大江戸恋唄



49

少し肌寒い、と思いつつお琴は寝ぼけていた。

「おい」

「おもとさん、もうちょっと」

「誰がおもとだ」

頬をぎゅっとつねられ、ようやくお琴は目を開けた。
目の前に見慣れない顔があって、しかもこちらを見つめている。
思わず声を上げそうになったところで気が付いた。
「な、直樹さん」
叫ばなくて良かったと引きつる顔で思った。
見つめている顔も同じように叫ばれなくて良かった、とほっとした顔をしている。
手が口をふさごうとしたところで止まっているのも仕方がないと言えよう。
昨夜はいいところで親戚連中に踏み込まれた。
直樹の怒りはすさまじく、酔った親戚連中を蹴り飛ばして追い出したものの、改めてお琴に向き合う気分ではなかったらしく、ふわふわの布団を引っかぶって寝てしまった。
お琴は寝相が悪く、布団を蹴飛ばしていたせいか、朝の寒さに目が覚めた、というわけだ。
「…昨夜は…」
飛び起きたお琴は顔を赤くしてうつむいた。
いいところで、と思っていたので余計に恥ずかしかったのだ。
直樹はお琴が起き上がるのを見ると、おもとを呼んだ。
おもとは気の毒そうな顔をしながら現れた。昨夜の騒動を知っているのだ。
本当なら恥じらう新妻をからかう予定だったのに、とんだ始末だ。
「さ、お琴さん。気を取り直して、お支度を」
結局ほどかれることのなかった小袖の紐だと言うのに、その姿は少々寝乱れていた。
おもとは慣れているのか、手早くお琴の今日の召しものを用意すると、ではこれにお着替えを、と再び部屋を出ていった。
町娘のお琴に着替えの手伝いはいらない。同じく直樹も自分のことは自分でする。
おもとを呼んだのは用意された部屋にお琴の着物が置いてなかったせいだ。
いつもの部屋とは違うこの部屋に、あの親戚連中が乗り込んだ、というわけだ。
もちろんそんな趣向もちょっとした初夜のおふざけでもあったのだが、直樹の方はおふざけでは済まない気分だ。
朝からぴりっとしたこの冬の空気のような中、お琴と直樹は朝餉のために広間に行った。
酔いつぶれた親戚の半分はまだ起きてきていない。
そんな中を直樹が冷えた空気とともに広間に現れると、広間の空気がさらにひんやりと下がったようだった。
「起きてきたね」
入江屋の主はにこやかに話しかけたが、「…おはようございます。大変面白い趣向でした」と直樹が答えれば、向かい側に座っていた親戚が首をすくめた。
よくあることだ、とお琴は女将さんたちに聞いてはいたので、こういうものだと納得していた。
台所では女衆たちが忙しく朝食の準備をしていたが、さすがにお琴は今回ばかりは先に広間に座っていなさいと促されたのだ。
その際に昨夜の夫たちの顛末について謝罪された、というわけだ。
おふざけが過ぎるのも困ったことだが、これも二人の婚姻をあれで喜んでいるのだと言われれば、許さざるを得ない。
女将の時も乗り込まれて、そのまま寝所で酒盛りが始まってしまったというのだから、酒好きの親戚連中にも困ったことだと皆が笑った。
なので、直樹の怒りはともかく、直樹ほど夜に思い入れは少なく、何よりもやはりまだどうしていいかわからなかったせいで、少しだけほっとしたのだ。もちろんこれは直樹には明かせないのだが。

黙々と食事を終え、親戚連中はそれぞれまた郷里へと帰っていく。
それを見送りながら、直樹は不機嫌なままだ。
「直樹さん、そろそろ機嫌直してくださいな。皆さん困っていらっしゃいますよ」
お琴にそう言われた直樹は、さすがにいつまでも大人げないかとため息をついた。
「…わかった。今夜は、ちゃんと覚悟してろよ」
ふざけてそう言えば、お琴は「え、あ、はい」と小走りに走って行ってしまった。
もちろん初夜に期待していた。
何度か我慢に我慢を重ねたのだ。
それもこれもきちんと祝言を挙げてから、というけじめを直樹なりにつけようと思っていたからだ。
「だからと言って、それを全部お琴さんにぶつけてしまってはだめですよ」
少し呆れたようにため息をつきながら、おもとが忠告したのも無理はない。
「まあ、お琴さんならいざとなればなんとかなるでしょうが、あれで年下のお嬢さんよりよほど初心なんですから」
「…わかっている」
むっとしたように直樹が答えれば、「御頼み申しますよ」と言ってさっさと戻っていった。
一人残された直樹は、どこからどう見ても女ではあるが、実は男であるおもとに悪態をつきたいところだった。何よりも直樹よりお琴に信頼されていそうなところとか。
いや、だめだ、と頭を振って考えを改めた。
あれほどきめ細やかな気づかいをする奉公人を失うことになったら、どうあってもお琴に怒られそうだ。
おまけに直樹が雇っているわけではなく、あくまで佐賀屋の雇人なのだ。
そんなことを考えながら部屋に戻ったので、先ほど届いたらしい文が置いてあるのを見た途端に思わず八つ当たりした。
差し出し人は、佐賀屋。紛れもなく直樹の母であるお紀からだった。
今の気分で見たくもなかったが、後で知らされるのもと思い、嫌な気分のままばさばさと文を広げてみれば、相も変わらず能天気な文だった。
そのままぐしゃりと文を握りしめたところでお琴がやってきた。
先ほど顔を赤らめて恥ずかしがって去っていたことなどけろりと忘れたかのように、「直樹さん、文が届いたんですって?」とやってきたのだ。
力いっぱい握りしめていた文を「あら」と言って引き取った。
精一杯伸ばして、文句を言うでもなく読み始めたが、中ほどまで読んだところで「いやだ、おばさまったら」と照れだした。
能天気な文の内容は、一刻も早く江戸に戻ってこいだの、いやそれでは二人きりで満喫できないだろうからやはりゆっくりでいいだの、二人の子どもがいつか見られることを楽しみに待っているだのと、およそ今この時に送ってくる内容の文でもない。文代の無駄遣いというものだ。
「あ、直樹さんと所帯を持つってことは、おばさまじゃなくて、お母様ってこと、よね?」
そうかわいらしく聞いてくるお琴に、直樹は朝っぱらから押し倒しても文句は出ないだろうかと考えるほどに。
「ところで直樹さん、いつ長崎に戻るのですか」
「…ああ、近いうちに」
「明日とか明後日とか?」
「雪で峠が閉ざされる前に」
「でしたら、二、三日のうちにですね」
「あと七日もいたら、雪が積もってしまうから」
「わかりました」
医学館には休学を申し入れたとはいえ、長崎に帰ってからもまだやることがある。新居の準備と引っ越しだ。
もちろん荷物などたいしたものはないが、それでも何もなしでは生活もできない。
ほとんどは損料屋(今でいうレンタル)に借りることになるが、一日や二日ではきついだろう。ましてや佐賀からの旅路を考えれば、そう長いことはいられない。
「直樹さん、あたし、立派な嫁になりますから、見捨てないでくださいね」
直樹はそう言って拳を握ったお琴に笑った。
「期待してねーから、そのまんまでいいよ」
二人して見つめ合い、そのまま口づけてしまおうかと思った時、部屋の外から遠慮がちに声がかかった。

「直樹さま、お琴さん、入江屋の旦那様が…」

「あ、あら、おもとさん、どうぞ」
お琴の言葉にそっと襖が開いた。
「申し訳ございません。入江屋の旦那様が急ぎ話があるとおっしゃいますもので」
おもとは直樹の顔をそっとうかがうようにしてそう言った。
「お邪魔、でしたでしょうか」
「まさか!」
お琴はすかさず答える。
「ああ、昼間っからそんなわけないだろ」
思わず力を込めて直樹が応えた。
「ま、まあ、そ、そうですわよね、おほほほ…失礼いたしました」
お琴はうつむき、直樹はそっぽを向き、少々気まずい空気が流れたが、おもとはふうと息を一つついただけでやり過ごすことにしたのだった。

 * * *

あれからさらに二晩、結果的に直樹はお琴と床入りするのを阻まれた。
何がどうしてそうなったのか、と言えば。


「近くで起こったこととは言え、どうして俺が」
「でも直樹さん、頭が良くて、剣の腕もおありだから」
「おまえな…。おまえだろ、余計なことを言ったのは」
「え、あ、あたしは、ただ、直樹さんは道場で一番強くてかっこよかったと」
「ああ、もういい」
入江屋の二軒隣の蝋燭問屋で、嫌がらせがあった。
それも店の前で小僧がぶつかった、それだけで因縁をつける浪人がいたのだ。
それだけなら関係ないのだが、そこの蝋燭問屋の一人娘がそれに付け入られたため、お向かいの油屋の次男坊が助けに入った。
これも放っておけばそれでよかったのだ。
ところが、致命的に油屋の次男坊は弱かった。
殴られただけで蝋燭問屋のお嬢さんが連れ去られる寸前だった。
そこで仕方なく…呼ばれたのが入江屋に滞在する直樹だった、というわけだ。
そのまま放っておけとでも言えば、お琴は泣いて詰る。
そんな、お嬢さんが連れ去られるじゃない!と嫌がる直樹を連れ出した。
岡っ引でも呼べば、という直樹に「もう呼んだ!」と答える蝋燭問屋のお嬢さんは、えらく気が強かった。
直樹の助けなんかいらないんじゃないかと思うほど。
「お嬢さんを離しなさい!」
おせっかいにも、お琴がそう叫んだ。
他に大勢見世物のように大人がいる中で、浪人二人相手に誰も助けないのも確かに変だった。誰も巻き込まれないようにと躊躇したせいだ。
「お、こっちの女も連れていくか」
そう言ってお琴に手を掛けようとした浪人を見た瞬間、直樹はそばにあった消火用の天水桶を投げつけ、なぜかお琴が持っていた心張棒(家の入口の戸をつっかえる棒)で浪人二人をやっつけることに成功してしまった。
剣の腕を知っているのはお琴ただ一人だったが、勇ましくも自分が使おうとしていたらしい。入江屋から出てくるときに拝借してきたというわけだ。
もちろん浪人が剣を振り回すこともあり得たのだが、そこは頭になかったらしい。
どちらにしても直樹は腕っぷしも強い。あの顔で小さな頃から嫌がらせや人さらいの類などを避けるために鍛えたお陰だ。
「さすが直樹さん」
何故かお琴が自慢げだ。
それにも呆れたが、お琴なので諦めた。
それよりも汚い手でお琴に触れられるのが嫌だったので、それはそれで満足している。倒れた浪人に対してはざまあみろというところだ。
倒し終わったところに岡っ引がやってきて、浪人たちを連れて行ってくれたが、話を聞きたいと言った岡っ引に正直に話せば、直樹もお琴も入江屋も蝋燭問屋も油屋の次男坊もまとめて説教をくらう羽目になった。
聞けば蝋燭問屋には先代からの借金があり、それをあの浪人たちが取り立てにやってきたところだったのだと言う。
油屋の次男坊は、昔から蝋燭問屋の一人娘を嫁にしたくてうろうろしていたし(周知の事実だったらしい)、入江屋の主はたまたま通りかかっただけなのに、蝋燭問屋の娘が先日の祝言は自分ので、入江屋とは懇意だと口から出まかせを言ったのがそもそもの原因だった。
お騒がせな蝋燭問屋の娘はそれこそ説教に次ぐ説教と、あの大店に何てことをと慌てふためいた蝋燭問屋の主夫妻は寝込んでしまうし、この通り界隈では大騒ぎだったのだ。
おまけに当然のことながら、浪人をやっつけた直樹はかっこよかった。
通り中の女性の心をわしづかみだ。
祝言を挙げたばかりとは残念と皆が諦める中、蝋燭問屋の娘はなかなかしつこかった。
油屋の次男坊まで巻き込んで、連日ぐったりとしていたのだった。


「そもそも余計なことに首を突っ込むな、と言っただろ、俺は」
「…はい」
「だいたい…」
そこまで言いかけて、直樹ははっと気が付いた。
これではまた今夜も説教で終わってしまう。
「…寝るぞ」
「はい」
この二日間、どうでもいいことに気を捕らわれすぎて、すっかりお琴とただ布団を並べて寝るだけになってしまっていた。
それなので、お琴もすっかりその雰囲気に慣れてしまって、今もさっさと自分の布団におさまって寝ようとしている。
「ちょっと待て」
「…はい?」
「何でそう平気で寝られるんだ、おまえは」
「えーと」
二人して無言で向き合った。
「あれ?あの、ちょっと待ってください」
お琴は今更慌てたように直樹に背を向けた。後ろを向いたまま「そう言えば、あたし、まだだった」とか「普通に寝るところだった」とかなどとつぶやいている。丸聞こえだ。
「まさか、今更嫌になったわけじゃないだろうな」
お琴は驚いて振り返った。
「そんなわけないです!そんなっ、あたしだって、その」

「あら、まだ本当の夫婦になったわけじゃないんでしょ?」
笑いながら蝋燭問屋の娘に言われたのはつい昼間のことだ。
お琴はそう言われて初めて気が付いたのだ。
そもそもなんでわかったのだろうと、つい邪推した。
まさかお琴と床入りする前に蝋燭問屋のお嬢さんが押し倒したとか…?
そんなことを想像してしまったので、昼間のお琴はかなり泣きそうだった。

「だって、あの、直樹さん、いろんな方からいろいろ言われて、あたしなんて、その、全然経験もないですし」
「…あってたまるか」
「え?」
「おまえの初めては全部もらう」
「そ、そうですか」
「だから、もう今夜は、誰にも邪魔させない」
「…はい」
「あのうるさい娘にも堂々とできるだろ」
「聞いて…」
「やってないだけで夫婦否定されちゃたまんないね」
「や、やってないってそんな」
直樹の言葉にお琴は顔を赤らめてぶんぶんと頭を振っている。
それでも冷静に直樹が言った。
「本当だろ」
「…はい」
少ししょぼんとしてお琴がうなずいた。
「それなら、やればいい」
「…直樹さん」
「それに今夜は、命かけて誰にも邪魔させるなと言い含めておいたから」
「それって、おもとさんに…?」
「もう他の男の話はするな」
「え、でも、おもとさんは」
「…お琴」

いつもの何十倍も優しく名前を呼ばれて、お琴はうっとりと目を閉じた。
何よりも直樹がいつもより優しくて、お琴はそれだけで気を失いそうだった。
恥ずかしくて困っても、その夜の直樹は許してくれなかった。
もっと恥ずかしがればいいし、泣いてもやめてやらない、などと言われてしまっては、さすがのお琴も何も言えなかった。


その晩、直樹とお琴がこもっている奥の部屋へと続く廊下の手前で、少しだけ寒さに震えて布団をかぶりながら、おもとは寝ずの番をしていた。
他の奉公人や入江屋の主夫妻がすぐ隣の部屋へと促しても、頑として受け付けず、何事もないことを心から願っていた。

「ええ、何が何でも今夜ばかりは何事もおきませんように。火事だろうと強盗だろうと、今夜ばかりはこのおもと、命を懸けて阻止させていただきますから!」

おもとが真に直樹の恐ろしさを知ったのはこの時だったという。

(2016/02/19)



To be continued.