大江戸恋唄



45

長崎に着いて、直樹の見舞いを終えると、一行は手配した宿へと向かった。
いくらなんでも直樹のところに居候するわけにもいかない。
おまけに日も程よく暮れてきて、お琴は名残惜しそうに直樹と離れた。
「また、明日来ますからね、直樹さん」
お琴はそう言って下宿先を出ていった。
帰るときには大坂者と京者が見送り、おもとはやや浮かれ気分なまま、坂巻は少しだけ憂い顔で、入江屋の奉公人はやれやれといった感じだ。
医学館の医師の診たてでは、そろそろ少しずつ動いても良し、と言われたようだ。
ただ、長い間寝込んでいたので直樹にまだ体力がない。徐々に動いて体力がついたならば、休んでいた勉強も進むだろう。
お琴はおもとと相談して、まずは精のつくものをこしらえて食べてもらおうということになった。
思わず坂巻とおもとが心配げに聞いた。
「それでお琴さん、まさか自ら手作りなさるつもりでは…」
「そうねぇ。でもまさかいきなりお宿で台所を貸してくれと言うのも」
「で、ですよね」
まさか余計に悪化するからやめろとはさすがに坂巻には言えない。
お琴の料理の腕は少しだけ住み込んだ佐賀屋の台所事情で十分に知っている。
ここはおもとがはっきり言うべきだとおもとに視線を送る。
「お、お琴さん。承知の上でしょうが、お琴さんの腕前は、きっと舌の肥えた直樹さまにはまだまだご満足いただける出来ではございません」
「…ええ、そうね。だって直樹さんたら、あたしが作ったものは全部まずいって一口分しか食べてくれなかったもの」
その言葉に坂巻もおもともほっとしたのもつかの間。
一応自分の料理の腕前は自覚しているらしい。
「でもあの頃より少しは上達していると思うの」 
そして、いらぬ自信も何故か持っている。
「こ、ここはひとつ手作りにこだわらず、明日は町を歩いて何か見繕ってみましょう」
おもとの声が上ずる。
「そうね。長崎の町を歩いてみるのもいいわよね」
「あ、案内いたしますよ」
坂巻も勢い込んで言った。
「ありがとう、坂巻さん」
その言葉の陰で、おもとと坂巻がそっと胸をなでおろしたのだが、もちろんお琴は全く気が付いていなかった。

 * * *

その頃江戸では、全くお琴の姿を見かけなくなった啓太が、大いに不審がっていた。
もちろんお琴の父である重雄も重雄の店で働いていた金之助も事情は知っていたが、まさか啓太がお琴に想いを寄せていたなどとは知らない。
いつもは重雄の店、福吉と直樹の実家である佐賀屋とを往復する道筋で偶然見かければ幸運だと思うくらいの啓太だったが、さすがにこうも見かけないと気になって仕方がない。
思い切って福吉の店先で聞くことにした。

「お琴?」

秋も終わりに近いとはいえ、空気も乾燥して土ぼこりの舞う店先で水をまいていた男が呼び捨て同然でそう言った。店のお嬢さんだというのに。
啓太は少々むっとしながらもうなずく。
見たところ料理人見習いであろう男は、啓太を上から下まで眺めた後にふっと息を吐いて言った。
「お琴は嫁に行った」
啓太は一瞬耳を疑った。
確かに嫁同然で佐賀屋にいるのは知っている。でもまだ祝言は挙げていないはずだった。
「でもまだ祝言は…」
「挙げてない。でも長崎まで追っかけて行ったとなりゃ、嫁に行ったも同然やないか」
「長崎に」
「そや」
短く答えた見習いの男は、再び水をまいている。
「…お琴はあの男しか見いへん。どんだけ待っても無理や」
啓太は見習いの男を見た。
「お琴の幼馴染で、お琴に惚れて振られた男が言うんやさかい、忠告と思ってよう聞き」
いや、それでもそう簡単に聞き分けられるものではない。
「あの男は一見ひどい奴や。そりゃもう何度殴ってやろうかと思ったわ。それでもな、お琴が生涯添いたい男は、あいつだけなんや。あの男もお琴しか見んやろうなぁ。一世一代の縁を断った男やしな。それにあのお琴が選んだんや。黙って見守るのも男っちゅうもんやないか」
水をまき終わった男は通りをひと眺めした後、満足したのか「ほな、あんさんもさっさと仕事に精だしな」と店の中に戻っていった。
啓太は水のまかれた通りをぼんやりと見つめてから、ようやく歩き出した。
今頃は長崎にいるだろうお琴にとっては、それが幸せなんだろうかと思いながら。


「お琴ちゃんがいなくて本当に寂しいわぁ」
今日もすでに何度目か。
店先で番頭も手代ももちろん主もそうつぶやく女将を見た。
この分ではお琴が帰ってくるまで言いそうだが、もしも直樹と所帯を持って家を出たらどうなるのだろうかと今から少し憂鬱だ。
佐賀屋ではお琴とおもとが長崎に行ってしまってから、何かと忙しい。
おもとが奥を仕切っていたのを再び女将が采配を振るうことに。もちろんそれは今までもやっていたことなので、問題はない。
お琴の担っていた仕事はたいしてない。それどころか仕事自体はいない方がはかどる。
ただ、奉公人の士気はいまいち上がらない。
奉公人にとっては騒がしいし、仕事は失敗することが多いお琴は、佐賀屋の嫡男の嫁候補(しかも佐賀屋夫妻のお気に入り)でなければ、正直勘弁してほしいところだ。
しかし、いなくなってみるとよくわかるのは、あの騒がしさすらも奉公人にとっては士気を上げる一つだったのだということだ。
お琴が一度実家に帰った折りには、火が消えたようになった佐賀屋だった。
騒々しさを上回る愛嬌は、望んでも簡単には手に入らないということを佐賀屋の面々は思い知ったのだった。
だから、今回の突然の長崎行きには誰もかれも心の準備が足りなくて、ここのところ女将をはじめ奉公人たちもやや気落ちしているのだ。
「お琴さん、今頃長崎で直樹さまに会えましたかね」
奉公人も女将の言葉にそう答えた。
「そうよね。お琴ちゃんがいなくて寂しい分、きっと長崎でお琴ちゃんが喜んでいるはずよね。そうでなければ直樹さんが帰った折には締め上げてやるわ」
そう言った後、「そうだわ!」と何かを思いついたように叫ぶと、さっさと部屋に戻っていった。
奉公人たちは顔を見合わせると、思わずやれやれとつぶやいた。
経験上、女将の思いつきは少々無理なことも強引に推し進める傾向があるのだ。
今度はいったい何を思いついたのか。
できれば奉公人は巻き込まれることがないといいなと思いながら仕事を進めるのだった。


いつも退屈を持て余している退屈侍…ではなく、旗本屋敷西垣家の三男坊で遊び人の穀潰しとまで言われる男は、今日も江戸の町をぶらぶらしながら女子に声をかけていた。
それこそ女子であるなら子どもからお年寄りまで万遍なく愛想のいい物言いは、むしろ感心するくらいだ。
そのせいか、これだけぶらぶらしていても金に困った様子は見られない。
決して羽目を外すことなく賭け事も程々。女子も後腐れのない者ばかり。
頭も悪くなさそうではあるのだが、定職に就く様子はなかった。
婿の口もいくつか話はあるのだが、未だ所帯を持つ様子もない。
西垣家ではもう好きにしろとばかりに、面倒事を起こさない限りは放っておいてくれるのが幸いだと言えよう。
そんな西垣の前をどんよりとした様子で歩いていくのは、いつぞやのめ組の大工だった。
「とうとう諦めましたって感じかな」
そうつぶやくと、最寄りの煮売り酒屋に入っていくのを見た西垣は、後を追って店に入っていった。
店に入れば酒屋の主の威勢のいい挨拶が降ってきた。中に入って見渡すと、仕事帰りの大工などで店はそこそこ混み合っている。早い時間から開いているせいか、大工ご用達という感じなのか。
あくまで偶然を装って「隣、いいかな」と大工の啓太の横に座った。
「あ…お久しぶりでございます」
目がうつろだったが、西垣を覚えていたらしい啓太は、西垣を見て挨拶をした。
「どうしたんだい。なんだか前にもまして元気がないようだけれど」
「いえ、ちょっと」
ぼんやりとそう答えて手元の酒をぐいっと飲んだ。
「そう言えば、お琴ちゃんはとうとう長崎に行ったそうだね」
ごほっと啓太がむせた。
回りくどく慰めるのは、面倒だとばかりに核心をついた。
「おやおや。いつかは行くかもと思ったけれど、これほど早く行ってしまうとは、さすがに予想はつかなかったね。どうやら賭けはお智の一人勝ちか」
「お、お智?!」
ようやくむせから立ち直った啓太が驚いたように言った。
「そうだよ。かわいい顔に似合わず、なかなかの女子だね。って、其方の方が承知か」
「…いや、まあ」
啓太とお智はどうやら幼馴染とまではいかないまでも家が近所で、そこそこ相手の性格はつかんでいると見えた。
「帰ってくるころには祝言か」
「う…」とばかりにまた啓太が少し落ち込んだ。
「まあ、今日は付き合ってやるから、飲みたまえ」
そう言って西垣は啓太の茶碗に酒を注ぐのだった。

 * * *

江戸でのことなどすっかり頭から抜け落ちたかのようにお琴は浮かれていた。
ついているおもとは江戸での佐賀屋のことが気になってはいたが、自分たちがいないくらいでどうにかなりはしないとわかっていたので、この長崎滞在を楽しむことに決めた。
そして若干不安にもなっていた。
このまま長く滞在してしまうと、冬の訪れがやや遅いとはいえ、いずれ雪も降り、旅は困難になる。
江戸への帰着が遅れてしまうと、ひと冬の間はこちらに足止めだ。
お琴はそばに直樹がいればそれで満足なので気にはしないだろうが、滞在費も馬鹿にならない。
いくら佐賀屋が大店とはいえ、ひと冬の間、ずっと宿で逗留できるものだろうかと心配していた。
一緒についてきた入江屋の奉公人は、別行動で長崎での商談をあれこれまとめているらしい。
おもととて、佐賀屋の一奉公人であり、お店の事情は気になる。
どうしたものかと思っていると、通りの向こうから華やかな女人がやってくるのが見えた。
「おもとさん、あれ」
そう言ったお琴の言葉によく見れば、丸山遊郭から異国の者と一緒に歩いてくるのは、どうやら花魁らしい。
花魁を見慣れないお琴とおもとは、しばし見とれていた。
長崎を案内するつもりで一緒にいた坂巻は、その異国の者と歩いてくる花魁を見てやや顔を青ざめさせた。
こんな長崎の町まで出てこられるのだは、よく見なくとも丸山でも一、二を誇る花魁だけなのだ。
禿と男衆をつけ、優雅に凛としたたたずまいで歩いてくるのは、あの梅田屋の椎乃太夫だった。
「はあ…きれいねえ」
女のお琴ですらため息をつかせるほどの美貌だ。
「松本屋のお裕さんも負けるかも」
「まあ、あちらは見た目が勝負の花魁でしょうし。あのお裕さんだって、ああいう格好をすればきっと一世一代の太夫に上り詰めるでしょうよ」
「あたしじゃきっとせいぜいが小見世かしらね。おもとさんならそこそこ稼げそうだわ」
「いえ、私は…」
おもとは男娼の店ならばいけるかもねという言葉を飲み込んで、花魁たちが呉服問屋に入っていくのを見送ったのだった。
坂巻はあからさまにほっとした息を吐き、おもとにちらりと見咎められたが、とりあえずお琴にばれなければそれでいいとばかりに知らない振りをした。
お琴はそのまままた自分の想像の世界に入ってしまったのか、ぼんやりとしている。
もしかしたら生活が苦しくなった直樹のために吉原かどこかに身を売った自分を想像でもしているのかもしれない。
縁起でもないとばかりにおもとはお琴に声をかけた。
「ほら、あの惣菜のお店をのぞいてみましょう。いい匂いがしてきますよ」
「そうね」
想像も一通り済んだのかそう言うと、張り切って惣菜の店に足を踏み入れたのだった。

(2015/09/03)

To be continued.