大江戸恋唄



51

年が明けてからは寒さに震える日々が続いたが、それも日が過ぎるにつれて徐々に暖かさを増していく。
春はもうすぐ、といったところだ。
直樹はすでに医学館での修業を一通り終えて、既に講師のような扱いだ。
長崎においても誰よりも優秀だったところは相変わらずで、お琴は手放しでさすが直樹さんと喜んでいた。
直樹は別の意味でも喜んでいた。
何よりも学生で過ごしていた頃よりも多少金銭に余裕ができるようになったことだ。
どんどん押し寄せる学生たちを教えるのにも、直樹は是非にと請われて教壇に立った。
医師としての修業も怠るまいと、町医者に出向いて手伝った。
お琴は慣れてきた料理屋の仕事をぼちぼちと続け、別の意味で有名になりつつあった。

「お琴ちゃん、運んでおくれよ」
「はい、承知しました」

威勢よく応えて、お琴は料理を運び、その足で別の部屋から食器を厨房に戻していく。
その食器運びがこれまた見事だと評判になったのだ。
普段の不器用さからは想像できないその危うい均衡で、数々の食器を抱え上げ歩いていく姿が評判になったのだから、何が吉と出るかは人生わからないものだ。
実家の料理屋ではすでに周知の運び方だったので、これほど長崎で評判になるとは思っていなかった。
お琴は得意がるでもなく淡々と食器を運んでいただけなのだが、その根底には何度も往復するのは面倒というただそれだけだったのだから。

「まあ、すっかり評判になってしまいましたね」

ちらりとのぞいた料理屋の店先で、おもとはため息をついた。
その横から、すいっと華々しい一団が料理屋に入っていった。
どこかの大店の若旦那といった出で立ちの者と見目鮮やかな花魁。それに付き従う男衆に禿。
随分とここ丸山の花魁衆は自由に廓を出入りできるのだなとおもとは見やった。
もちろんそれほどの特権を持っているのは花魁の中でも特に売れっ子の者だけなのだが、吉原に比べると華やかで自由に見えたのだから仕方がない。
若旦那と花魁たちは料理屋でも一番の上席へと向かう。
個室の仕切られた部屋の中ではさぞかし花魁の喜びそうな料理が用意されるのだろう。
おもとはそんな世界もあるのだとため息をついた。

「お琴ちゃん、あ、その料理は女将さんが運ぶから」
そう言われてお琴は「上客ですね」と返した。
「今を時めく丸山の花魁でね。小間物問屋の若旦那たっての希望なんだよ」
小間物問屋か…とお琴は心の中でつぶやいた。
そう言えば直樹さんも小間物問屋の若旦那だったと思い返したのだ。
「でも直樹さんはあんなお遊びもしなかったし」
そうそう、行くのは道場と町医者の所ばかりだった、とお琴はちょっとだけ笑った。
「お琴ちゃん、食器を下げてきてくれるかね」
「あ、はい、それならお任せください」
お琴は張り切って女将と一緒に上客のところに行くと、早速いつもの食器運びを披露することになった。
もちろんお琴が披露しようと思って披露するわけではない。
次々と空いた食器をどんどん積み上げるうちに例の食器運びとなるのだ。
上の方では少々揺れている食器が見ている者をはらはらとさせる。
「ほら、椎名太夫、これが今巷で噂の食器運びの技らしいですよ」
そんな耳打ちもあったが、お琴としては仕事をするのみだ。
華やかな花魁の姿は目に入れど、少なくとも今の自分とは縁のない世界だ。
直樹に何らかの理由で捨てられでもしたり、借金を山ほど抱える羽目になったら、直樹のためならば売られても構わないと思っているくらいで、まさか自分が花魁になれるとは思ってもいないし、いくら何でもそこまで自惚れる器量を持っているとも思っていない。
「ああ、あの…」
お琴が部屋を出ようとした時だった。
「…直樹様というお医師の方が…」
そこだけがやけに鮮明に聞こえた。
初めてお琴は食器を取り落しそうになった。
…が、かろうじて堪えて、動揺しながら厨房へと運んだのだった。
「ど、どういうこと?直樹さんがってことは、もしかして、例の噂になった方?」
治療した花魁に惚れられた、というか文をもらっていた、というのは下宿先で噂で聞いた。
その詳しい話も直樹から後で聞いて、誤解だと十分にわかった。
花魁というのは、あの手この手で客を誘うものなのだと。
確かに吉原の話を聞くと、そういう文を寄こすのも誘いての一つなのだと聞いたことはある。
わかったうえでなお、お琴は先ほどの花魁を思い出していた。
「あの、あの遊女の方は…」
料理屋の女将さんに聞けば「梅田屋の椎乃太夫だね。今の丸山じゃ一、二を争う花魁だよ」とこれまたお琴がああ、とため息をつきたくなるような返事だった。
「直樹さん、そんな売れっ子の太夫にまで…」
こういうのを聞くと、よくぞ結婚してくれた、とお琴は思うしかない。
再度ため息をついた後で奥から声がかかった。
「…その、お琴ちゃん、その椎乃太夫がお呼びだと」
「へ?あ、あたしを…?」
お琴はどぎまぎとしながら奥の部屋へと足早に向かう。
何を言われるのだろう。
そんな不安な心を抱えたまま襖の外で声をかける。
「…もし?」
「どうぞ」
小間物問屋の若旦那の声なのか、男の声が響き、お琴は襖をゆっくりと開けた。
「お呼びとお聞きしましたので、伺いました」
「どうぞ、こちらへ」
襖を開けてすぐに頭を下げたお琴に、部屋の中へと促される声がした。
「し、失礼いたします」
顔をあげて一歩入ると、そこには何ともきらびやかな花魁と若旦那、それにかわいらしい禿が控えていた。
「先ほどは面白いものを見せていただきましたよ」
若旦那がそう言えば、花魁がほほ笑む。
お琴はどう答えていいかわからず、ただ頭を下げた。
そして、先ほどの直樹の名前が出てきた話が気になり、お琴は失礼を承知で口に出した。
「恐れ入りますが、そちらの太夫は直樹さんをご存知なのでしょうか」
お琴の言葉に花魁はゆったりと微笑み答えた。
「知っていんす」
お琴はその言葉にやっぱりと思いながらそれ以上言葉にできない。
「つれない方でありんす」
太夫は客である若旦那の前なのか、吐息とともにそう言った。
「…そう、ですか」
それがかえって生々しく感じて、お琴は息が止まる気がした。
「その、直樹という医者は、君に何か関係があるのかね」
若旦那の言葉にお琴はうつむいて答えた。
「それは、その…わたしの…つれあいにございます」
「ああ、なるほど。それは丸山一と名高い太夫の口から出たなら、心配でしたでしょう。
でもですね、太夫が客のことをあれこれ言いはしませんよ。
その医者は、医者として太夫と会っただけのようですからね」
「つれないのは本当のことでありんす」
お琴は二人の言葉にうなずいた。
「それでも…許婚のことを思い出すときのお顔は…」
「顔…?」
お琴は首を傾げる。
「お会いして納得しんす」
ゆったりと笑う花魁は、お琴にはとてもまぶしかった。
こんな人を目の前にして、直樹が正気でいられたのは、きっと今までありとあらゆる女人に好かれて囲まれていたのがよかったのかと考えた。
「あの、その、わたし、し、失礼いたします」
はっとしたお琴は長居してはと慌てて部屋から出ることにした。
廊下を歩きながら、厨房までぼうっとしたまま考えていた。
花魁ですら魅了されるなら、世の中の女人が惹かれても不思議はない。
黙っていれば恐ろしくきれいな顔立ちが目立ち、若干高すぎるくらいの背が人より目立つ。
もちろん口を開けばそこそこ意地悪な言葉も出てくるものの、見かけただけの女人には関係がない。むしろその素っ気なさ、無愛想さが機嫌を取ろうとする大方の男とは違うものを感じてさらにもてるのだろう。

「はあ、すごい人をつれあいにしてしまったわ」
そんなことをつぶやいたので、迎えに来た直樹がまた何を…と言いたげな顔でお琴を見た。
医学館からの帰り道はちょうどお琴の料理屋を通るため、余程のことがなければお琴が働きに来ている日には寄っていくのだ。
料理屋での賄いを持って帰る日もあり、一度道端でひっくり返してしまったと泣きながら帰ってきてからというもの、さりげなく迎えに寄るようになった。
「直樹さん、今日はね、何とか花魁という方がいらっしゃったの」
「…何とか花魁って」
どんな花魁だよ、と突っ込む間もなく、直樹は思いついた。
「梅田屋の椎乃太夫か」
「や、やっぱり、直樹さん、その方と…」
「その方と何だよ?言っただろ、治療した禿の姉女郎だったって」
「そうだって花魁も言っていたけど、つれない人だった、なんて言われたら」
そう言ってお琴はぶつぶつとつぶやいている。
直樹は少しため息をついて椎乃太夫の艶っぽい微笑みを思い出した。
「それは全く相手にしなかったから、余計におまえがからかわれたんだろ」
「え、そうなの」
「そうなのって、その花魁の前で俺の嫁だと言わなかったか」
「…う…言いました」
「だろうな」
直樹は笑う。
それくらいは許されるだろうとお琴を目の前にして椎乃太夫がからかった様子が目に見えるようだった。
あの太夫にかかれば、お琴のような喜怒哀楽のはっきりした女はさぞかし扱いやすいだろう。
そして。
「俺もなかなかの相手を嫁にしたな」
「え?何?直樹さん」
長屋が近づき、ざわざわとした空気の中で、直樹のつぶやきはお琴の耳に届かなかったようだ。
椎乃太夫は、身受けでもされない限りあの丸山からは出られない。
それはわかっていることとは言え、直樹の嫁と公言したお琴がうらやましいには違いない。
直樹への言葉がただの手練手管を用いた戯言に過ぎようと、少しばかりからかってやろうと思う心はわからないでもない。
しかし、それでもお琴の真っ直ぐな気性はすぐにわかるだろう。
御職の地位まで上り詰める椎乃太夫は聡い。そうでなければ数多いる女郎たちの上に立つなど容易にできるものではないからだ。
そんな椎乃太夫だからこそ、お琴をからかう程度で済ませたのだ。
そして、そうせざるを得ない。
料理屋にいたということは客と一緒で、料理屋に連れ出すくらいだから、客はこの長崎でも指折りの大店で、そちらをないがしろにするような事はないだろう。
お琴の前で少しばかりこの花魁を相手にしない男がいた、と愚痴るくらいのものだ。
仮祝言の前に祝い代わりに文を寄こすくらいの花魁だが、きっとお琴を見て毒気を抜かれたことだろう。
「お琴ちゃん、お帰り」
「ただいま、おひでさん」
「おや、今日も一緒かね」
「そうなの。惣菜を落としやしないかと心配らしくて。あ、これ皆さんに」
そう言っておすそ分けをしているのを横目で見ながら直樹は長屋に入っていく。
この長屋でも早々に打ち解けたのは、お琴の気性ゆえだろう。
それは直樹では真似できないことだ。
江戸に戻って、新しく所帯をもって、佐賀屋とは違う別の場所で生活を始めても、きっとお琴ならうまくやるだろう。
直樹は戻ってきたお琴に言った。
「お琴、そろそろ、江戸に戻る準備をしないか」
「え…」
お琴は急に言われた言葉に口を開けて驚いている。
そこまで驚くようなことだろうかと思いつつ、直樹は言葉を継いだ。
「今すぐ、ではなくて、そろそろ準備をしないとすぐに暑くなるだろう。旅をするのも大変な時期になる。それに、今から準備をしないと、いきなりでは長屋にも勤め先にも迷惑をかけてしまうから」
「そ、そうですね。そうよね。うん、そうよ」
お琴は直樹の言葉をようやく理解したようにうなずいた。
「あまりにもここでの生活で皆が良くしてくれたから、直樹さんはもう少しお勉強を続ける気なのかしらと思っていたの」
「そうか」
「でも、そうなのね。江戸に…戻るのね」
「そうだ」
「江戸かぁ…」
お琴はそうつぶやいて思いを馳せているようだった。
「あ、おもとさんにも知らせなきゃ」
「慌てるな。明日戻るわけじゃないから、改めて話せばいいだろう」
「あ、そうか」
お琴は笑って直樹を見た。
「直樹さん、あたし、直樹さんの行くところならどこにだってついていきますから」
「ああ。今のところ江戸以外行くつもりはないけどな」
「江戸のどこでもついていきますからね」
「わかってるよ」
「約束ですよ」
「…わかった」

かくして、直樹とお琴、そしておもとは、一路江戸に向かって戻る準備を始めることになった。

(2016/04/24))



To be continued.