大江戸恋唄



47

霜月に入ったが、ここ長崎では案外まだ暖かい。と言うのも江戸と比べての話だが。
それでも冬は確実に近づき、そろそろお琴も身の振りを考えなくてはいけない。
今から江戸に向けて旅立っても、江戸に着くまでの間に冬が後を追いかけてきて、やがて追いついてしまうだろう。
そんな中、江戸から文が届いた。
差し出し人は佐賀屋のお紀。もちろん直樹の母だ。
そして直樹もお琴も知らなかったが、それよりも先に佐賀の入江屋だの多良の一色屋敷にも文は届いていたのだ。
そろそろ江戸か入江屋にと思っていた二人は、これ幸いとばかりに文を開いたのだが。

「なっにー!」
「ええーーーーーっ!」

下宿部屋に二人の声が響き渡った。
すっかりお琴は大家の公認となって出入りを許されている。
そんな下宿に尋常ではない直樹の叫び声が響いたのだ。
下宿中の人間が驚いて直樹の部屋に集合した。
襖の外から何が起こったのだとのぞいている。
お琴といるときには消えている眉間のしわが、今や盛大に出現している。
お琴はただただ口を開けて固まっている。
これはどうしたことだと声をかけようもなくのぞいている面々の後ろから坂巻と京者、大坂者が揃って戻ってきた。

「なんや。何が起こったんや」
「どないしました」
「お琴さんまで」

三人も尋常ではない叫び声を聞いたものの、二人が喧嘩していないことにほっとした。
直樹とお琴は何かというとじゃれつくような(下宿人談)喧嘩ばかりしているのだ。
出会った時からというのだから、あほらしくてやってられんわ、とさじを投げられた。
「…いや、すまない」
怒っているのか驚いているのか青ざめているのか、はっきりとしない顔色で直樹が言った後、お琴は文を持って走り出した。
「お琴!」
おそらく宿にいるおもとの元まで行くのだろうと予想はついたのだが、直樹もぼんやりしている場合ではない。
すぐに文机に向かうとものすごい勢いで文を書き出した。
そのままの勢いで三通書き上げると、その三通を持って下宿先を急ぎ出ていった。
結局叫んだ理由は何なのかわからないまま、下宿人たちは放っておかれることになるのだった。


お琴はこちらも勢いのまま届いたばかりの文を握っておもとの元へと駆け戻った。
「お、おもとさん!」
勢い込んでおもとを呼ぶお琴に驚いて、宿の入口に入った途端に宿の奉公人が気を利かせて奥の部屋にいたおもとを呼んでくれたのだった。
「どうしたんです、お琴さん」
「ふ、文が…」
そう言って手に握られて半ばしわくちゃになりかけた文をおもとは受け取った。
読み始めてすぐに「何ですって?!」とこれまた直樹とお琴のように宿中に響くかと思われるほどの声で叫んだ。
「…あ、あら、私といたしましたことが。失礼いたしました」
すぐに気づいて宿の者に詫びを口にしたが、そのままお琴を引きずるようにして部屋に戻った。

「どういうことですか、これは」
「あ、あたしだって今文で知ったばかりだし」
「…そうですね。そうですよね。ええ、わかっておりますとも。
それにしても、女将さんったら、なんて無謀なことを」
「そ、そうよね。だって、まさか、そんな」
そこで二人してもう一度文をのぞきこんでそれぞれ声をあげた。
「こちらで婚儀をとは!」
「こっちでお式をって?!」
つまり、お紀が文で知らせてきた内容というのは、どうせならそのまま長崎で冬を越せばいいという至極ごもっともなことと、ついでにそのままそちらで仮祝言を挙げてしまいなさい
というとんでもない計画が記されていたのだった。
その根回しにすでに佐賀の親戚筋に話をつけているので、近いうちに二人揃って佐賀まで行くようにとのことだった。
そもそも長く滞在するにはただの物見遊山では年若いお琴のことが心配なのだと。
そして、いつもは離れていて会うこともままならない親戚に、お琴が直樹の選んだ花嫁だとお披露目するのが良いとの計画らしい。
仮祝言なので派手にできるわけではないが、そこでひっそりと(親戚中に知らせてはひっそりとは無理な話だが)挙げた後は、江戸に帰ってから盛大に(当然お紀のもとでまた挙げさせるつもりらしい)祝言を挙げてお披露目すればいいというお紀の壮大なる計画に二人とおもとは声を上げたのだ。
「でも…祝言を挙げれば下宿を出てお二人で暮らすこともできそうですよね」
「あ…そういうことなのね」
お琴は途端に二人だけの生活を夢見て「直樹さん、朝ですよ…なんて、なんて…きゃっ」と一人で顔を赤らめている。
「いえ、残念ですが、私もしばらく通わせていただきますよ。だってお琴さんにご飯づくりは無理でございましょう」
「…で、できるわよ。教えてもらったじゃない」
「病み上がりの直樹さまをもう一度床に就けさせたいですか」
「…う…はい」
「で、直樹さまは何とおっしゃったんですか」
「…あ!文を持ってそのまま出てきちゃった」
「ああ、仕方がないですね。ではおもとがひとっ走り…」

「佐賀屋お琴様、お客様が…」

「あら、あちらからお見えになったようですわ」
おもとがそう言うと、現れたのは直樹だった。
宿の者が持ってきた茶を受け取り、直樹はお琴とおもとの部屋で座り込んでため息をついた。
「直樹様、御無沙汰しております。お琴さんに任せきりにいたしまして」
まずはおもとがそう言って詫びを述べると、直樹は「いや、こちらこそお琴の世話をありがとう」と返した。
「おもと、文は読んだな」
「はい」
「どう思う」
「そうですね。最初は驚きましたが、悪くない話だと思えてきました」
「…そうか」
「このままこの状態で残っているのも少し不自然ではありますし、かと言って当初の予定だった春まで入江屋か一色屋敷にお世話になるのもお琴さんにとっては少々辛いことでしょう。それくらいなら、仮祝言でも挙げてこちら長崎でともに暮らしながら春を待って江戸に帰るというのも一つの手ではありますわね」
そう言っておもとはお琴を見た。
お琴は少しぼうっとしているのが少々不安だが、おもとの話は一応聞いているらしい。
一色屋敷はお紀の在所だが、そこはその辺り一帯の庄屋であるため、部屋はいくつも余っていそうだったが、逆に住んでいる者も多い。
その面々を思い出して直樹は少しだけ笑った。
それはともかく、おもとと直樹は細かい話を詰めることに。
そもそも祝言を挙げる挙げないは別にしても、お琴をこのままここに置いておくわけにはいかないだろうというのが二人の意見だ。
春まで宿に滞在するだけの財力はあるだろうが、それでも一度は傾いた佐賀屋の身代をさらに削ることは本意ではない。
更にお琴の足では今から江戸に戻っても、雪が途中で降りだしてなおさら辛い旅になるだろう。
お紀はそこまで考えていたのだろうか、とおもとは考えたが、察した直樹が首を振った。
「いや、それは後からの考えで、祝言ありきだろ、あの人は」
「…ああ」
おもとは直樹のお紀に対する正確な批評に思わずうなずいてしまった。
「文によるとすでに話は入江屋にも一色屋敷にも話がいっているという」
「はい」
「そうなると、どちらからもこちらで祝言を挙げろという声が出てくるだろうな」
「そういうご親戚様ですか」
「…まあ、入江屋は商い大事で無理は言わないだろうが、叔父たちは張り切るだろうな」
「一色屋敷様の方は」
「あちらは、口うるさいご長老のような人たちがたくさんいるんだ」
「…あら」
「きっと俺の嫁はどんな女か見定めてやろうと待ってるんだろうな」
「それはそれは」
「しかし、移動となるとやはり佐賀の入江屋でのほうがいろいろと面倒がないだろうな」
「一色屋敷様には佐賀まで出てきてもらう方がよろしいでしょうね」

「ねぇ」

ずっと黙っていたお琴だったが、ようやく口をはさんだ。
「聞いてると、それって、仮祝言を挙げるって言ってるみたいに聞こえるんだけど」
「…ああ、言ってるな」
「そうですわね」
おもとはお琴が改めてちゃんと聞いていたのかと茶をすすった。
お琴は直樹の腕をつかんだ。
「しゅ、しゅしゅしゅしゅ…」
「…黒船みたいだな」
「祝言!」
「なんだよ」
「祝言、挙げるの?あたしと」
「おまえ以外の誰と挙げるんだよ」
「だって」
「いずれは挙げるつもりだったろ」
「そうだけど」
「少しくらい早くても問題はないだろ」
「で、でも」
「おまえの親父さんに祝言も挙げていないのに一緒に住むとかそんな娘に育てた覚えはないとか言われそうだからな」
「あたし、江戸に帰ってからだとばかり」
「…江戸でも祝言させられるだろ、多分」
「ど、どういうこと」
「今回挙げるのは仮祝言、てことだろ。それにあの母がこんな楽しそうなことをこちらだけで終わらせるとかないだろ。あくまでこちらでは一緒に住むための口実の仮祝言てことだ」
「じゃあ嘘なの」
「…おい、嘘ってなんだよ」
「だって、一緒に住むための口実ってことは、嘘の夫婦になるってことでしょ」
「…おまえな…」
おもとは再び茶をすすりながらまるで他人事のように「直樹様、がんばってくださいませ」と小声で言った。
直樹はおもとの言葉に盛大に息を吐いてから一気に言った。
「よく聞け。仮祝言ってのは、急ぎ夫婦になりますが、認めてくださいと身内に知らせるための式だ。俺たちの親は揃って江戸にいるし、後で盛大に祝言を挙げて友人知人を呼んでやるだろうが、ここでは仮祝言でもしないと夫婦と認めてもらえないだろ。
それともおまえは長崎に来て早速男を連れ込んだ女って言われたいか」
お琴はぶんぶんと首を振った。
「許嫁と知っているのも下宿人と医学館の一部の連中だけだから」
「じゃあ、あたし、直樹さんのつ、妻になって…」
「ちゃんとけじめをつけるってことだ」
「そう、なの…。よかった…」
「二人で一緒に住めば皆は夫婦だって自然に思うだろう。俺はまだ勉強中の身だから、本当なら江戸に戻ってからと思っていたんだが、おまえがずっといるとなると…」
おもとは直樹を見て、ああ、はいはいとさりげなく立ち上がった。
お琴はすでに涙目だ。
すぐに泣く、と直樹はお琴の涙をぬぐった。
おもとが部屋から出て静かに障子戸が閉まった時、直樹はお琴を抱き寄せた。
「まさか仮祝言が嫌だとは言わないよな」
「言いません。言うわけ、ないです」
「おまえを手に入れるのは、ちゃんとけじめをつけてから、と思っていたんだ」
「あたしはあの時からずっと直樹さんのお琴ですよ」
さも当然のように言うお琴に直樹は苦笑した。
「…仮祝言まで…あと少し…待つか」
そう言うと、お琴にそっと口づけた。


数日後、直樹のもとに入江屋、一色屋敷の両方から文が届いた。
一色屋敷から不満の文句はあれど、直樹の言い分を了解したとの旨が記されていた。
一方入江屋からは、既にお紀からの文で着々と準備が整っているとの返事であり、既に直樹が了解するしないの問題ではなく、いかにして直樹を入江屋まで連れてくるのかという話になっていたのだという。
その際には入江屋の主が病だと見舞いに来させる手筈まで考えられていたというから、むしろ承諾してよかったと言うべきだろう。
直樹の方も医学館に届けを出して佐賀まで行く手筈を整えていた。
江戸から来た許嫁と一緒になるためだとの噂はすぐに回った。
下宿の連中には、何故こちらで祝言を挙げないのだと言われる始末で、あくまで佐賀の親戚筋からの要請でと言い分を通した。
これで佐賀から帰った後には下宿を出ることになり、改めて祝いの宴を催そうという話で決着がついた。
何故か医学館の大蛇森講師にはずっと恨みがましく睨まれていたのだが、直樹が医学館での修業を疎かにするのではないかという心配でもしているのだろうと思い、仮祝言の後にもきちんと勉学に励むと伝えると、途端に機嫌を直したのだった。

佐賀までの日数がかかるため、早速旅立つ準備をしていると、一通の文が舞い込んだ。
その淡い匂いに、直樹は少し顔をしかめながら文を開いた。
差し出し人はどこにも書いていなかったが、直樹の仮祝言の話を聞いて急ぎ乱れた文を装い、それでいて風雅な言い回しと艶やかな筆跡は、誰と言わず丸山を思い起こさせた。
お琴に見られれば、すぐに女人からの文だとわかるが、それでいて一見季節の挨拶程度のことしか読み取れないくらいのものだ。
しかし、散りばめられた言葉の端々には、暗に直樹が仮祝言を黙って挙げることへの妬みが感じられた。
もちろん報告する義務などない。
もっと言えば、禿の治療のために通っただけで、決して花魁のために通ったわけではない。
もちろんわかっていてこの文なのだから、直樹はため息をつきながらも筆をとった。
それならそれで季節の挨拶を返して、全くこの文の意味に気付くこともない、という風を装って、この度の仮祝言を報告し、花魁と禿の身体の調子を尋ねる程度にとどめた。
あくまで花魁と個人的に会ったことはない、と言外に主張した文は、花魁が見ればなんてつれないと憤慨するだろうが、それには構わない。
今ここでお琴にへそを曲げられてはたまったものじゃないからだ。
七輪にでもくべて燃やしてしまおう、と思ったところに、お琴が来た。

「直樹さ〜ん」

しかも返事はまだ文机の上だ。
どうしようもなくて、丸山からの文は懐に入れる。
何故今なんだ、と直樹が思いつつお琴に今すぐ出ていけとはとても言えない。
お琴は機嫌よく直樹に言った。
「今日は直樹さんが生まれた日とお聞きしていたので」
そんなふうに言われてしまえばなおさらだ。
「あ、ああ、そうだったかな」
正直生まれた日などどうでもよかった。
「これ、直樹さんに」
そう言ってお琴は何かを差し出した。
「直樹さんはたくさんお勉強なさるから」
…筆だった。
確かによく傷むし、ありがたい。
…が、今はそれに関する話題は出来るだけ避けたい。せめてこの懐の文を処分するまでは。
堂々と見せてしまえばいいのかもしれない。
今までだって山ほど文をもらっていた直樹なのだ。今更一通くらいもらってもさほど変わりはない、と開き直りたいところなのだが、お琴はいい気はしないだろう。
「直樹さん、御文なら、あたしが後で出してまいりましょうか」
文机の文を見てそう言った。
幸いなことにまだ宛名は書いていなかった。
しかし、宛名は丸山の梅田屋とあればどう言い訳しても無理だろう。
「いや、まだ書き足すことがあるから、後で出してくるよ」
「そうですか。では、この筆の書き心地を…」
「今?今かよ?いくらなんでももったいないだろ」
思わず心の声がそのまま出てしまい、お琴が驚いた。
「まあ、直樹さん。もったいないかもしれませんが、使わずにしまっておくのはもっともったいないかと」
「…いい。後で感謝して使う」
その言葉にお琴はふふふとうれしそうに笑った。
ほっとして直樹は「明日の朝も早いし、今日はもう休みなさい。おもとに迷惑をかけてはいけないし」とお琴を宿に返すことにした。
「そうですね。久々にまた歩くことになりますものね」
そう言ってお琴は素直に帰っていったが、直樹はようやく安堵の息を吐いた。
そうしてから、同室の下宿人が帰ってくるまでに丸山からの文を黙々と焼いて隠滅したのだった。

(2015/11/12)



To be continued.