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翌日は肌寒い中でもよい天気だった。早朝、七つ時半(冬の入口なので午前五時くらい)に長崎を発ったお琴と直樹、それにおもとと入江屋の奉公人は、一路佐賀宿に向かって出発した。
あれこれと荷物を持とうとしたお琴だったが、全部おもとと直樹に止められ、しぶしぶほとんどの荷物を直樹の下宿に置いておくことにして、宿屋を引き払った。
お琴には内緒で当分の間の住まいとなる長屋を手配することもしていたのだが、それは佐賀から帰った後でいいだろうと、あえて直樹の下宿に荷物を置いたのだった。
佐賀までの道のりは、二人とも一度は通った道でもあるので、さほど苦ではなかった。とは言っても峠越えは寒くなったこの頃では冷たい風が吹き付け、次の宿場に着くまでに体が冷える事もあった。
およそ四日をかけて佐賀宿にたどり着いた一行は、早速入江屋に。
着いたが早々にお琴は体に着物をあてがわれ、あれやこれやと婚礼の準備に追われた。
もちろん婚礼は明後日だったが、一色屋敷からお紀の父母である直樹の祖父らが着くのは明日の予定だった。
少しはゆっくりしようと思っていたお琴と直樹は、この騒動に驚くとともに江戸に戻ってからの婚礼を思って今から戦々恐々とするくらいだった。
とにかくすでに婚礼の日も決まっているし、準備もつつがなく進んでいる。
二人して驚きながらもようやく夫婦になるという実感が沸いてきたのだった。
翌日は一色屋敷からお紀の父であり、直樹の祖父が到着した。
お琴を見て頭の悪そうな、といった嫁いびりかとも思える感想を述べたが、それ以上はさすがに口を控えていたようだった。
ようやく明日は婚礼という日になって、お琴はそっと直樹に寄り添った。
「直樹さん。明日、本当に直樹さんと夫婦になるのね」
「まだ信じられないか」
「ううん。時々、あたしでいいのかなって」
そう言ったお琴に直樹は少し息を吐いて言った。
「おまえは憶えていないかもしれないが」
「何でしょうか。直樹さんには悪いけれど、どちらかというとあたしには憶えていられることの方が少なくて」
「俺もあまり思い出したくない頃の話なので、口にするのもはばかられたんだが」
「はい、それで」
「小さな頃、俺の家に同じ年の頃の子どもが遊びに来ていた」
「小さな頃で直樹さんが思い出したくないというと、もしかして女の子の…」
「それで」
直樹は少しだけそれ以上言うなとばかりに語気を強めた。
「ああ、はい、ごめんなさい」
察したお琴は慌てて謝りの言葉を口にした。
「仲良く遊んでいたんだが、ある時その子の母が寝付いたらしく」
「はい」
「あまりにも泣くので」
「まあ、かわいそうに」
「ずっとこの家にいればいいと言ったんだ」
「…へぇ」
少しだけ顔を曇らせたお琴の手を取った。
「ところがそいつは、今この家に来たら、母だけでなく、父も寂しがってしまうので、と断った」
「まあ、そういうことになりますわね」
「俺が不機嫌な顔をしたら、大きくなったらきっとこの家に来ます、と約束していったんだ」
「そうですか」
「約束通り、来たな」
直樹の言葉にお琴は驚いたように直樹の顔を見た。
「ど、どこのお嬢様ですか」
「そこにいるおっちょこちょいの女だ」
「そこってどこ?」
「…おまえだ、おまえ!」
「あ、あたし?」
「…やっぱり憶えていなかったか」
お琴は目をぱちくりとさせて「ああ!」と手を叩いた。
「やっぱりお会いしてたんですね」
直樹は首を傾げてお琴を見た。
「あの絵姿を見た時、女の子に会ったことがあると思ったんですよね〜。あ、直樹さんの小さい頃ってことは知らなかったんですが」
「…ああ、そうかよ」
「ああ、すっきりした。そうですか、直樹さんと会ったことがあったのですね」
直樹は少し不機嫌な顔で応じた。
「俺は今、すごく感動的な話のつもりでおまえにしたつもりだったんだが」
「え、あ、そ、そうですよね」
お琴はようやく気付いたように顔を赤らめた。
「つまり直樹さんはあの頃からあたしと一緒にいたかったと」
「そうは言ってない」
「では、あの頃からあたしと一緒になる予感があった、と」
直樹は一つため息をついて「もうそういうことでいいよ」と諦めたように言った。
「確か健一郎もいつかそんなこと言ってたような気がするし」
「健一郎…さま?」
「手習いと道場で一緒だった眼鏡のやつだ」
「ああ、あの方ですね。えっと、確か八丁堀の渡会さま」
「…渡辺だ」
名前まで見知っていたとは意外だ、と思いながら直樹はお琴を見た。そう言えばこいつはいつも手習いでもじっと見ていたし、道場でものぞきに来ていたっけ、と思い出していた。
お琴は一人で「そっかー、直樹さんとあたし、運命の相手だったんですね」とつぶやいている。
「その後再会しても全く憶えていなかったし」
「福吉が壊された時ですか?」
「もっと前。おまえに再会しても女の恰好では仲良くは出来ても一緒には住めないとどこかの小僧に言われて、試しにあのなりで会ったら、あのなりですら憶えていなかった事がわかって、馬鹿らしくなって女の恰好もやめた」
「そうだったんですか。あたし、本当に頭が残念な出来で…」
「ああ、本当だな」
やや八つ当たり気味な直樹の言葉に少し不機嫌になりながら、お琴はちょっとだけ意地悪のつもりで言った。
「それで、男の恰好に戻って仏頂面になったとか?」
「…ああ、そうだな」
あっさりとそう言われて、お琴は口ごもった。
「ということは、直樹さんの性格は、あたしのせいだってことに?」
「そうかもな」
「そうだったんですか。大丈夫です、直樹さん。直樹さんがどんなに偏屈でもあたしが責任を持って一生面倒見ますから」
直樹はお琴の言葉に今度は口ごもった。
「明日一緒になるっていうのに、ひどい言われようだな」
「え、あ、でも、直樹さんはあたしにとって運命の人で、一生を添い遂げるつもりで追いかけてきた人で、それに」
直樹はひとつ息を吐いた。
「一応俺もそれなりに感動的な何かを言おうと思っていたんだがな」
そしてお琴の顔を見て微笑んだ。
お琴はその珍しい微笑みにうわあと感嘆の声を上げたが、その口は素早く直樹の口でふさがれた。
「一生、そばにいてくれ」
耳元でささやかれた言葉にお琴は失神寸前だったという。
* * *
一晩明けて、お琴はすっきりと目覚めた。
直樹との愛が深まった、と思うと独りでにふふふと笑いが止まらない。
それを一色屋敷の長老に聞きとがめられて、注意されたばかりだ。
入江屋、つまりは佐賀屋の主である重樹の兄夫婦が用意した婚礼衣装に身を通したお琴は、今まさに化粧を施されようとしていた。
お琴は恐る恐る持っていた紅を差し出した。
「あの、これをつけたいんです」
その紅は、直樹が江戸から長崎に向かう前に渡された大事な紅だった。
ほとんど減ることのなかった紅だったが、正直もったいなくて使えなかったお琴だった。
長崎に来てからもそっと懐に忍ばせてはいたのだが、しっかりとした化粧をする機会もなく、せっかくの紅も使わずじまいだったのだ。
お琴の手に乗った紅を見た入江屋の女将と奉公人は、顔を見合わせてうなずいた。
そっとお琴の紅を手に取り、お琴の唇に紅を乗せていった。
お琴は塗り終わってからようやくその紅を見た。
少し減ったその紅は、再び閉じられ、お琴に返された。
「おきれいですよ」
「ええ、本当に」
二人の言葉にお琴は泣きそうになるのを必死に堪えた。
化粧を施す前に散々皆に言われ、直樹にも化粧が崩れては台無しになるぞと脅されていたのだ。
鏡にぼんやりと映った自分の姿に、お琴はこれなら直樹と釣り合うだろうかと思っていた。もちろんぼんやりとしていたのは自分の目に涙が盛り上がっていたせいなのだが。
「よろしいですか。どうしても涙がこぼれてしまうときには、素早く目元をこの布で軽く押さえるのですよ」
そう教えられたものの、いささか自信はなかった。
昨日から一色屋敷の長老に直樹にはもっとふさわしい嫁がいたろうにと言われ、少々落ち込んでいたのだ。
もちろん直樹が父に勘当されてるのも知っていたが、それとこれとは別のことらしい。
一色屋敷の面々はこちら長崎にまで勉強のためにやってきたことは喜んでいたのだ。いっそ多良に医者として来てくれればよい、と思っていた節がある。
入江屋としては少し複雑な気分だった。
先代が江戸に苦労して店を開いて、日本橋通りにこの店ありとまで言われる大店にまでなったというのに、その跡取り息子は家業を継ぐのを断って長崎にまでやってきたのだ。
付き合いのある大店のお嬢様を断るにはこれしかなかったということだが、それほどまでしてお琴を選んだ理由がわからなかったからだ。
長崎に行く前に立ち寄った時には、思ったよりも気性の良い娘であるとわかったが、それでも商売人としては直樹の聡明さが、跡取りを諦めるにはもったいないと思ってしまうのだった。
入江屋の女将はどちらかというと大人しめの女性だったが、お紀と気が合っていたという。
入江屋の主たちと違って女将の方は、お紀からの文で直樹の相手はお琴しかいないと確信していた。
何よりも表情に乏しい、どちらかというと無愛想と言っても過言ではない直樹が、お琴といるときだけは生き生きとした表情を見せるのだ。
行きは別々に来たのでよくわからなかったが、二人でいて初めて気づいた。
それに、商売人としてはあの無愛想さは少し酷だ。なまじ顔がいいだけに余計に冷たく見える。商売に興味もあまりなさそうなところは、奉公人には悪影響とすら言える。
お紀の言葉と同じく、お琴のような嫁が来て良かったと入江屋の女将は思ったのだ。
もしもこのまま商売人になるのなら、お琴が必要不可欠だっただろう。
むしろそちらの方が惜しいと言わざるを得ない。
「そういうことをどうして男はわからないのでしょうね」
入江屋の女将はただただ緊張して式が始まるのを待っているお琴にそうつぶやいたのだった。
直樹は直樹で、入江屋の女将が心配していたことを入江屋の主と一色屋敷の長老方に言われていた。
「佐賀屋を継ぐ気は全くないのかね」
「ええ、弟の裕樹がいます。彼ならよい主になるでしょう」
「それなら医師として多良に来るのはどうかね」
「残念ですが、江戸でお琴の父が待っていますし、まだまだ師に指示を仰ぐことも必要です。いきなり開業は無理です」
そう言って言葉巧みに断るのを繰り返していた。
そしてお琴に関しての嫌味も出る。
「料理屋の娘といったって、格式ある店ではなかろうに」
「何もできないような娘をもらっていったい何の得が」
そんな言葉を言われた直樹は、大変怖い顔で言い放ったという。
「…お琴でなければ、俺は一生独り身だったでしょう。女どころか人そのものと付き合うのが嫌になっていたのですから。相手がたとえどんな美人だろうと大店のお嬢さんだろうと一緒です」
そこまで言われてようやく入江屋の主も一色屋敷の長老たちも相手がお琴であることには諦めたようだった。
お琴はお琴で着慣れない衣装に加え、親戚一同が会し、おまけに聞き慣れない言葉も飛び交い、緊張が度を越して、三々九度ではお酒をこぼしかねない勢いだった。
「直樹さん、あたしがあまりにもおっちょこちょいなんで呆れてるんでしょ」
それまで親戚筋の戯言に不機嫌気味だった直樹は、お琴を見るとひとつ息を吐いた。
「確かにあれこれ言われて腹が立ったが、おまえがきれいだから、もういいよ」
お琴は再び目を潤ませて直樹を見た。
そして、意を決したように直樹に言った。
「直樹さん、丸山の花魁と何かあっても、一生一緒にいるのはあたし、ですよね」
親戚に酒を注がれて口にしようとしていた直樹は、思わずぶっっと吹き出した。
「な…」
げほげほと直樹らしからぬむせ方にお琴の方が驚いた。
「だ、大丈夫ですか、直樹さん」
「なん…で、丸山が」
「禿の治療に行って花魁に気に入られていたとか」
「いったい誰がそんなことを」
「…下宿で大変な噂でしたけど」
「言っておくが」
「何もない、んですよね」
「…そうだ」
「直樹さん、嘘つけないから、信じています」
それでもすっきりしないものを感じて直樹は下宿の面々を思い出す。いったい誰が余計なことを、と。心当たりがありすぎて一人に絞れなかった。
「そもそも花魁と何かあるどころか、あれ以来丸山になぞ一度も行ったことはない!そんな余分な金があったら…」
二人ははたと気づいた。
いつの間にか座がしんと静まり返っていたのだ。
直樹の花魁、丸山という言葉に皆が反応したのがわかる。
二人して「違う、違う!」と言いながら首を振る。
ひそひそとおば連中が直樹を見る。
「違うんです、直樹さんはそんなところに個人的に行くわけないじゃないですか」
お琴がそう力説すればするほど、直樹はひどい男に成り下がっていく。
「直樹さんはお医者様として…」
「…もう、いいよ、お琴」
疲れを感じた直樹がお琴を止めた。
どう頑張っても今のこの雰囲気では、直樹は新婚早々丸山に花魁を買いに行く男で定着しそうな感じだ。
「もう、違うのに」
お琴は涙目だ。
それがますますお琴をかわいそうな嫁として噂されるに違いない。
どうあっても二人は噂されることになる。
しかし、男連中は直樹に酒を注ぎながら「いやー、うらやましい」とか「男の甲斐性ですな」と誤解も甚だしい。
もしやお琴も丸山から落籍されたのでは、という噂まで出る始末だ。
「ひどい噂だわ。あたしだってまだ直樹さんと…」
そこまで言ってお琴はようやく気付いた。
「…えっと、今日、初夜ってことですよね」
「そういうことだな」
あっさりと言われ、お琴は真っ赤になってうつむいた。
「あの、どうすれば」
「なるようにしかならないだろ」
「ああ、だから直樹さん、花魁にその仕方を手ほどきしてもらうために…?」
とんだ誤解だ、と直樹は目をむいてお琴を見た。
「そんなわけないだろっ」
「そ、そりゃ百戦錬磨の花魁にはかなわないかもしれないけど」
「だから誤解だ。何度言ったらわかる」
「花魁というからにはきれいな方なんでしょうね。一度拝見したことがあります」
「…ああ、そうだったかな」
ひどい噂もどうでもいい気がしてきていた直樹だったが、どんどん酒が入って宴もたけなわになってきた座敷を見て、隣にいた比較的まともな入江屋の女将に言った。
「もう俺たちどうでもいいようだから、抜けるよ」
入江屋の女将はあら、と笑うとお琴にそっとささやいた。
「心配なさらずとも、旦那様の言う通りでいいんですよ」
「は、はいっ」
途端に緊張しながらそう返事して、お琴はそっと座敷を直樹に連れられて出ていった。
二人に用意された部屋は、既に布団も敷かれていて、お琴は婚礼衣装をやっとのことで脱いだ。それこそ一人では無理で、奉公人をいまさら呼ぶのも野暮だと直樹が手伝うことに。
「な、なんだか、少しき、緊張しちゃって」
震える手で脱いだ衣装を掛けると、あとは地味な小袖姿に。とは言っても小袖も新調したものだ。
直樹も手早く小袖姿になると、なんとなくお琴は布団の前に座って直樹に頭を下げた。
「ふ、ふ、不届きものですが」
「ぶっ、そこは不束者だろ」
直樹は緊張感もなくつい大笑いしてしまった。
「も、もう、そんなに笑わなくても」
「ああ、悪かった。つい、お琴らしくて」
「そ、それでは」
「…お琴、一つ言っておく」
「はい」
少し拍子抜けして、お琴は直樹を見た。
「俺は医者になる。花魁だろうと他の女だろうと、病気になれば診なければならない」
「はい、そうですね」
「それをいちいち悋気《りんき》されては堪らない」
「…わかりました、肝に銘じます」
「だが」
「はい」
「俺が唯一抱きたいのは、お琴、おまえだけだ」
「…はい」
「わかったな」
「こ、こんな胸がなくて、女らしくなくても…?」
「それはどうでもいいことだ」
直樹はお琴の手を取り、そっと抱き寄せた。
「今日まで、長かったな」
「平気です。こうして一緒にいられるだけで幸せなことですから」
「俺は、もう、平気じゃない」
そのままお琴を布団に横たえると、直樹はそっとお琴の小袖に手をかけた。
お琴は目を閉じてその瞬間を待っていた。
遠くに聞こえる宴会の騒ぎを他人事のように感じながら。
(2016/01/11)
To be continued.