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翌日は直樹のもとに朝からお琴がやってきた。かなり起き上れるようにはなってきたが、まだ相手をするのも万全ではない。あれこれと世話をしたいお琴が直樹に話しかけるが、できれば静かに寝かせてほしいと思っていたりする。
「それから、これ。手作りでないのが申し訳ないのだけど、直樹さんに食べてもらおうと思って」
そう言って差し出したのは、通りにある惣菜屋の一品だった。芋をうまく煮てあるところは、真っ茶色に焦げ付きそうなほどだったお琴の手作りとは違っておいしそうだ。
正直、今は作って食べてくれと言われても臓腑に自信がない。
「…ああ、おしんさんの店だね」
「そうなの。直樹さん、よく寄っていたって聞きました。このお芋、本当においしかった。だから直樹さんにもって思って」
受け取って一口食べれば、苦みもなく、生煮えもなく、ほろりと崩れる。
思わず最初におしんの惣菜屋に寄った日のことを思い出した。
おしんはお琴がやきもちをやきようがないほど年季の入った女性だ。
「まあ一口食べてごらんよ」と食べさせられ、「ああ、うまいな」とつぶやいた直樹の表情を見たのか、「誰と比べてんだい」と笑われた。
程なく許嫁の料理が下手なことまで口走りそうになり、それ以来芋煮は買わなかったのだ。
こうしておいしいものを食べていながら、しかも勘弁してくれと思っているのに、あのお琴の壊滅的な芋煮が口にしたくなったからだ。
「そ、それからね、あの」
「…なんだよ」
「その、すぐに帰らなくっちゃって思うのだけど、直樹さんの様子が心配だし、もう少し長崎にいてはだめかしら」
死にそうになっていたのだから、慌てて家族が駆け付けるのは予想していた。それがまさかお琴とは思わなかったが。
夏の虎狼痢の時ももしかしたらもう会えないかもしれないと思っていたのだから、これもまた運命なのかもしれないと直樹は思った。
「ついて来てくれた女中さんはどうするんだ」
「おもとさんは、あたしがいるなら一緒にいますと言ってくれるんだけど」
「そうか、いい人だな」
「そうなの。文にも書いたけど、あのおきよさんの姪御さんなの」
そこで直樹はちょっとだけ疑問に思った。
おきよには姪がいたかどうか覚えがなかった。
そして、一緒に戻ってきた坂巻が少しだけ言い難い顔をしていたのを思い出していた。
「…しかし、すぐに冬が来るぞ」
「ええ。雪が降ってしまったら、江戸に帰るに帰れないし」
「長崎に飽きたら佐賀に行けばいい」
「それもご迷惑なのでは?」
「いつまでも宿に逗留しているわけにもいくまい」
「…ええ。今回もおじさまとおばさまに無理を言ってしまって」
「かと言ってここまで来てとんぼ返りと言うのも…な」
「あたしもちゃんと考えてみるから」
「…そうだな」
そう言うと、直樹はお琴の手を取った。
「お琴…」
「なあに、直樹さん」
二人で見つめ合ったのもつかの間。
「お〜い、直樹はん」
お約束のように京者が現れた。
二人は思わず笑い合い、それでもなかなか手を放せなかった。
* * *
江戸ではお紀が張り切っていた。
その張り切りようは、二人が江戸に戻ってからでもいいのではないかと何度か番頭と手代が忠告しようとして果たせなかったゆえの罪であるかのように。
「ああ、女将さん…」
二人は為すすべもなく手をこまねいていた。
「旦那様〜、あれでは奉公人に示しがつきませぬ〜」
二人が佐賀屋の主に泣きついたのは当然のことだろう。
佐賀屋は一応主である重樹が切り盛りしているが、その重樹も張り切った女将にはどうしようかと頭を悩ませていた。
これが何か散財をして佐賀屋の身代を傾けるようなことでもあれば咎める理由にもなろうが、女将が張り切るばかりでは身代はびくともしない。何せ一時期の身代がつぶれるかと思うような時期を無事に乗り越えたのだ。商いは順調で、何も心配することはない。
そして、つい先日までは長崎に行ってしまった娘同然にかわいがっていたお琴が心配でろくに寝られないほどだったのだ。
正直言えば、病を得た息子はここまで心配してもらえただろうかとちょっと二人は気の毒に思ったくらいだ。
いや、心配はしていただろう。おそらく。何せかわいい娘同然のお琴を速攻で送り届けたのだから。しかも奥を取り仕切るおもとまで供に付けて。
その後の文が届くまでの憔悴ぶりは、ちょっと言葉に言い表せられないほどだったからだ。
文が届いて回復を知らされるとみるみるうちに女将は回復した。
元気が出て良かった、くらいにしか思っていなかったのだ。
ところが、日に日に女将が考えていることがわかるにつれて、喜ばしいにもかかわらずあまりにも早すぎやしないかと心配になってきたのだった。
女将の浮かれように引きずられたかのように奉公人までそわそわしていた。
何せめでたいことなのだ。
しかし、当の本人たちは江戸にはいない。
…いないのだ。長崎に行っている。
「まだ早すぎやしませんか」
番頭は少しぼやく。
主に代わり店を取り仕切ることもある番頭は、女将の言い分がさも当然のようなことに落ち着かなかった。
言っていることもわかるし、反対する気はない。
「まあ、おめでたいことですからねぇ」
そう言いながらも手代は手を休めずに小物を磨く。どうしていいのかわからないのはこちらも一緒なのだ。
この二人とて、女将に逆らう気はさらさらない。
どちらかと言うと賛成ではあるのだ。
だが、本人たちがいないのをどうやって取り仕切るのだ。
「…江戸にいなくてどうやって婚礼を上げさせるつもりなんでしょうねぇ…」
二人は揃ってため息をついた。
つまりはそういうことだったのだ。
二人はあの気難しい直樹も幼い頃から知っている。
出来が良くて見栄えも良い。
どんな良縁も望むままと思われた。
呉服問屋のお嬢様との縁談も手放しで喜んだこともある。
しかし、預かりとなったお琴とのことを知ってからはそれも一変した。
あの気難しい直樹が、笑うのだ。
ついぞそんな笑顔は見たことがなかったから驚きもひとしおだった。
番頭などは幼い頃の直樹を見知っている。
男児は病に触れやすいからと七つの年まで女の恰好をさせることがあるが、それがえらく似合っていた。
どこぞのお嬢様にも負けない小町ぶりだったのだ。
しかし、結果的に言えばそれが原因で気難し屋の坊へと変わってしまった。
付け届けの文もあっさり読まずに捨てるほどの冷血ぶりだ。
それは将来を背負う主と思えば変な女に引っかからなくて好ましいものと映った。
しかしいつまでもそれでは嫁も気の毒だ、とちらりと思ったことも確かだった。
それがあのお琴が来てからの変わりぶりは、さすがに奉公人一同どうしたことかと目を見張ったものだった。
お琴は確かに小間物のことなど知らないが、そこそこの料理屋の一人娘でもあった。
何より主夫妻がその気性を気に入ったというのが大きい。
こういう婚儀の方が上手くいくもので、番頭はこれで佐賀屋も安泰だと思ったものだ。
まあもちろんその後もすったもんだの末、直樹は長崎に医者修行に、二男の裕樹が佐賀屋を継ぐと決まったわけだが。
「だからと言ってもう婚儀を決めるというのは、いったい直樹さま方はいつお帰りになるとお思いで?」
聞いてもらちのあかぬ問いを番頭は繰り返した。
「…さあ、ここは旦那様方にお任せいたしましょう」
手代はそう答えるしかなかった。
* * *
江戸から戻ってきた形の坂巻には、もう一つ目的があった。
一度は商人になろうと決心したものの、やはり捨てきれずに江戸において再び医者修行に精を出すことになった経緯はお琴からの文で知っていた直樹だ。
これには松本屋をはじめとする佐賀屋の主も坂巻に再び長崎での医者修行を続けることを勧めたのだ。
金銭の問題もこの二方からの援助で解決しようとしていた。
もちろん借りっぱなしではなく、誠心誠意をもって医者修行に励み、少しずつ借金を返していくのだ。
直樹はその決意を聞いて、うなずいた。
商人を勧めたのは、あの時医者をやめると言った坂巻の心情と懐具合を気にしてのことだ。
医者修行はいつでもできる。
資金がないというのならば作ればよい、というわけだ。
直樹ほど商才があるかどうかは不明だったが、本気で医者になりたければ、道は遠けれど再び戻ってくるだろうと思ったのだ。
何も医者になる道は一つではないからだ。
直樹自身もこの道と決めるまでに少なからず葛藤したこともあったからだ。
「それならこのままこちらに残るのだな」
「ああ、先だって医学館の講師方に頼み込んで復学を許してもらった」
「おまえは真面目だったから、講師方の覚えも良かろう」
そこで坂巻は笑った。
「医学館ではお琴さんの噂で持ちきりだった」
「ふうん」
「特にあの…」
「ごめんくださいよ」
「噂をすれば何とやらかも…」
そう言って首をすくめた坂巻だったが、このまま逃げ出そうとすると直樹に逃げさせまいと腕をつかまれた。
「直樹殿、そろそろどうですかねぇ」
現れたのは、人一倍噂に対して過剰反応を示した大蛇森講師だった。
直樹の目の前の位置を目でどくように坂巻に指示すると、自分は直樹の目の前に座り、御自慢の聴診器を取り出した。
「いえ、もう明日から医学館に顔を出しますから」
そう言って聴診器の使用を暗に断った。
「おや、そうですか。先日はまだ少し胸の音に不安なものがありましたが」
「いえ、もうすっかり良くなりました。これも大蛇森講師のお陰です」
「ほほほ、そうでしょう、そうでしょう」
機嫌良く高笑いする大蛇森医師を横目に、直樹は取りすましている。
坂巻は大蛇森の後ろに控え、そりゃお琴さんが来たものなぁと一人うなずいていた。
「それでは、また明日から直樹殿の顔を見られるのですね」
「そのようですね」
「それでは明日からを楽しみにして、今日はお暇いたしましょう」
そう言って腰を上げかけた時、下宿にまたもや誰かの声が響いた。
「お邪魔いたします」
その瞬間の大蛇森講師の顔を坂巻は後ろにいたお陰で見ることはなかった。
坂巻は今は来ない方が…と言いに行こうとして立ち上がりかけたが、お琴の方が素早かった。
あたかも何か天敵を見つけたかのような鋭さだった。
一方の大蛇森講師も負けじと「どういことですか、女人禁制の下宿にあのような女の声が響くなど!」と声を張り上げた。
開いていた襖からお琴の顔がのぞいた。
大蛇森講師が廊下を見た。
「…ひっ」
坂巻は知らずうちに声が出てしまっていた。
直樹は青ざめながらも黙っている。
そこには虎と龍ならぬ大蛇となめくじの…いや、それ以上は考えない方がいいと坂巻は頭を振った。お琴をなめくじなどに例えたとそんな事を知られたら、と坂巻は直樹を盗み見たのだった。
二人はお互いを天敵と認めた(ように思えた:坂巻談)。
「直樹さんを診ていただいた先生ですね。このたびは大変ご迷惑をおかけいたしました」
いつもよりずっとましに大蛇森講師に対して挨拶をした。
「いえいえ、迷惑だなんて。優秀な若者を失うわけにはまいりませんからね」
「私が来たからにはもう大丈夫です」
そう言ってお琴は胸を張った。
「いやいや、まだ少し本調子ではないようですが、何かおかしなものを口にしたりしていないでしょうね」
「してません!」
「女中か何かで?」
「許嫁です」
ここで少し大蛇森講師はひるんだ(ように見えた:坂巻談)。
「ほー、噂になっていた許嫁とやらはあなたのことでしたか。あまりにも直樹殿と比べて貧相…いえ慎ましいお顔でしたので、ついうっかり女中と間違えてしまいました」
お琴はむくれて直樹を見た。
「優秀な先生が人格まで優秀とは限りませんものね。直樹さんだってどちらかというと偏屈だし」
「そりゃ馬鹿の子ほどかわいいというからな」
「それって、あたしは馬鹿だって言ってるんでしょ」
「…よくわかったな」
「もう、直樹さんったら!」
ここまで来ると眺めているほうはどうやら痴話げんかの類だとようやく気付く。
だいたい憎まれ口をたたきながらも終始直樹が笑顔なのだ。
「こ、こほん、では、医学館でお待ちしておりますよ」
遮るようにわざとらしく言って、大蛇森講師は出ていった。もちろん最後にはお琴の顔を恨みがましい目で睨みつけることも忘れずに。
「べーっだ、おととい来やがれ」
「しゃーっしい女子ばい!」
にわか対決はどうやら引き分けのようである。
坂巻は一人襖の内側で冷や汗を拭った。
悪口というのは通じる通じないに関わらず、人を不快にさせることだけは確かなようだ。
そう言えば以前エゲレスの船員が悪態をついたときも、先輩方に通じないにもかかわらずお互い罵詈雑言の限りを尽くしていたようだし、と坂巻は思い出していた。
はっと気づけは直樹とお琴は二人の世界に突入しようとしている。
もちろんここは下宿なので、そういう雰囲気になろうとも事は起こせない場所であるから、居心地の悪ささえ気にしなければ、慌てて坂巻が辞することもないのだが。
そしてこの日の対決は、尾ひれをつけて医学館中で噂されることとなる。
それは死にそうな相手に一目会いに江戸から来た健気な許嫁から、男の毒牙にかかりそうな相手を助けに訪れたはねっかえりの女闘士へと噂が様変わりし、まだ姿を見ぬうちからお琴を崇拝し、心を寄せるものが出たとか。
もちろんその噂の出所全てを医学館に復帰した直樹がつぶして回ったことなどは、同じ下宿でも同室の者しか知らないという。
(2015/10/08)
To be continued.