
江戸を襲った虎狼痢≪ころり≫は、これ以上感染する者がないくらいにばたばたと人が倒れて亡くなっていったが、幸いなことにお琴の周りでの死者は少なく済んだ。

「お琴さん!」

店先にいた小僧の知らせに、おもとは草履を引っかけるようにして慌てて表へお琴を出迎えた。
表の騒がしさにつられて顔を出したお紀もお琴に気付くと「お琴ちゃん!」と駆け寄った。
泣いた二人に抱きしめられながら、お琴は「た、ただいま戻りました」とこちらも涙を流した。
三人で号泣していると、何事かと人垣ができる。
お使いに出ていた坂巻が戻った時には店表にできた人垣に、何か事件かと慌てたくらいだった。
困った顔をした番頭が坂巻とともに人垣を分けて店の中に三人を引っ張りこんだ時には、すっかり夕暮れ間近だった。
お琴はあれこれとお紀に問われるまま答えたが、長崎の直樹の話になると顔を強張らせたままお紀に語った。
長崎はいち早く虎狼痢が上陸した場所であり、お紀からすれば勘当した身ゆえに直接の文のやり取りがなく、直樹に関しては伝え聞いた話ばかりだったからだ。
特にお琴が了安堂に行ってしまった後は、文は全て了安堂付けで届いていたせいもあって安否の確認もできぬままだったのだ。
お琴に届いた文も最初以外はなかなか届かず、やはり途中での文の取次ぎも虎狼痢のために中断されていたせいだと思われた。
それだけにお琴から直接文を見せられて聞いた息子の話にお紀は再び涙をこぼした。
最後の文からおよそひと月以上も経っているが、後から流行った江戸が収まったのだから、長崎はもっと早く収まっていることだろうと思っていたが、やはりその後の様子がわからず心配ではあった。
そこへちょうど直樹からの文が届いたのだ。
了安堂からお琴を追いかけるようにして届いたその文は、やはり了安堂宛てではあったのだが、了安が気を利かせて急ぎお琴に届けてくれたのだった。
もどかしい思いで急いで文を開いて読むと、お琴は大きくため息をついた。
長崎も落ち着いたという短い文だったが、そこには少しだけ気になる文面があった。
「ああ、良かった。良かったわ、お琴ちゃん」
安心したらしいお紀の言葉にお琴は大きくうなずいた。
「それにしても直樹さんたら、ちゃんと紅を持っているかって、持ってるに決まってるじゃないの。いくらあたしでも簡単に無くしたりはしないわ」
もう、と怒りながらお琴は文をたたんだのだが、お紀は涙を流したその顔でにんまりと笑った。
「あらあら直樹ったら、お琴ちゃんのことが心配なのねぇ」
もちろんお紀としてはお琴に悪い虫がつかないか心配している直樹の心情を正しく理解していたが、鈍いお琴は文面通り受け取っていたのだ。
「お琴ちゃん、気が気じゃない様子の直樹に心配ないってことを早速返事してあげてちょうだい」
「はい、おばさま」
お琴は早速自分の部屋に戻って文をしたためることにした。
それを見送ったお紀は、今回の虎狼痢騒動を経てますます二人が互いを想い合っていることがわかり、満足げにうなずいたのだった。

お琴は文机に向かい、丁寧に墨を用意したが、用意した後もなかなか書き出せなかった。
直樹が今どんな生活をしているのか、何を見て何を考えているのか、お琴はそのすべてが知りたいと思っていた。
もちろんそう事細かに直樹が文を書いてくるわけもなく、お琴はただ想像するのみだ。
そう言えば昨日何かの折に坂巻から少々不安なことを聞いた。
丸山遊郭の遊女、いやまだ見習いの禿の治療をしたというのだ。
どこで治療したのかなど聞いたわけではないが、籠の鳥の遊女たちの治療場所など遊郭の中しかない。
ということは、直樹も遊郭の中に入っていったわけで。
坂巻は慌てたように言い訳した。
いや、私も師匠も一緒で、と言い募ったが、それでもかなりの衝撃だった。
そしてその師匠というのが、お琴が想像した変態医師だったという。その想像した姿を坂巻に告げれば、坂巻は腹を抱えて笑い、概ねその通りですと請け合った。
直樹はそこで立派に禿の手術を終えたという。
着々と医術を身に着けている様子を聞き、お琴はさすがは直樹さんと自分のことのように威張ったものだ。
「ああ、でもきっと直樹さんの美貌に花魁ですら魅了されてしまうに違いないわ」
そんな心配がお琴の口をついて出てしまう。
そして、杞憂だと笑って済ませられないのだから、坂巻は絶対に口に出すまいとと密かに誓ったことをお琴は知らなかった。
お琴は懐から巾着を出すと、そこから紅を取り出した。
中身はちっとも減っていない。
直樹がわざわざ長崎へ行く前に買い求めて贈ってくれたものだ。
有名な紅屋の品で高価なため、もったいなさもあってなかなか使っていなかった。
直樹はこの紅がなくなる前に帰ってくると約束していたが、このままでは帰りがいつになるかわからないとお琴はため息をついた。
それでも、掌に紅を乗せて飽きずに眺めた。
季節はじきに直樹が長崎へ発った季節が巡ってこようとしていた。

「直樹さん…会いたい、です」

文机の前でお琴は涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえたのだった。

(2015/05/07)


To be continued.