大江戸恋唄



50

「お琴ちゃん、魚食べるかい?」
「はい、いただきます」
「とめさん、お琴ちゃんには焼いてからでないと」
「いや、そろそろ独り立ちしないと」
「まあた真っ黒焦げだよ」
「あの仏頂面の旦那がさらに仏頂面になるかねぇ」
「あっはっは」
「あ、あの、がんばります」
「大丈夫。煮つけにすりゃあええ」
長屋のおかみさんたちは新婚のお琴をからかいながら、お琴に魚を分けてくれた。
お琴はざるを受け取りながら、その上に乗った魚を突いて微笑んだ。
よく脂ののった魚を見ながら、今日は魚か〜と一人つぶやいた。

佐賀での祝言から数日後、一通りのごたごたを経て、ようやくお琴たち一行は佐賀から長崎へと戻ってきた。入江屋から長崎に同じように奉公人が道中のお供について来てくれたりもした。
すぐに季節は本格的に冬に入り、江戸に帰るのは春以降と決めて長屋で暮らし始めたのはつい最近のことだ。
この長屋暮らしの間に二人は夫婦として生活し、おもとは一時的に長崎の茶屋で働くことにした。
江戸に帰るまでずっとぶらぶらとしているわけにはいかないし、それこそ佐賀屋に頼りっぱなしになるのに気が引けたからだ。
本来なら佐賀屋の奉公人であり、滞在費もすべて佐賀屋が用意すると言われていたのだが、お琴は直樹と二人の生活を始めたため、おもとには手伝い以外にやることがなくて暇だった、というのが本音だ。
一方直樹は医学館での修業を進めていた。何せ春にはお琴とともに江戸に帰ろうともくろんでいるからだ。
祝言を挙げた直樹は、皆にからかわれながらも祝福されて下宿先を出た。
お琴と住むのにちょうど良さそうな長屋を先に見つくろっていたお蔭で、佐賀から戻ってすぐに長屋暮らしを始めることができた。
長屋のおかみさん連中は皆気のいい人ばかりなのが幸いし、直樹よりも先にお琴は長崎に馴染んでいった。

医学館では江戸から戻った坂巻が復学し、直樹と入れ替わるようにして下宿の同じ部屋に戻った。
その直樹を恨めしそうな顔で見ていたのは、お琴の天敵とも言える講師の大蛇森で、変わらずお琴と顔を合わせると何だかんだと文句をつけたりもしていた。
「直樹殿、あんな気の利かなさそうな飯炊きもろくにできないような嫁で大丈夫なんですかねえ」
と大蛇森が嫌味とともに吐き出せば、
「男と女の患者の扱いに差をつけたりして、医師としてどうかと思うわ」
とお琴が応じる。
「そんなこと私がするわけないでしょうが。ふん、それこそ本当に女が嫌いだとして、差をつけるのは医師としての矜持の問題ですからね」
「ああら、舐めるようにして男の患者の裸体を見ているそうですから、てっきり不埒なことを考えているのかと思いましたわ」
こんな感じで日々は賑やかに過ぎていくのだった。


「直樹さん、あたしも働こうかと思うのですけど」
お琴からこんな申し出を聞いた瞬間、何よりも直樹はお琴に無理をさせたかと飯を食べる手が止まった。

「…すまない、俺の稼ぎがないばかりに」
「何をおっしゃってるんですか。助け合うのは夫婦として当たり前のことです」
「そうだったな、お琴。俺たちは夫婦になったんだ」
「そうですよ。いついつまでもと誓ったじゃありませんか。苦労も二人で分かち合うってあたしは決めていたんですから」
「お琴…!」
「直樹さん!」

「直樹さん!」
お琴はいつものお得意の妄想をしていたのか、恍惚とした表情でにやけている。お琴でなければちょっと不気味だ、と思うところだ。裏を返せばお琴なのでどんなお琴でも直樹は全く意に介さないのだが。
「…お琴、働くのは構わないが、くれぐれも迷惑をかけないように」
直樹がそう声をかけると、お琴ははっとしたように直樹を見た。
「あ、あれ。反対、しないのですか」
「暇なんだろ。それに江戸に帰るまでまだあるし、おまえの妄想通りに俺の稼ぎも足りないし、働きたいというのなら止めはしないよ。贅沢もさせてやれなくて済まないとは思っている」
「あわわ、そんな、贅沢だなんて」
妄想での稼ぎが足りない云々を言い当てられて慌てたお琴だったが、悪気があってのことではない。そんなことは直樹も承知だ。
「了安堂で働いていたように助手でも紹介したいところだが、今のところ手は足りているようで」
「そうなんですね。大丈夫です。あたし、料理屋なら自信がありますから。ほら、実家は料理屋でいつも手伝っていましたでしょ」
「…そうか」
そうは言うものの、その実家でも失敗は多々あるようだったが。
「その、実は長屋のお富さんが人手が足りないから春までどうかと紹介してくれたところがあるんです」
「ああ、お富さんの紹介なら…」
お富は同じ長屋の気風のいい植木屋の嫁だ。人柄は直樹もうなずける。
「ええ。でもちゃんと直樹さんに聞いてからって思って」
お琴の言葉に直樹がうなずくと「では早速明日から」と言ったのには驚いた。
「あ、やっぱり明日からじゃ…」
直樹は「いや、構わない」と少々心配ながらもそう答えた。働くのを止める了見の狭い男、というのはどうにもみっともないと自分で自分に言い聞かせながら。
そうしてお琴は長崎で料理屋で働くことになった。
その料理屋は、長崎ではそこそこの料理屋で、一流とは言えないまでも庶民には少し高いというくらいだ。いや、庶民でも晴れの日には気張って行くようなところで、お琴の実家の福吉とよく似ている。
そのせいかお琴は生き生きと働きだした。
強いて言えば、下宿人の多い医学館の弟子たちには到底入れない、というところだけが直樹の救いでもあった。
何よりも医学館ではあの朴念仁の直樹が嫁をもらったと評判で、お琴を一目見ようとあの手この手で直樹とお琴の住んでいる長屋付近に繰り出すことも多かったからだ。
お琴は大蛇森とため張るくらいの気丈な江戸っ子許婚として前々からあれこ下宿人はもとより噂されており、付近の大店の娘たちにも江戸の大店の息子として直樹が注目されていたくらいだ。
大店の娘なら、両親に願えばお琴の働いている料理屋くらいは行けるので、直樹の嫁がどんなものかと見に訪れるものも少なくなかった。
お琴なら勝てると勝手に思ったのかどうか、お琴に直樹と離縁して江戸に一人で帰ればよいと辛辣なことを言うものもいた。
もちろんそれを聞きつけた直樹が放っておくはずもなく…。
結婚してもなお二人の周囲は騒がしかった。


「それにしても、冬の間だけとはいえ、お琴さんも思いきりましたね」
休みの日におもとの茶屋に寄ったお琴は、おもとの勧める大福を片手に枯葉が吹きすさぶ外の通りは首をすくめて眺めていた。夏と違って茶屋では暖かい茶が出されていた。
「だって、お義母さまとお義父さまったら、お店のこともあるのに、大金を送ってよこすって言うんですもの。いくら直樹さんが勉強中で働けないからって」
実際の直樹は、長屋の代金位なら代筆等で稼ぎ出してるので、全くの無賃ではない。しかしそれは一人暮らしをしていたなら、ということで、やはりお琴が一緒に暮らすには少々お金が厳しいのを承知していた。
医学館では優秀な直樹に対する講師の助手としての道も誘われていたのだが、その講師というのが大蛇森ということであれば躊躇しても仕方がないだろう。何よりも強固にお琴が反対した。
そうとなれば親に頼るか自分でさらに働くしかない。
ところがここにきてお琴が働きだしたので、直樹としては心配ながらも少しだけ余裕ができてほっとしているところだろう。
何よりもお富さんが紹介してくれた料理屋の賃金払いは決して悪くない。
お琴の失敗を差し引いても悪くない職場と言えよう。
「茶屋も私には合っていると思うのですけれど、料理屋の口があるのなら、そちらにすればよかったかしらねぇ」
おもとが少しうらやまし気に言った。
「おもとさんが働いたら、きっとずっと引き止められてしまうわ。そんなことになったら佐賀屋は大損ですもの。おもとさん、わがままだとは思うけど、一緒に江戸へ帰ってくれるわよね」
「何を言ってるんですか。佐賀屋あっての私でございますよ。おきよおばさんが受けた恩を返してもいないのに、そんな恩知らずなこと私がするとお思いで?」
「いえ、そんな恩知らずだなんて思ったこともないわよ。だって、おもとさんはここ長崎までついて来てくれて、恩以上に尽くしてくれて感謝しているの」
「お琴さん…」
「おもとさん…」
二人でがしっと手を握り合ったところで、その手が無遠慮に離された。やんわりと、それでいてきっぱりと離されたお琴の手は、突然現れた直樹によって握られた。
「あ、直樹さん。もうそんな時間ですか。長居してしまったわ」
「いや、少し早目に終わったんだ」
「…あら、待ち合わせでございましたか」
おもとが直樹によってぺいっと離された手を見つめながら肩をすくめた。
相変わらずきれいな顔をして澄ましているけれど、女中姿で女には興味ないと言っている男にすら触らせないとは、とおもとは直樹に隠れて微笑んだ。
「直樹様、大事になされませ。これでいてお琴さんは、お江戸でも他の殿方におもてになっていたんですから」
小さな声でからかうようにそう言えば、「…知ってる」と苦い顔をして言い返された。
「帰ったら、あの大工に止めを刺しておかねばなりませんわよ」
直樹が嫌そうにおもとを見た。
「それにここのところ人妻だと知らないお琴さんを誘う輩も増えてきてはおりますしね」
「だから迎えに来たんだ」
「それはそれは…うらやましいことですわ」
「なあに?何の話?今日も直樹さんに誰か群がっていたの?あたしのいないところで!」
全く見当違いの心配をしているお琴におもとはその辺の店をのぞいていくとよいと促した。
「少しはお琴さんを連れて歩いて回るのもよろしいかと思いますよ」
おもとの言葉を直樹なりに考えたのか、さっさと茶屋を出ていく。
「そ、それでは、またね、おもとさん」
慌てて追いかけていくお琴を見ながら、おもとは軽く会釈して見送った。
気分はやれやれ、という感じだった。


「あの、直樹さん。おもとさんの言うこと、本気にしなくていいですからね。すぐに長屋に帰っても…」
お琴が直樹に追いついてそう言うと、直樹が黙ってお琴の手を取った。
「…たまにはいいだろ」
直樹の言葉にお琴の顔は輝いた。
いつもは出歩くのが好きではない直樹に遠慮して、あちらへ行きたいこちらへといったわがままをお琴は言わない。
それでも、少し賑やかな通りを歩くだけでお琴は嬉しそうにする。
しかも直樹から手を取って歩いているので、恥ずかしそうにしながらもすでに浮足立っているのがわかった。
「わあ、直樹さん、これ、きれいですね」
店先から見えたのは、透明な輝きを持ったぎやまん(硝子)だった。
ぎやまんの簪(かんざし)に器、それから奇妙な形をした和製のぎやまんがあった。
「これ、何かしら」
その瞬間、直樹は自分の柳行李に後生大事にしまってあるものを思い出した。
あれこれとありすぎて、いつか渡そうと考えていたまましまっていた物だ。
「お琴、用事ができた。悪いが長屋に帰ろう」
「あ、そうですか。それは大変です。急いで帰りましょう」
「すまないな。また連れてきてやるから」
「いえ、こうして歩けるだけで…」
お互いそう言いながら、直樹は申し訳ないと思いながらもお琴の手を引いて歩き出した。
お琴はお琴で買えるわけでもないものを見ていたのが気に障ったのかと思っていた。
そして頭の上に差してある簪を思い出していた。
佐賀屋に来たばかりの頃に贈られた赤玉の簪だ。初めて直樹に選んでもらったとお琴は思っている。
これがあれば十分。
直樹はお琴がそんなことを思っていることは知らずに長屋に急いだ。
長屋に着くなり荷物を開け始め、最近開けてもいなかった柳行李にそれを見つけた。
壊れずにあったそれを手に取り、直樹はほっと息をついた。
「…お琴」
「何でしょうか」
「いつかお琴に再会したら渡そうと思っていた物だ」
「どんなものですか」
直樹に布に包まれたものを差し出され、お琴は手に取った。
「言っておくが、壊れやすいから気をつけろよ」
「え、は、はい」
いきなり言われて、今まさに手に取ろうとしたお琴は、慌てたあまり逆に取り落すところだった。
そっと布を広げると、そこには先ほど店先で見かけた物があった。
「直樹さん、これ…」
「渡すのが遅くなったが、お琴なら好きそうだと買っておいたものだ。本当なら江戸へ帰るときの長崎土産になるはずだった」
お琴の手にはびいどろがあった。
その美しく透明な姿は、花器のようでも薄く繊細なものだった。おまけに花器にするにはひどく小さい。
どうやって使うものなのか、眺めているだけのものかの見当もつかない。
「これは、息を吹き込んで楽しむものだと」
「ど、どのように?そんなことをしたら壊れてしまうのではないですか」
「さあ。厄除けに音が鳴ると聞いたが」
「厄除け?」
「新年にこれを吹いて、音を鳴らせば、厄除けになるという話だ」
「本当ですか?」
「もうすぐ年末だしな」
「そうですね。気が付けば新年もすぐそこです」
「一度吹いてみてはどうだ」
「え、でも壊してしまいそうで」
「壊れたなら、また買えばいい」
「そんなもったいない!」
そう言って、お琴は吹き口だと思われる筒状の部分に口をつけた。
ぷうっと息を吹き込むと、ぽっぺんと軽い音がした。
「わあ、音がしました」
お琴が子どものようにはしゃいだ。
これこそ直樹が想像していた通りのお琴だった。
この姿を何度想像しただろう。
「もしかしたら江戸にもあるかもしれないが、真っ先に思いついたのがこれだったんだ」
「こんなぎやまん初めてです」
「長崎ではびいどろというらしい。ぎやまんだと唐渡の珍しい石のことを指すこともあるようだ」
「そうなんですか。江戸ですとぎやまんの方がしっくりくるのですけどね」
「まあ、海を渡ってくる物は、総じて珍しいからな。さすがに光るぎやまんはうちの小間物問屋でも扱っていないだろうな。長崎屋とかでないと。ぎやまんだろうとびいどろだろうと、珍しいには違いない」
ぽっぺん、ぽっぺんと直樹が話す間にもこつをつかんだお琴が何度か鳴らしている。
何度もやっているうちにさすがにちょっとうるさく感じてきた直樹は、その口からびいどろを取り合げた。
「あ…ひどい」
「新年の厄除けだと言っただろう」
「いいんです。直樹さんには厄除けがたくさん必要ですから」
それでも直樹が取り上げたびいどろを再び取り返すことはせず、涙ぐみ始めた。
「直樹さんから頂いたなんて…大事にします」
「…前にもいろいろやっただろう」
「これもお高かったでしょう」
「そんなことは、ない」
むしろ江戸で買うよりもずっと安いに違いない。
贈られたことよりもまずは金の心配をするところがお琴らしいと直樹はため息をついた。
「あたしのために…」
「おまえのためだからだ」
「直樹さん」
「いろいろ寂しい思いもさせただろう」
「待ってると言ったのに、我慢できずに長崎に来てしまいました」
「俺が病気になったのが悪い」
「それじゃあ、今回はお互いさまですね」
「…そうだな」

「あ、ちょっと、押さないでおくれよ」

抱き寄せようとした直樹だったが、すぐに立ち上がると長屋の戸を開けた。
そこには仕事を終えたらしい長屋のおかみさんたちがたむろっていた。
「あら、やだ、その、御菜をおすそ分けしようと思って」
「そうそう、お琴ちゃんったらいつも魚を焦がしちまったり、芋をとんでもない味に仕上げてるから…」
「ああ…、いつもありがとうございます。おかげさまでまともなものにありつけてありがたく思っています」
「はあ、相変わらず言いたいこと言ってるね、この旦那は」
「そうだよ、お琴ちゃん。たまにはがつんと言っておやり」
「が、がつんと?」
「でもあんな飯を食わされちゃそれも仕方がないか」
「あはは、それもそうだね」
「で、用事は」
「そうそう、そうだった。この御菜をあげるよ」
「ありがとうございます」
「この分だと今夜も仲良さげだねぇ」
「違いない」
そう言いながらおかみさんたちは戻っていった。
「…だそうだ、お琴」
「い、いやー、全部聞かれてる〜〜〜」
「今更だろ」
「だって、だって」
「何なら、今から早速」
「か、勘弁してください!せ、せめてよ、夜に…」
「ふうん、夜に、ね」
「うう…、直樹さんの意地悪」

暮れていく長崎の冬の夜は、お琴にとっては長い長い夜だった。

(2016/03/21)



To be continued.