大江戸恋唄



44

直樹さんが…と駆けだしたお琴は、坂巻の言葉通りにただひたすら真っ直ぐ進めばよかったのだ。
しかし、そこはお琴の本領発揮といったところで、曲がらなくてもよい角を一つ曲がった。
一つ曲がればそこは到底医学館とは全く関係のない長屋の続く通りで、かろうじて直樹の下宿先の裏、といった具合だ。
当然のことながら後を追いかけてきたはずのおもとと坂巻は、一瞬にしてお琴を見失った。
医学館までの通りはたいして人通りも多くない。
途中から徐々に人が少なくなるのを実感しながら男ばかりの医学館と下宿先に着くのが普通だ。
おもとの呼びかけに答える者はいない。
その頃のお琴は長屋の前を通りつつ、きっとこういうところに下宿もあるのだと信じて疑っていなかったからだ。
右も左もわからぬうちに、お琴は辺りを見渡した。
もうすぐに直樹に会うつもりでいたのに、どうしたことかとお琴は半泣きだ。

「…何を泣いてんねん」

長屋の奥から人が出てきて、お琴に声をかけた。
お琴は天の助けとばかりに振り向いた。
「あの、い、医学館に…」
「…あ?自分、医学館に用事かいな」
何やら懐かしい言葉遣いにお琴はちょっと微笑んだ。
「はい、あの、直樹さんに会いに」
「はあ?またか」
「また?」
「ああ、ようそういう女子が来るねんて」
「そんな…!」
「いくら会いに来たかて、今はよう動けんよって、来ても無駄や。はよ帰り」
「やっぱり、動けないほど悪いの?」
「そういや、その言葉、江戸者か」
「江戸から来たんです」
「江戸から…。ほな、まさか、直樹殿の…」
「お琴と申します」
「許嫁か!」
「え、そんな」
先ほどまで泣きそうだったお琴の顔は、一瞬にして朱に染まり、許嫁なんて…そうですけど…と照れた様子を見せた。
「…うわぁ、あかん。予想以上や。しかも何でこないなところにおんねん」
「え、医学館はこの先じゃ…」
「医学館はあの道を真っ直ぐ行ったところで、下宿はその隣じゃ」
「ええっ、じゃあ、あたし、やっぱり道を間違って」
「そういうこっちゃな。まあ、ええわ。わしも下宿に戻るさかい、連れてったる」
「ありがとうございます」
「いやー、そうか、そらこんなかわええ許嫁がおったらそりゃ他の女には目もくれんか」
「そ、そんなに他の女の人が…」
お琴は案内のために先を歩き出した男の後をついて通りを戻り始めた。先ほどの道に戻るだけだが。
医学館への道に出たところで、途方に暮れたようなおもとに再開した。
「お琴さん!」
少し首をすくめたお琴は、小さく「ごめんなさい」と素直に謝ると、後ろからやってきた坂巻が「ああ、お久しぶりです」と声を上げた。
「なんや、甚五郎殿か」
偶然お琴を保護したのは、かつての同室者、いまだ直樹と京者と同室で下宿している大坂者だった。
「まさか一緒に来たのか」
「そのまさかだよ」
「うわー、直樹殿が知ったらどないや」
「…ああ、それは、うん、まあ覚悟はしてるよ」
おもとはその会話を聞いて、坂巻の心配事があながち的外れでも大げさでもないことを悟った。
お琴は全くそんなことには関心もないようで、早く連れて行けとばかりに目を輝かせている。それでも先ほど迷子になったばかりなので、一応一人で先に行くことはせずにおとなしく案内されるのを待っていた。
「お琴さんが待ちきれないようなので、参りましょうか」
坂巻が気づいて促すと、一行はまずは直樹の下宿先に向かうことになった。
緩やかな坂を上ると、そこに大きな建物があった。それが医学館で、そこから少しだけ離れた建物が下宿先だ。
下宿先も一つきりではなく、いくつかの建物が連なっている。この裏手が先ほどお琴が迷いこんだ長屋になるわけだ。
大坂者は一足早く下宿先に飛び込み、大声を上げながら宣伝するかのように直樹のところに駆けて行く。
もちろん下宿先の他の下宿生にも知れ渡ることになり、お琴たちが下宿先の軒をくぐる頃にはすっかり下宿生たちの好奇の目にさらされることになったのだった。

下宿先の大家に江戸から持ってきた品々を渡して挨拶を済ませると、見舞い、という名目のために上がることを許された。
そう、下宿先は女人禁制だったのだ。
しかしお琴はれっきとした許嫁であり、見た目はともかく付き添いの男女(佐賀本家の入江屋の奉公人とおもとのことと思われる。もちろんおもとは女に勘定されている)を見れば、大店のお嬢さんとして身元もはっきりとしていたからだ。
実際には佐賀屋の娘でもないお琴だが、おもとはこの際誤解したままでもさほど変わらないから黙って上がらせていただきましょうとお琴に促した。余計なことを言ってここまで来て見舞い拒否なんて冗談ではない、といったところだ。
お琴が旅草鞋を脱いだと言っては下宿人たちの間からやんやと喝采があがり、直樹の部屋を案内する大坂者にまでさすがにうるさがられた。
襖越しに大坂者が「来たで」と声をかけると、京者はあらかじめわかっていたかのようにすっと襖を開けた。
奥に布団を敷いて横になっているらしい直樹の姿がちらりと見えた瞬間に、お琴の目から涙がこぼれた。
もっと騒々しく駆け寄るかと思っていた一行は、立ち止まったまま動かないお琴に驚いたくらいだ。
全く動かない直樹が、まるで死んでいるかのように見えたのだ。
恐る恐る近寄れば、疲れてよく眠っているのがわかったが、お琴にしたら生きた心地がしないくらいだ。
これだけの騒ぎの中で、いつもならすぐに目を覚ます直樹が目を覚まさないことにも、お琴は直樹の病の重さを感じた。
いつも気配には敏感な直樹だったのだ。
促されてお琴はようやく直樹の傍に座った。
「直樹さん」
お琴の声は、固唾をのんで見守る周囲の者たちにも弱弱しく聞こえた。
どちらかと言うと明るく弾むような声のお琴だったが、病人の傍ではやはり声を控えめにしているのだろうかと思うくらいの弱弱しさだ。これではどちらが病人かわからない。
「直樹さん…お琴です」
お琴の声に直樹のまぶたがぴくりと動いた。
少し身動きした直樹の腕が、掻巻(かいまき:綿入れ。掛け布団の代わりに用いる)の下から出た。
その手を取り、お琴が握ると、しっかりとお琴の手を握り返してきた。
「お琴ですよ、直樹さん」
お琴の言葉に目を開けた直樹は「…お琴?」と言葉を返した。
「はい、来ましたよ」
その瞬間、お琴は強い力で引っ張られ、直樹の上に倒れこんだ。そのまま掻巻ごと抱きしめられて、お琴はどうしていいのかわからないまま抱きしめられたままになっていた。
部屋の外からのぞき込んでいる面々から、おおっと声が上がった。
まだ寝ぼけているのか、直樹は「お琴…、また夢か」とつぶやいている。
「夢じゃ、ないです。直樹さん」
そう答えると、ようやく直樹はしっかりと目を開けた。
「夢じゃ、ない?」
そのまま直樹が飛び起きて、お琴は掻巻ごと転がった。
「ちょ、直樹さん、ひどい」
部屋の外からぶふっと吹き出したり「…ひどい」という声が聞こえたが、その後は必死に堪えているのか、ぐっとかうっとくぐもった声のみだ。
一方直樹はお琴が涙目になるのも構わず、飛び起きた反動で咳き込みながら転がっているお琴を見た。
「な…んで、いるんだ」
「来ますよって文も出しましたよね」
「…そうだった」
先ほどまで見ていた夢が、直樹にとってはかなり現実感を伴っていて、待てども待てどもお琴は来ずに、海の藻屑となる夢だったのだ。
お琴は気を取り直して咳も落ち着いた直樹に向き合った。
「直樹さん」
「お琴…」
お琴の気分は盛り上がり、いざ抱きつこうとするお琴を直樹はすかさず手で制して「ちょっと待て」と言うが早いか、襖に近寄りぴしゃりと閉めた。
もちろん部屋の隅にいた京者は蹴り飛ばして部屋の外に追い出した。
部屋の外からは「ああっ、いいところで」と悲鳴が上がる。
襖の向こうを睨みつけてからようやく安堵のため息をついて、直樹はお琴に近寄った。
「よく来たな」
「はい。女将さんがすぐに手配してくださって、船で小倉まで。そりゃもう早かったんですよ。船頭さんたちに帰りも乗ってくれって言われるくらい順調で…」
一所懸命話すお琴を見ながら、直樹はようやくお琴をゆっくりと抱き寄せた。
「長崎街道もそれほど苦も無く歩けて、あたし、旅には向いているかもしれません」
「ふーん」
「新しくおきよさんの代わりに来たおもとさんが…あの…直樹さん…」
「それで?」
「そ、それで…」
抱き寄せられたお琴の顔を直樹が見つめながら頬をなぞっている。
「とっても頼りになって、親身に世話してくださって…」
お琴は襖の外が気になって仕方がない。息を詰めているらしいが、襖の外の人の気配が消えない。
「そ、それに、坂巻さんも一緒に…」
「…坂巻?」
「ええ。佐賀屋に少しの間働いていたんです。それに長崎に詳しいからって…直樹さん?」
「へぇ…」
直樹がそうつぶやいた瞬間に襖の向こうでごそごそと音がした。明らかに居心地が悪そうだ。
「それは後でゆっくり話を聞こうか」
直樹の言葉にお琴はうなずいた。
「直樹さんの話も聞かせて」
「そうだな。その前に、襖の前で聞き耳を立てている者たちが後悔するような話をしようか」
「どんな話?」
「まずはそのかわいらしい口を閉じてもらおうか」
「直樹さんったら…」
そう言ってお琴は今までにない直樹の言葉に頬を赤らめながら口を閉じた。
ここで直樹の言葉とは裏腹に、お琴には軽く口付けをしただけだったが、襖の向こうではいったい何が行われているのかと聞き耳を立てる者もいれば、普段とは違う直樹の様子にうへぇと声を上げて立ち去る者もいた。
「直樹さん、会いたかった」
「…ああ」
襖の向こうとはまるで別世界のような会話にもお琴は苦も無く浸る。何せそういう再会を繰り返し繰り返し思い描いていたからだ。
一方直樹は、夢ならそろそろ覚める頃だと思いながら、ようやく腕の中に抱きしめたお琴がそばにいるのだと実感していた。
再び咳が出て、お琴に引きはがされるようにして布団に戻されるまであと少し。


襖の向こうで、おもとはかろうじて残っていた。自分が想像した以上の直樹にそれはもう一目で目を奪われて、一生あなたについていきますっと誓いを立てたほどだ。
大坂者は早々に這い戻った。あの仏頂面の直樹がどの口であんな言葉を吐いているのかと聞いているのがあほらしくなったのだ。
京者は、蹴って追い出された後も動かなかった。
あえて耳を襖に付ける事はしていなかったが、時に漏れ聞こえるお琴の言動に腹が痛くなるほど笑っていた。
坂巻は、お琴の口から名前が出た途端に生きた心地がしなかった。
後でじっくりと何を聞かれることかと寒気を感じて後退ったくらいだ。それでも今回は従者気分でついてきたのもあって、かろうじて廊下に留まっていた。
更に他の下宿生もいたが、お琴と直樹の会話を耳にしたが最後、畜生と呪いの言葉を吐きながらどこかへと消えていった。もしかしたら行先は丸山界隈かもしれない。
そんな面々は、直樹の咳で襖の向こうの世界がこちらとつながるまで、やや寒い廊下でひたすら息をこらしていたのだ。
この甘い甘い二人の会話がいつまで続くかと思っていたので、かなりほっとしたのは間違いない。
いくらなんでもここで何かあるほど直樹が理性を無くしてしまったらどうしようかとすら思っていたのだ。
もちろん直樹にしてみれば、冗談じゃない、といったところだ。
そんな皆の心配を全く意に介さなかったのは、おそらくお琴一人だろうと思うと、直樹とおもとはそこでようやくお琴についての認識を共有することになったのだった。

(2015/08/06)


To be continued.