大江戸恋唄



43

大坂に着いて荷の上げ下ろしが始まると、お琴とおもと、用心棒代わりに坂巻が大坂の町に降り立った。
奉公人の案内で佐賀屋とは兄弟店でもある佐賀乃屋に寄ると、少しばかりのもてなしを受けた。
大坂では佐賀屋の主の従兄にあたる者が店を切り盛りしていた。
長崎へ行く折りには寄るようにと主から言付かっていたのだ。
もちろん船の荷が整ったらすぐに出発となるため、長居は出来なかった。
ここで江戸から一緒に来ていた奉公人とはしばしの別れになる。
江戸の佐賀屋、大坂の佐賀乃屋、佐賀本家の入江屋とは、それぞれ奉公人が地元に戻るためだったり、他の地で修業して再び江戸に戻って店を開くためだったりと、行き来があるのだった。
直樹が長崎に向かうときにも佐賀本家に向かう若者がいたことをお琴は思い出していた。
それまではずっと無愛想だった直樹が、どんな顔をして奉公人と二人歩き続けたのだろうかと、お琴には想像がつかなかった。
今回の長崎行きで急きょ奉公人が一人大坂に送られることになったのだが、もともと西国出身のために大坂に行きたいと願い出ていた者を有無を言わせず船に乗せてしまったのだ。
主のやることなので奉公人は笑っているが、本来ならもっとゆっくり物見雄山気分で旅をするはずではなかったかとお琴は申し訳なく思っていた。
「お琴さんと一緒の旅は楽しゅうございましたよ。一生の思い出です。
どうか長崎までご無事で。そして、直樹さまの回復をお祈りしております。
お二人の婚儀を見られぬことは残念ですが、きっと叶いますとも」
そう言って江戸から来た奉公人とは大坂の町で別れた。
新たに大坂の佐賀乃屋から本家に移る奉公人が船に乗り込んだ。
そして再び今度は下関に向かって船は出航した。今度は瀬戸内を通って行くのだが、外海よりは比較的波も穏やかだ。
瀬戸内の島々を横目に航行していく船は、船足が遅いのか早いのかお琴にはわからない。
ただもどかしさばかりが募る。
あれから何日経っただろうと指折り数えるもよくわからなくなってきていた。
一刻も早く早くと気は焦るが、船は風向きと天候次第だ。
これまではかなり順調に進んだのも御仏の御加護のお陰とおもとはありがたがっている。
自分が江戸を出るならば、それは伊勢参りの時だろうかと密かに憧れてはいたが、まさか一足飛びに船に乗って長崎まで行くとは思わなかったお琴だ。
もちろんもしかしたらという気持ちもないではなかったが、直樹は喜ばないだろうと思っていたので、こうして実際に向かっている今でさえ夢見心地だった。
新たにお供をすることになった奉公人は大坂人らしくあれこれと陽気に話している。
それにうなずくおもとや坂巻を見ながら、お琴はまだはるか先の長崎に思いを馳せるのだった。

 * * *

ようやく起き上れるようになった直樹は、それでも布団の上で薬湯を受け取りながら少しやせた自分の腕を見た。
一時は本当にこれで死ぬのかと思ったくらい具合は悪く、傍目に見ても助かるまいと思われていたようだ。
もちろんまだ全快したわけではなく、体力も落ちてしまっているので、再び寝込むことにもなりかねない。
先日急ぎの文が来たと聞いたが、その時にはまだ寝込んでいて自分で直接文を見ていなかった。
珍しく実家からの急ぎの文で、もしや誰かに危急の事態が起きたのかと自分の病状を差し置いて考えたものだ。
開けてくれと願った直樹の耳に届いたのは、何とお琴がこちらへ向かっているとの内容だった。
夢うつつにそれだけ耳に残った直樹は、確かにそれから徐々に回復したように思う。
お琴が無事に着くのが先か、直樹が回復するのが先か。
そんなことを言われつつ日々を過ごしていた。
ようやく今日起き上ったのだが、あれからどれくらいの日が過ぎたのか。
江戸から長崎まで、お琴の足ならどれくらいかかるのか想像がつかない。
京者が急ぎで文を江戸に送ったというから、具合が悪くなってから相当早く知らせがいったはずだ。
それからすぐに江戸を発ったとしても、いくらなんでもまだ着かないだろうと直樹は思っていた。
正直に言えば、お琴には来てほしくなかった。
もしもこの病がうつってしまったら元も子もない。あの虎狼痢騒動のときもこんな地獄に来る必要はない、と思っていた。結果的に言えば江戸にも流行して、しかも自らその地へ赴いたお琴には、心配してもし足りなかったくらいだ。
もしも直樹自身が回復しなかったなら、お琴には新たな道を歩んでほしいと思っていた。
直樹以外の誰かを好きなれるのか、それはわからなかったが、いっそ姿をあのまま見ない方が踏ん切りもついたことだろうと。
しかし、お琴は長崎に来ると言う。
元気だけは人一倍ある女だったが、長崎に来るとなれば相当な覚悟が必要だろう。
来るとなれば、一刻も早く来い、という気持ちが芽生えてくる。
あの朝別れてから、そろそろ一年が経とうとしている。
顔が見たい。声が聞きたい。
熱に浮かされながら、お琴の夢ばかりを見ていた。
それがより一層直樹の意識に狂おしいほどお琴を求めさせ、目が覚めた時にはお琴のいない現実に打ちのめされるほどだった。

「入りますよ」

部屋の外から声がして、直樹は居住まいを正した。
京者は直樹から薬湯を飲み終わった茶碗を受け取り、襖を開けた。
そこには澄ました顔の講師がおり、「診察です。起き上れるようになったと聞いたので」と部屋の中に入ってきた。
「ありがとうございます、大蛇森先生」
直樹が頭を下げると、少しだけほうっと息をついて大蛇森講師はそそっと直樹に近づいた。
「まだ無理をしてはいけませんよ。先日まで生きるか死ぬかの状態だったのですから」
「はい」
「本当によく回復されたこと」
「おかげさまで」
大蛇森講師は直樹の手を取り、ひとしきり痩せたその手を確かめるようにして撫でた後、ようやく脈をとった。
「ああ、ようやく力強く打つようになりましたね」
「そうですか」
「本当ですよ。どんな薬も効果がなくて、もう手の施しようもないくらいだったのですよ」
「そのようですね」
「ここまで回復すれば、あとは体力を取り戻すだけです」
「はい」
「いったい何が生死を分けたのでしょうね」
「…さあ」
まだ手を握っている大蛇森講師の手を払いきれずにいると、今度は胸の音を診察するという。
胸をはだけるまではよいのだが、耳に当てる道具を忘れたとかで、直接胸に耳を当てて音を聴くと言う。
「私ほどの者になれば、それでもわかるのですよ」
そうかもしれないが、直に音を聴く姿はあまり他人様に見られたくもない構図だ。
直樹が眉を寄せて、断りたいが断り切れずにいると、京者がおかしそうにひとしきり笑ってから、ようやく真面目な顔で大蛇森講師に申し出た。
「大蛇森先生、私の道具でよければお使いください」
そう言って耳に当てる木製の聴診器を差し出した。
一瞬ちっという舌打ちのような音が聞こえたが、大蛇森は不満げに受け取った。
「私のは象牙製なのですがね」
そう言いつつ、忘れたのは自分なので借り物で診察を済ませた。
「まだ胸の音は少し悪いところもありますが、これからよく栄養を取って休んでいれば良くなるでしょう」
診察を終えた直樹が着物を直していると、大蛇森講師が未練がましく直樹の胸をちらりと見てからそう言ったのだった。
「ありがとうございました。回復しましたら、また医学館での講義をお願いします」
その一声だけで大蛇森講師は機嫌よく帰っていったのだが、直樹はやれやれいつもの倍疲れたと再び布団に横になったのだった。
「これは貸しやな」
京者の言葉に直樹はため息をつきながら返した。
「いや、看病も含めて貸しだらけだ…。ありがとう」
京者が驚いたように振り返ると、直樹はすでに寝息を立てて眠っていた。
仕方なくそっと襖を閉めて、どこの部屋に行こうかと廊下を歩き出したのだった。


「うわ、今、なんだかぞくっときた」
お琴は目の前の光景に興奮したのかと思ったが、これは嫌な感触だと身震いした。
「大丈夫ですか、風邪じゃないでしょうね」
「ううん、違う。直樹さんに何かあったんじゃないかしら」
「…まさか」
「そんな」
坂巻とおもとは向き合って今お琴が感じたものは何事かと同じように身を震わせた。
「きっと直樹さん、どこかの女狐に目をつけられてるんだわ」
「女狐…」
「…そっちですか」
おもとは脱力したようにつぶやいてからお琴に言った。
「もう医学館も下宿もすぐ目の前だと思いますわよ」

お琴、おもと、坂巻の一行は、佐賀本家の入江屋にも寄り、ようやく長崎に着いたところだった。
大坂からの船足は、船頭が驚くほど早かったのだ。
まるで神風だと、普段吹くことのない絶好の風が船を後押しするかのように吹き、いつもなら休み休み抜ける瀬戸内の海を駆け抜けるようにして下関に到着したのだ。
まさに奇跡の航海だった。
そのあまりの船足に船頭たちはお琴をまるで女神のように持ち上げた。
帰りも是非にと懇願されたほどだ。
何せこの船旅の間中天気は良かったし、波も穏やかで船足は快調だったのだから、そう崇められてもおかしくはない。荒れやすい冬目前の季節だからなおさらだ。
しかし船旅も終わり、下関から小倉に移動し、長崎街道をようやく自分たちの足で歩き出した。
途中佐賀宿で入江屋により、そこからは案内役の奉公人をつけてもらい初めての峠越えをし、ようやく長崎にたどり着いたのだから感激もひとしおだ。
もっとも坂巻にしてみればこれほど楽な長崎行きはなかったとも言えた。
江戸から長崎まではもちろん自分の足で歩き、当然のことながら江戸への帰路も歩いたのだが、帰りは特にお金がなかったのもあってかなり急ぎ足だったのに加え、宿も最低限のところで済ませたくらいだからだ。
しかしお琴なら全部徒歩で歩き通しても文句は言わなかっただろうと坂巻は思った。
見た目ほど華奢でもか弱くもなく、いたって元気よく峠越えもしていたくらいだ。むしろお付のおもとの方が辛そうだった。
しかし坂巻は常々聞きたかったことをようやくおもとに確認することができた。
それは宿に泊まった時のことだ。
お風呂を、と言われたお琴がおもとを誘ったが、おもとは決して受けなかった。
お琴が風呂に行ったすきに聞いてみれば、当然のように「男ですよ」と答えた。
「別に隠しておりませんが、こういうご時世ですもの。奇異な目で見られるのは主にとっても良いことではありませんしね。それにこの格好、似合いますでしょ。
お琴さん?一度も聞かれたことはありません。そうですね、未だに女だと思っていらっしゃる節が…。でもお琴さんなら知ってもそれはそれとして扱ってくださるような気がします」
何せおもとの声はふとすると野太くなる。
普段は格好に配慮してそれなりに声を出しているが、医学に堪能なものならやはり気づくかもしれない。
しかし、おもとの性別を疑わせない要素は、何と言ってもその容姿だ。
黙ってさえいれば相当な美人で通る。
「私の相手は女ではなく、どちらかというと男の方でないと。坂巻さんがその気ならそれはそれで。あら、急にそんなよそよそしくしなくとも」
坂巻はあれだけ傍にいながら気づかないお琴が不思議だったが、気を使わせないためにもこれでいいのだとやはり黙っていることにしたのだった。
いざ長崎が目の前に見えると、坂巻には心配ごとが一つあった。
「お琴さんとずっと一緒に旅をしたなんて直樹殿が知ったら、怒るだろうか」
「さあ、私は直樹さまと対面したことがないから何とも」
「…いや、そんなやましいことなんて一つもなかったと証言してくださるか」
「はあ、まあ、それは別に構いませんが。…直樹さまってそんなに嫉妬深い方なのですか」
「う、いやあ、どうなのかな。なんとなく静かに怒るような気がするよ、お琴さんに関して言えば」
「そうですか。美丈夫なんでしょう。楽しみですわ」
「そりゃもう花魁もなびくほどの…っと、お琴さんには内緒ですよ」
「…ええ。ここまで来て泣いて帰るなどと言われては元も子もありませんから」
…とまあそんな会話を交わしたのがつい先日のことだったのだ。
坂巻はようやく見覚えのある長崎の街並みを目にして、一刻も早くと少し痛む足をものともせずに勝手に駆け出して行ってしまいそうなお琴を押さえるのに苦労していた。

「慌てずとももうすぐです。この人波でそんなに慌ててはいけませんよ」
坂巻の声が耳に遠いくらい、お琴は浮足立っていた。
「お琴さん、お待ちください」
先に先に行ってしまうお琴に後ろからおもとが声をかける。
ようやくここまで来た。
同じ日本の空の下とはいえ、江戸と長崎ではあまりにも空が違いすぎていた。
江戸と比べればこちらはまだまだ暖かいくらいだ。
とはいえ、既に秋も深く冬は目前で、吹き抜ける風は冷たい。
旅装いのお琴たちを見れば、街道から入ったばかりの一行を宿に誘う声も華々しい。
ところがお琴は先ほどと同じ嫌な感触に身を震わせた。
「あ、今、感じた。さっきのと同じ嫌〜な感じ」
ふと前を見れば、そこには生白い顔をした蛇のようないやらしい顔をした男がこちらを見ているのに気づいた。
「うわ、何あのもみあげ」
お琴は思わずようやく追いついてきたおもとに向かってこっそりと言った。
「いや〜、きもちわる〜い」
「…あら、まあ」
「ああいうのを変態って言うのね」
もみあげ一つでそこまで言われるのはどうだろうとおもとは思ったが、それはあえて口にしなかったので、お琴は更に「うわ、もしかしたらあの人お医者?ほら、あっちに行ったわよ。あんな医者がいるなんて」と身も蓋もない。
顔で診察するわけではなかろうと思ったが、これも口には出さなかった。
「うわ、こっち見た」
お琴はそう言って先ほどと同じく身震いしている。
「ほらほら、そんなことを言っていると…」
「おや、坂巻君ではないか」
「えー、声をかけてきた」
お琴がすぐ後ろにいた坂巻を見た。
「久しぶりだねぇ。もう一度戻ってきたのかな」
「…お久しぶりです、大蛇森講師」
「うんうん、またよかったら医学館の方に顔を出してくれたまえ」
「…はい」
一瞬お琴を見た大蛇森講師が眉をひそめたが、何事もなかったかのようにそちらを無視して戻っていった。
お琴は坂巻をにっこりと笑って見ていた。
「坂巻さん、本当に長崎でお勉強されていたんですね」
「ええ、まあ」
「直樹さんもこの先に…」
「あ、お琴さん!」
おもとが止めるのも間に合わず、お琴は駆けて行ってしまった。道もよく知らないはずだがとおもとは焦ったが、坂巻は苦笑して言った。
「大丈夫ですよ。このまま真っ直ぐ行けば、自然と医学館と下宿にたどり着くはずです」
「でも、あのお琴さんですよ?どんな騒動を起こすかと思うと…」
そう言うおもとに坂巻は一瞬だけ考えると、「…追いかけましょう」と二人して駆けて行くのだった。
長崎の街中に取り残されそうになった荷物持ちの入江屋の奉公人が慌てて後を追うのも構わずに。

(2015/07/23)


To be continued.