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暗くなった帰り道、お琴は少しだけびくびくしながら歩いていた。
福吉から佐賀屋まで急げばおよそ四半刻(三十分)の距離だ。
それでも直樹が一緒にいるので、以前店を手伝ったときよりもましかもしれないと思っている。もちろん福吉から自宅までと佐賀屋までの距離は比べ物にならないだろうが。
行きは無言でも景色が見えるので気にならなかったが、月も細くてこう暗くては鳥目気味のお琴にとっては真っ暗闇も同然だ。
何かを話したかったが、直樹との共通の話題は何もない。
仕方なく福吉での話をしだした。
「それで金ちゃんってば、あの上方言葉で怒鳴るものだからまたお父さんに怒られて…」
直樹はお琴の話に耳を傾けていたが、むすりと黙って歩き続けている。
二人の影は濃く、草履の音だけが響く。
全く人通りがないわけではないが、さすがに暮れた通りには人影が少なく、二人とすれ違う人も少ない。
お琴は大店の若だんなと女中といったふうに見られているのだろうと思いながら小走りに歩いていた。
何よりも歩く速度が直樹とは違う。
行きは直樹もゆっくり歩いてくれていたが、帰りの今はやけに速い。
それほど急いでいるのだろうとお琴は必死になって後をついていった。
一方直樹のほうはそれに気づくこともなく、先ほどから店の男の話ばかりで気に入らないと思いながら歩いており、かと言ってこれといって他の話題もなく、仕方なくお琴の話を聞いていた。
途中、あまりに急ぎすぎたのか、お琴の足がちょっとした段差に気づかずにつまずいた。
「あっ」
どさっと音がして直樹が振り向くと、既にお琴は地に膝を着いていて、草履が投げ出されていた。
そこでようやく自分の歩く速度が速かったことに気づいた。
「大丈夫か」
「ええ、大丈…夫」
「足を痛めたのか」
「い、いえ、そんなことは」
直樹が近寄ってお琴の足を触ろうとすると、「だ、大丈夫」と後ずさりした。
それでも強引に足首を触ると「いったっ」とお琴が顔をしかめた。
「痛めてるじゃねぇか」
「ご、ごめんなさい」
「家まであと少しだが歩けるか」
「ええ、何とか」
お琴が立ち上がったが、やはり少し心もとない。
直樹はため息を一つつくと、お琴に背を向けた。
お琴は向けられた背の意味がわからず、立ち尽くしている。
「乗れよ、負ぶってやるから」
「え…」
「早くしろ」
「は、はい」
直樹の勢いに押されて、お琴は直樹の背にそっと乗った。
直樹はお琴を背に負ぶって立ち上がった。
思いがけず背に乗ることになったお琴は、思ったよりも高い視界に驚いた。とは言っても辺りは暗いので、ますますどこを見ていいのかわからなかった。
「あの、直樹さん」
「なんだよ」
「重い、ですか」
「重いね」
「ご、ごめんなさい、下ろしてください」
「うるさい、これ以上遅くなったらおふくろに何言われるか」
そうは言ったものの、直樹は思ったよりも軽い感触に驚いていた。
しかも白粉とは違う匂いがしたのを感じた。
その背から声が降ってきた。
「直樹さんは、お医者さまになったら家を出るのですか」
「なれるかどうかもわからない」
「でも、直樹さんはずっとお師匠さんのところに行ってらっしゃるのでしょう」
「習い事じゃないんだから師匠でもないよ」
「あ、そうですね。でも何とお呼びしたらいいか」
「ま、いいけど」
お琴は直樹の背に揺られながら、これも一つの思い出だと胸を熱くしていた。
多分もうすぐ佐賀屋の家を出ることになるだろうとわかっていた。
今日はお琴の父からその話が出ていたのだ。
「でも、できるなら長崎へ行きたい」
「長崎、ですか」
「蘭学を学ぶなら長崎だからな」
「遠い、ですね」
「ああ、遠いな」
ふと直樹は遠くを見つめる目になった。
お琴も同じようにその先を見つめた。
暗くて先は見えなかったが、まるでその先に長崎があるかのように。
「で、おまえは福吉を継ぐのか」
「そ、それはまだ」
「あの男なら跡継ぎにぴったりなんじゃないか」
お琴は直樹の言葉にびくりとして口をつぐんだ。
「金ちゃんは…確かに腕はよくて、いい料理人になるってお父さんは言ってるけど」
あたしは、そんなふうには思えない、と告げようとしたとき、直樹の言葉が響いた。
「まあ、いつも自分の思い通りにはいかねぇよな。親だとか家だとか、結局諦めることも多いし」
「それは、直樹さんを諦めて金ちゃんと一緒になれってこと?」
直樹は足を止めた。
「ああ、そういうことかもな」
直樹の言葉にお琴はぐっと息を飲んだ。
「下ろしてください」
お琴の固い口調に直樹は少し肩越しにお琴を見た。
その唇は固く食いしばられていて、今にも泣きそうだった。
「下ろしてっ」
まだ泣いてはいなかった。
泣いてはいなかったが、震える唇は泣くのを堪えるようにしており、直樹は眉をひそめた。
お琴の命令口調に少しむっとして背をかがめた。
お琴はすかさず直樹の背から下りると、直樹を睨むようにして立つ。
幸いなことに佐賀屋の裏通りに着いていた。
「直樹さんは、あたしが金ちゃんと夫婦《めおと》になって家を継ぐほうがいいって言うのね」
「そのほうが万事解決だろ」
「…やめる」
「は?」
「直樹さんのこと好きなの、やめる」
「ふうん、やめるんだ」
「直樹さんなんて長崎に行って皆のこと忘れて、それで、あたしだって直樹さんのこと忘れて、それで…」
「じゃ、忘れてみろよ」
そう言って直樹はお琴に口づけた。
突然肩をつかまれ、誰も来ないとはいえ佐賀屋も目の前の通りで、着いた足首はずきりと痛む。
目の前に覆いかぶさった影は、本当に直樹だったろうか。
お琴は目をつぶることもできず、息も止めてしまっていた。
膝の力が抜けて、直樹が離れたときには真っ直ぐに立っていられなかった。
「ざまあみろ」
直樹は意地悪そうにそう言うと、そのまま裏通りを歩いてすぐそこにある佐賀屋の裏口をくぐっていった。
お琴は通りに残されたまま、呆然とその場に座りこんだ。
今、何を…?
お琴は自分の唇に触れて、今起こったことを思い返した。
な、直樹さんが…あたしに…口づけを…。
足も痛み、今起こったことに驚きすぎて動くこともできなかった。
そのうち、裏口から人が出てきた。
慌てたように駆けてくるその人がお紀と女中であることに気がついたとき、お琴は先ほどは流さなかった涙を静かに流していた。
* * *
あれから、お琴は部屋でぼんやりと庭を見て過ごすことが多くなった。
足を痛め、しばらく安静にするようにと言われたためだ。
当然福吉へも手伝いに行けず、足が治るまでは動けないので、佐賀屋を出て行く話もとりあえずは保留になっている。
部屋でぼんやりとすればするほど、あのときのことを思い出してしまうお琴だ。
直樹から聞いたとやってきたお紀と女中は、お琴の両脇を支えて佐賀屋まで戻った。
本当はあのまま直樹に座敷まで連れて行ってもらうのがよかったのだろうし、当然お紀も通りに置き去りにした直樹を責めたのだが、直樹と口論になったとお琴は申し訳なさそうに答えた。
本当はそれ以上のことがあったのだが、とても他人さまには言えるわけもなかった。
口づけをされてざまあみろと言われる女など、聞いた限りではいやしないのだ。
あれが直樹の意地悪だったとしても、お琴にとっては紛れもなく好きな相手からの初めての口づけに他ならないのだ。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、よくわからないままここ数日を過ごしていたのだった。
部屋にこもっているせいで、これ幸いと直樹の姿は見なかった。
いくら口論したからとはいえ、怪我をした女を通りに置き去りにするなんてとお紀は直樹に説教したらしい。
その申し訳なさもあって、直樹と顔を合わせづらいこともあった。
下ろしてと言ったのはお琴なのだ。
もちろん何故そうなったのかといういきさつの詳しい話はお紀にも言っていない。
「お琴ちゃん、お見舞いの方がいらっしゃいましたよ」
突然そう声をかけられた。
ぼんやりとしていたので、恐らく一度の声がけではなかったのだろう。
「どなたが…?」
そう答えて振り向けば、そこにはおさととおじんがいた。
「しばらくね」
そう言って入ってきた二人を見ると、お琴は「おさと!おじん!」と笑みで迎えた。
二人は部屋を見渡し、庭を眺める縁側にいたお琴の隣に座った。
同じように庭を眺めていると、お紀自らがお茶を持って現れた。
「まあまあ、お琴ちゃんが仲良くなさっている方々ね。
ちょうどお琴ちゃんも退屈そうで心配していたんですよ。
どうぞごゆっくりね」
そう言うと、お紀は安心したように部屋を出て行った。
お琴は「おばさまありがとうございます」と声をかけるにとどまった。
「足を痛めて落ち込んでいるの?」
おさとが言った。
「落ち込んでるって、わかるの?」
お琴が聞けば、おじんが首をすくめた。
「そうでもなければ足を痛めたからっておとなしく部屋でじっとしているわけないでしょう」
そう言って笑った。
お琴は「実はそうなの」と前置きしてからぽつりぽつりと話し出した。
うまくは言えなかったが、最後の口づけの部分だけはさすがに口ごもった。
「すっごーい、もう恋仲じゃない」
おさとの言葉にお琴はひくりと顔を引きつらせた。
「いえ、それはちょっと…。何だか意地悪された感じだし。お願い、誰にも言わないでね」
それを聞いておさととおじんは顔を見合わせた。
意地悪で口づけの意味がわからないが、とにかくそれ以上はその話題に触れることはなかった。
お琴も足を痛めてから鬱々とした日々だったせいか、おさととおじんの訪問はいい気分転換になったようだった。
久々に母屋に笑い声が響き、お紀もうきうきとした気分だった。
「…母さま、あの声はいったい何なんですか」
「あら、お帰りなさい裕樹さん。お琴ちゃんのご友人方よ」
「お琴の…。ご友人って言うより、悪友って感じだな。しかも頭が悪いほうの」
「まあ、何てこと言うんです、裕樹さん」
そんなやり取りの最中に直樹も帰ってきた。
通りがかりに裕樹の言葉の頭が悪いほうの、と聞いて思わず直樹も笑いがこみ上げる。
「直樹さんまで」
お紀はそう言って怒ったが、直樹は裕樹と顔を見合わせて笑いあった。
直樹自身はあれ以来お琴とまともに顔を合わせてはいなかった。
お琴が足を痛めて部屋からあまり出られないのをいいことに、何も言わずそのまま触れずにいようと思っていた。
そもそも恋愛感情があったわけではないし、と言い訳もあった。
「兄さま、久しぶりに剣を教えてはくださいませんか」
「ああ、いいよ」
裕樹の頼みにお互い部屋に荷物を置いて支度をすることにした。
その途中、お琴の部屋の前を通れば部屋の襖は開けられており、どうりで部屋からの笑い声が筒抜けになるはずだと直樹は納得した。
お琴たちがいる庭よりも奥側に下りると、ちょうどお琴の友人たちが帰るところだった。
裕樹は張り切って竹刀を持っており、直樹はまずは体を温めてからだと素振りを指示した。
直樹も同じように素振りを始めると、いつの間にかお琴が縁側の向こう側から直樹たちのほうを見ていた。
直樹は商家の家に生まれながらも剣に興味を持ったため、近場の道場へも通っていた。
武士の子弟も通ってきており、それなりに名の知れた道場ではあった。
直樹の剣はその道場でもかなりの腕前で、武士であったならばと何度も師匠に言わしめた腕だったのだ。
聞いたのは随分と昔だったが、両親の双方とも何代か前までは武家であったとも聞いている。
どんどん商家の力が強まってきて、これからは商人の時代だと曽祖父の代の主が鞍替えをしたのが基であるとも。
それを思えば今も武家であってもおかしくはない家柄ではあったが、商号となった佐賀でもとっくに商家としての地位を築き、江戸においては佐賀屋の主となった直樹の父も既にいっぱしの商人であり、千代田の城に出入りをも許された立派な大店でもあった。
その血が騒ぐのだろうかとか、先祖返りかと、直樹の道場通いを止められることはなかった。
しかしさすがに裕樹まで通わせることもなく、裕樹自身もそこまで剣の道を究めたいなどということもなく、こうして時折直樹に教わっているくらいのものだった。
「やあ」
掛け声も勇ましく、裕樹は直樹に向かって竹刀を突き出すが、あっさりとかわされる。
その繰り返しで根気よく続けている。
お琴は突然始まった兄弟の剣の稽古を見ていた。
縁側に座っていたため、庭の奥は少し身を乗り出したくらいでよく見えた。
もちろんお琴は直樹の剣の腕前をよく知っており、庭先でそのりりしい姿を見られるとは思わず、夢中でその姿を目で追っていた。
落ち込むほど馬鹿にされた口づけもすっかり忘れて、直樹をよく見ようと身を乗り出していた。
一方直樹はその視界の隅にお琴が縁側から身を乗り出してこちらの稽古を見ているのがわかった。
その様子がおかしくて、思わず笑みを浮かべる。
機嫌のよい様子の直樹にうれしくなって、裕樹もますます額に汗して竹刀を振るった。
そのときだった。
直樹は縁側にいたはずのお琴の姿が突然消えたように見えた。
…と思ったら、お琴の悲鳴。
「きゃあ」
裕樹も直樹も思わず竹刀を下ろして声のほうを見る。
そこには、直樹をよく見ようとしたのか、庭先に転がり落ちたお琴の姿があった。
「ぶっ、なにやってるんだ、あいつ」
そう言って裕樹が笑えば、直樹も笑いながら竹刀を裕樹に渡した。
「兄さま…?」
竹刀を渡された裕樹が見ていると、直樹はお琴に近づいていった。
「よく転がる玉だな」
「し、失礼な」
「玉じゃなければなんでこんな所に転がってるんだよ」
「そ、それは…」
「よいしょっと…ああ重てぇ」
「きゃあ、直樹さん」
「暴れるな、落とすぞ」
「…ごめんなさい」
そのまま縁側まで持ち上げて下ろすと、直樹は土で汚れたお琴を見てまた笑った。
「いちいち転がるなよ、ったく」
「転がりたくて転がったわけじゃありません」
「へえ、そう」
そう言ってお琴に顔を近づけるので、お琴は慌てて後ずさった。
「何警戒してんの」
「え、そ、それは」
「ああ、そういや俺たちは口づけした仲だったっけ」
「あ、あれはどうせ意地悪でしょ」
直樹はすいっと手を伸ばすと、びくついたお琴の頬についた土を親指で拭った。
「十人並みだからと言って、土ぼこりまで付けてんなよ」
そう言われてお琴は拭われた頬に手をやって擦った。
「あ〜あ、足袋まで汚れてるぜ」
「い、いたっ」
「…馬鹿なやつ」
「どうせ馬鹿ですよ」
「足」
「へ?」
「もう一度手当てしておけ」
「…はい…」
そのまま直樹は踵を返して裕樹のところへ戻っていった。
そして竹刀を受け取ると、「今日はこれで終わりだ」と部屋の中へ戻っていった。
土で汚れた頬を拭った手を見た。
直樹が言うほど汚れてはいなかった。
お琴はその後姿を見ながら、直樹の本心がつかめないでいた。
気紛れに口づけをするなど、お琴にとってはさっぱりわけがわからない。
お琴を好きなわけではないのだ、とお琴はその後の直樹の態度から察した。
だからと言って嫌がらせで口づけをする男などいるのだろうかという思いもある。
口では憎たらしいことを言うくせに、背に負ぶって連れて帰ってくれたり、結局縁側まで持ち上げてくれたりもした。
意地悪なのか、優しいのか。
そのどちらでもあったが、お琴にとってはやや意地悪が過ぎるとその背につぶやいていたのだった。
(2013/12/05)
To be continued.