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買ってしまってから直樹は悩んだ。いったいこれをどこに置いておけというんだ、と。
送ってしまえばいいのだが、送るには少し物が壊れやすい。とても琴子の手に渡るまでに無事である保証はできない。
何重にも紙に包まれたそれを持って、直樹は結局下宿へ帰り着いた。
その紙包みを持って下宿先の連中に見つからないうちに柳行李に入れてしまおうと思った。
部屋には京者が転がっていて、大坂者は何やらつぶやきながら本を読んでいた。
そっと部屋に戻り、柳行李に物をしまったところで京者がのんびりした口調で声をかけた。
「何か落ちましたよ」
振り返れば、何やら紙切れを持っている。
自分が買ったものに気を取られていて忘れていたが、懐に入れていた文がなかった。
しまった、と思った時には遅かった。
「…何やら艶めかしい文ですね」
何かいいものを見つけた、というような顔で京者が言った。
しかし、考えてみれば直樹にとっては取るに足らないどうでもいい文だ。ため息をついて「欲しいならやる」と答えた。
京者は眉をあげて少し残念そうに言った。
「許嫁にお知らせしようかと思ったのに」
「…言っておくが、文くらいならあいつの前でも見知らぬ相手からいくらかもらったことくらいある。今更だろう」
「なんや、それ。さり気なく自慢かいな」
大坂者が読んでいた本から顔を上げ、こちらを睨んでいる。
ああ、面倒だと思いながら直樹は柳行李に隠し入れたものが見つからなくてほっとしていた。
「この間治療した禿の姉女郎からだ」
「どうりで普通の女子とは手蹟も違うと」
「どれどれ」
そう言って大坂者も文を見る。
結局興味があるのかと直樹は呆れて放っておくことにした。
どちらにしてもそれは返事を出す類のものではない。
「花魁にここまでされるとは、さすが直樹はんですな」
「へっ、花魁なんてもんは、こんな文くらい遊郭に誘う商いの一つやろ」
「おや、経験があるので?」
「…ないわい!」
背中越しにそんなやり取りを聞きながら、直樹は自分の本を広げた。
それでも思うは今日買ったものをお琴に贈ったなら、どんな顔をするだろうということだった。
喜ぶだろうか。
つまらなさそうにするということはないだろう。
お琴はああいうものが好きそうだ。
見た目も涼やかで女子には向いている。
ただ一つ心配なのは、贈る前に壊れてしまわないかということと、お琴自身がすぐに壊してしまうのではないかということだ。
そんなことを思うと、自然と顔がほころんだのか、「思い出し笑いなぞしよって、気味の悪いやつやの」という大坂者の悪態を聞く羽目になったのはうかつだった。
京者は何やら急に硯を用意し出しのだが、まさかそれが江戸に向けての文だと直樹は気づかなかった。
今日のこの出来事も事細かに江戸の坂巻に向けて報告されるとはさすがの直樹も思わなかっただろう。
そして、まさかその手間賃が京者にとってちょっとした小遣い稼ぎになるなど、その部屋にいた誰も想像すらしなかったのだった。
* * *
江戸では坂巻が文を手に庭先で佇んでいた。
「坂巻さん」
呼ばれた声に振り向けば、お琴が不思議そうな顔で廊下から坂巻を見ていた。
店の者は今では甚五郎と下の名前で呼ぶようになったので、坂巻と呼ぶのはお琴だけになっていた。
「お琴さん、どうされました」
「どうかされたのは坂巻さんでしょ。そんなところで文を片手に立っているんですもの。何か悪いお知らせじゃないかと思ってしまうわ」
「いえ、この文は兄からのもので…。兄は家を継いではいますが、なかなか大変なようで」
「そうなんですか…。虎狼痢≪ころり≫でお上も大変だったようですし」
「そうですね」
そう答えながら坂巻は少しだけ迷っていたのだ。
あの騒動の前、志半ばで江戸に戻ってきたのは確かに資金不足が一番の理由だった。そして二番目の理由は、自分自身の資質の問題だったのだ。
医師の仕事は嫌いではないが、いざ始めてみるとかなり覚悟がいる。
それもわかったうえでわざわざ長崎にまで行った。
それでも、生半可な覚悟では辛かったのだ。
男性だけではなく、女性、子どもも診なければならない。
治してやりたいのに力及ばない時など、そのたびに坂巻は辛かった。
今回、何かできることをとお琴とともに了安堂に手伝いに行き、坂巻はその覚悟とやらがようやく固まった気がしたのだ。
「…お琴さん」
坂巻は自分の考えをお琴に告げた。
お琴は坂巻の言葉を聞きながら、静かに話を聞いてうなずいた。
おもとはお使いに出かけ、そこで早々に仕事が終わったらしい大工の啓太に会った。
ふらふらと力なく歩いている様子は、せっかくの美丈夫なのに残念といったところだ。
つい見かねて声をかけた。
「ちょっと、そこの」
茶屋の前だったこともあり、啓太は周りをきょろきょろと見渡した。てっきり茶屋娘に声をかけられたと思ったのだ。
「あたしよ、あたし。佐賀屋の女中です」
ようやくおもとに気付いた啓太は、少しげんなりとした顔でおもとを見た。
お琴とは違い、背も高く声も若干低い。性別は男なのだから当たり前だ。
「何か用ですか」
あまり機嫌のよくない様子で啓太は答えた。
「お琴さんのことなんだけれど」
そう言われて、啓太はあからさまにびくついた。
おもとはため息をついて、そこの茶屋に少しだけどうかしらと誘った。
啓太は少しだけ迷った末に茶屋の床机(縁台)に座った。
ようやくやってきたかわいらしい茶屋娘に茶と饅頭を頼み、おもとは啓太を見た。
「お琴さんを想うのは自由かもしれないけれど、正直望みないと思うわ」
それだけ言うと、啓太がおもとを睨んだ。
「気持ちを押し付けるばかりでは、お琴さんだって困ってしまうわ」
「はい、お茶とお饅頭ですよ」
最近評判らしい茶屋娘がにっこりと笑って運んできた。呆然としている啓太に代わって金を支払うと、おもとは早速茶をすすった。
「そんなのは最初からわかっている」
啓太はお茶に手を付けることなくうつむいているので、おもとは構わず饅頭に手を付けた。
「あら、結構おいしいじゃない、これ」 一口食べて満足そうにそう言った。
「なら、もうおやめなさいな」
「やめろと言われて、やめられるくらいなら、おまえに注意されてない」
「あら、そう言えばそうね…」
「だいたいあいつは本当にお琴さんを好いているのか?将来を誓ってすぐに置いて行けるのか?商家の坊ちゃんのくせして贅沢だろ」
「…そうは言っても、あたしだってよくは知らないけれど、直樹さんには直樹さんなりの愛情はちゃんとあるみたいだし」
「散々お琴さんに冷たい仕打ちをしておきながら」
「あら、そうなの?ねえ、その辺のこと、もう少し聞きたいわ〜」
「まあ、わたしもちょっと聞きたいわ〜」
おもとの横からお盆を持ったままにこにことした悪気のない顔で茶屋娘が言った。
「あら、あんたお仕事は?」
「ちょっと休憩よ」
「おまえら…面白がってんじゃねーよ」
「面白いに決まってんじゃないの」
おもとは悪びれずに啓太に言う。
「だいたい迷惑をかけられるこっちの身になってほしいものだわ」
「おっまえっ」
「既に許嫁となった女を諦めきれなくて言い寄るなんて、遅いのよ」
「それはっ…けがをして…」
「え?なあに?まさか、けがをしている間に直樹さんにさらわれちゃったとかそういう話?」
「あ、そう言えば聞いたことが…。女の方は親の決めた職人との結婚を、男の方もお嬢様との結婚を土壇場でお断りして手に手を取っての逃避行とか」
「それは言いすぎでしょ。おばさまに聞いたところでは確かに縁談はあったみたいだけれど」
「まあ、瓦版の話だから」
「とにかくっ」
啓太は二人の話に水を差すようににらみつけてお茶を一気に飲むと、床机に湯呑を叩きつけるようにして置くと「俺はまだあきらめてないからなっ。ごちそうさんっ」と憤然と茶屋を出ていった。
残されたおもとはやれやれとつぶやくと、残りのお茶と饅頭を頬張り、茶屋娘に「あ、これお土産にいただくわ」と告げた。
「ありがとうございます。今後ともごひいきに」
茶屋娘の休憩も終わりのようで、にこやかにそう言って饅頭の土産を奥に告げに行ったのだった。
かくしておもとは思わぬ土産を抱えながら佐賀屋に戻ると、まずは主夫妻にお使いの報告を済ませ、茶屋の土産の饅頭を差し出した。
お琴はお琴でおもとと啓太の会話も知らずに「おもとさん、あのね、大事な話が…」とおもとの帰りを待ちわびていたようだったのだ。
「では、買ってきた饅頭でお茶にいたしましょう」
そう言って改めて八つ時のお茶をお琴に差し出すと、お琴は別の男の名を告げた。
「だからね、坂巻さんがね、また医者修行に戻るんですって」
確かにその話の内容も驚きだったが、これだけ他の男のために親身になる警戒心のないお琴では、さぞかし長崎の直樹さんも気が気ではないだろうとおもとは密かに同情する。
同じ男ではあるが、嗜好により女にはとんと興味のないおもとですらお琴は助けてやりたいと思うのだ。
ちょっと義侠心の熱い男ならば、ころりと落ちるのは仕方がないのかもしれない。
おもとはお琴の話を聞きながら、実りのない啓太の想いに盛大にため息をついたのだった。
おもとのため息から数刻前の出来事。
お琴は坂巻の話を聞いて、迷いながらもやはり佐賀屋の主にきちんと告げたほうがよいと話した。
恩ある主にどう告げたらよいかと悩む坂巻にありのまま話せばよいと言ったのは、正しかったのかどうか。
常に人の事を気遣ってくれる佐賀屋の主夫妻だから、坂巻の決断を聞いて頭ごなしに反対することも罵ることもないだろうと思っていた。
坂巻の決断は、お琴にとってほっとしたのも事実だった。
商人にも向いているとは思ったが、決して医者にも向いていないとも思わなかったからだ。
ただ、向いていないという言葉を突きつけられて、それに縛られるのはもったいないと思っていた。
いや、直樹のことだから、それを跳ね除けて奮起することを期待していたのか。
向き合っていても直樹の本音はわかりにくいのに、こうも離れて文だけのやり取りではさすがに本気でそう思っていたのかどうかすらお琴にはわからなかった。
「直樹さんって、本当に意地悪なんだから」
この場にいない直樹を思って、お琴はそうつぶやいた。
「お琴ちゃん」
佐賀屋の女将に呼ばれて、お琴は「は〜い」と返事をした。
きっと坂巻からの話が通じたのだとお琴は思った。
確かに座敷には主である佐賀屋の主人と先ほどお琴を呼んだ女将が揃い、坂巻が向かいに座っていた。
お琴は神妙な顔をしながらも少し離れて座った。
「お琴ちゃん、坂巻さんのお話はお聞きしましたよ」
「あ、はい」
「このままぜひとも縁談を組ませていただこうかと思っていたのだけれど、少し残念ね」
お紀の言葉にお琴も少しだけうなずく。
確かにそれも楽しみではあったが、実を言うと医者修行に戻ると言ってくれたことが直樹を思い起こさせてうれしかったのだ。
「すみません、勝手を言って」
「あら。いいのよ、坂巻さん」
「それで、どこで医者修行を?」
「私は兄の伝手を頼ってすぐに長崎に行ってしまったので、この際了安医師にお願いしてみようと思っています。もしもそこでも適わないならば、了安医師からまたどこか伝手を頼ろうかと思っています。外科手術は無理でも他にできることがあるなら、と」
「そう。困ったことがあったら遠慮なくまたいらっしゃい。直樹の数少ない友人なのですから」
数少ない、と言う言葉に坂巻は苦笑した。
お琴も確かに友だちは少なそう、と直樹の交友関係を思い出していた。
えーと、ふらふらしているお侍さんとか、確か手習い所と道場で一緒だった渡辺様とか、今考えても二人しか出てこない、とお琴は指折りしてみたのだった。
そもそも渡辺様にしてもお琴は顔と名前しか知らない。何せいつも手習い所と道場で盗み見ていただけだからだ。それも親しげに話をしているので、勝手に友人だろうと思っている。
そして、あのお侍(西垣)にしてもあれは友人と言えるのだろうかと少し疑問だ。顔見知りではあるし、親しく話もしているのだが、どちらかと言うと天敵という気もする、と。
そんなことを思っていたら、お紀は「本当に婚儀に呼べるようなお友だちが少ないわよね」とため息をついた。
さらりと言われた言葉にお琴は顔を赤くした。
「商人に向いていると思っていたが、何も押し付けるわけではない。商人にはいつでもなれる。どこからでもやり直しはできるものだよ。医者修行、頑張ってきなさい」
「…はい、ありがとうございます」
主の言葉に坂巻は深々と頭を下げた。
お琴はそれを見ながら坂巻さんももうここを出ていくのだと思うと、なんだかさみしい気持ちになってくるのだった。
(2015/06/01)
To be continued.