大江戸恋唄



52

「いつ?いつなのよ?」
奉公人は、とある文が来てから女将の言葉に誰も応えられないまま時を過ごしていた。
江戸は日本橋の小間物問屋、佐賀屋の奥での話だ。
「勘弁してください、女将」
「さあ、暖かいうちにということなら、あとひと月もすれば帰ってくるんじゃないでしょうかね」
そんなふうに適当に答えれば「ひと月?まだ待つの?もう耐えられないわ!」と女将が叫ぶ。女将ご乱心の一幕だ。

(勘当した)息子の安否よりも何よりも、仮祝言を挙げて嫁になったらしいかつての預かり人がいなくて寂しいと病気になりかけた人だ。
番頭も手代も慣れたとはいえ少しだけため息をつく。
普通は勘当した息子が心配であれこれと母親が父親に隠れて文なり援助なりするのが多いのだが、息子は放ったらかし。
もちろん心配はしているのだろうが、息子なら大丈夫と息子について口にする回数もぐっと少ない。
確かに息子である直樹は、稀に見る優秀な若者だった。
それはそれは幼い頃から利発で、どこに出しても恥ずかしくないほどの美丈夫で賢い子だった。
大店の息子に生まれて何不自由なく育った割にはわがままも言わず、大店であることをひけらかすこともしない。
ただ。
そう、ただ唯一の欠点と言えば、愛想がないことだった。
幼い頃にあれこれと嫌な大人からの妬みや好奇の目にさらされたせいもあって、目利きのいい子どもではあったが、やけに愛想もない喜怒哀楽もあまりはっきりしない面白みのない子どもに育ってしまった。
幼い頃から面倒をちょくちょく見てきた番頭も手代も、どこで育て方を間違えたのかと首を傾げるばかりだ。まあ、朗らかで福の神のような笑顔の主や活発で人付き合いもうまい女将が育てても同じなのだから、仕方がないという気持ちもある。
実際二男も同じように育ててこちらはより朗らかに素直に育っているのだし、と。
あれは親への反発心などという甘いものではなくて、何か根深いものでもあるのじゃないかと思っていたくらいだ。
実は女人嫌いじゃないのかと思うほど寄せ付けなかったのに、あっさりとひとりの女を選んでしまった。
「ああ、わたしの娘、お琴ちゃん、待ち遠しいわ」
それには素直に番頭と手代は賛成する。
あの直樹を怒らせたり笑わせたりできる唯一の女人だ。
「確かに待ち遠しいですねぇ」
「こちらでも祝言を挙げさせたいですね」
もちろん勘当した身なので、盛大にやるのは無理だろう。
佐賀屋に住んでいたのはほんの短い間だと言うのに、お琴がいなくなった後の佐賀屋は確かに寂しかったのだ。
もっと言えば直樹も調子が出なかったりしたし、良い条件の呉服問屋のお嬢さんとの縁談も断ってしまった。
勘当されてまでもお琴を選んだということだ。
「お琴さん、元気でしょうかね」
「きっと元気ですよ」
手代の言葉に答えた番頭は、そうですよね、と女将に顔を向けた。
「元気じゃなかったら直樹はやぶ医者だって触れ回ってやるから」
「女将さん…」
手代がおろおろと声をかけ、どうしたら、と番頭に目を向けてくる。
「女将さん、そうと決まれば直樹さんたちがとりあえず住む場所を探してあげたり、いろいろ必要なものを揃えたりしなければ」
「そう、そうよね!ひと月なんてそれで過ぎてしまうわね」
「そ、そうですよ、女将さん」
ああ、ようやく話がそれたと手代が安堵した。
どちらにしても無事に一刻も早くお琴(と直樹)に帰って来ていただくのがよい。
そうとなれば主な神社に寄進だ。お帰りの無事を祈らねばならない。
お琴(と直樹)のためならば主もそのように手配するだろう。
「どうしてわたしってば船を手配しなかったのかしら」
ああ、また話がそちらに、と思う間もなく、番頭はその場を手代に任せて主のところへ赴くことにした。
「お、女将さん、若だん…じゃなかった直樹さんがそんなこと承知しませんよ。自分は勘当された身だからって」
「そうは言っても、お琴ちゃんが」
手代は懸命になだめるばかりだ。
お琴と一緒に長崎についていってしまった奥向きの用事をしていたおもとも一緒に帰ってくるだろうが、こんな時におもとがいればもう少しうまく女将の気を鎮まらせてくれたかもしれない。
「そ、それより、あまり派手に祝言できませんが、いったいどこでおやりになるつもりで?」
「あら、それはもう決めてあるわ」
「き、決まってるんですか」
佐賀での仮祝言すら自分で手配をした女将だ。江戸での祝言の計画などすでに練ってあったに違いない。
「荷物もそのうち船で届くでしょうし。今年春一番の千石船でね」
「…さすが手回しの良いことで」
「当然でしょう!お琴ちゃんのためですもの」
「はあ、そうでしょうね」
一応息子であるはずの直樹の立場は、と思ったが、あえて口にはしなかった。
以後、お琴と直樹が江戸につくまでこのような会話は幾度となく繰り返されるのだった。

 * * *

「何でこの粗忽ものが!一緒に!江戸に!」
「いちいちうるさいんですけど」
朝から医学館の庭先で二人の声が響く。
「直樹殿、いっそここに骨を埋めませんか。悪いようにはしませんよ」
「残念でした!直樹さんはあたしと一緒に江戸へ帰るんです」
「本当にこんな嫁でいいんですか」
「男色の講師よりましです」
直樹はため息をついた。
「お琴、黙りなさい」
「…はい」
「ほほほ、ほうら、ごらんなさい」
勝ち誇ったように笑う大蛇森に、直樹はきりっと向き直って言った。
「いや、大蛇森講師、本当にお世話になりました。ここに粗忽ものを置いていくのは忍びないので、責任をもって江戸に連れて帰りますから、心置きなく学生たちを医療の果てなき道へと導いてやってください」
「う…。そ、そうですね」
大蛇森は胸を鋭く突かれたような顔をして直樹を見つめた後、一転して満面の笑みを浮かべたお琴を睨みつけた。
おもとは隣で「粗忽ものと言われたことは気にしないのね」と突っ込んだ。
いずれにしてもようやく慣れた長崎の町ともお別れだ。
世話になった長屋の住人、惣菜屋の女将にしばらくの間勤めた料理屋と、それなりに別れを告げる場所は多かった。
医学館への挨拶も済ませ、いよいよ明日は出発することになっている三人だ。
「直樹さん、道中何かあったら、気にせずに江戸に向かってくださいね」
「…何かって?」
「そりゃ、あたしが死んだりしても、ちゃんと江戸に戻ってくださいってことですよ」
「そんなことあるわけないだろ」
「世の中、何があるかもわかりませんよ」
「それを言うなら、俺に何かあっても死ぬ気で江戸に戻れよ」
「何かって、そんなことあるわけないです」
「同じだろ」
「…同じですね」
「どちらにしても江戸ではおまえの帰りを首を長くして待ってるからな」
「直樹さんのことも待ってますよ」
「…ああ、そうだといいけどな」
直樹は山ほど届いた文を横目にため息をついた。
どれもこれもお琴を無事に送り届けろと忠告の文ばかりだった。
長崎から帰ると一言文を送った結果だ。
これでお琴に何かあったら、無事に江戸の地を踏めないだろうなと苦笑するほどに。

明朝まだ暗い肌寒い時間から出発した一行は、途中佐賀宿に寄って、例のごとく入江屋から大坂の佐賀乃屋に移るものを伴うことになった。
まだほんの子どもらしい風情を残した奉公人は、お琴を姉のように慕ったが、必要以上にお琴さんお琴さんと連呼する奉公人に直樹はやや不機嫌だ。
「まだ年端もいかない子どもに酷ですよ」とおもとからの忠告がなければ、いずれお琴にまで愛想をつかれるところだったに違いない。
行きにはできなかった物見雄山で、京に寄り、伊勢にまで寄ろうというのだから、お琴はかなりご機嫌だ。
その代わり、江戸では(主に)女将と佐賀屋の主をはじめとした奉公人や福吉の主であるお琴の父、福吉の奉公人、江戸での知人友人たちが、お琴たち夫婦を首を長くして待っていたのだった。

 * * *

「京の都に寄りましたとあったから、今頃は伊勢参りかしらねぇ」
「伊勢参りなら、一度は行こうと思っていたんだ」
「あら、西垣さまもですか」
「猫も杓子も伊勢参りだからね」
「夫婦二人にお供が一人。そりゃようございます」
番頭が横から口を出す。
佐賀屋によく顔を出す西垣は、今では女将とも番頭とも懇意の仲だ。
いつも違う女を連れていようが、そこは詮索しない。
お琴を気に入って通っていたこともあり、女将もそこそこ西垣には融通することも多い。
旗本の三男、ということくらいしか名乗らないが、当然のことながら佐賀屋ではその素性を把握しているものと思われる。
加えてお琴には退屈侍と言われ、直樹には旗本退屈男と揶揄されるが、一応士族なのだ。失礼のないように接客は必要というわけだ。
「西垣さまもどこか良い婿入り先をどうですか」
「あ〜、今更城勤めもなぁ。いっそこういう商家でのんびりしたいけどね」
「西垣さま、商家は忙しいものですよ」
番頭は笑いながら、それでいてきっぱりと言った。
「ああ、うん。冗談だよ、冗談」
西垣は肩をすくめると、「医者もいいかな」とぼそりとつぶやいた。
そして気づいたように「だからと言ってあいつの後背を期すのは勘弁だな、うん」とうなずいた。
「西垣さま、親御さまを安心させるのも子の務めでございますよ」
さらりと番頭はそう言って、他の客の接客に戻っていった。
「今日はそろそろお暇するよ。二人がいつ帰ってくるか知りたかったからね。松本屋のお嬢さんにも教えていいかな。さすがにそこまでは文を出していないと思うし」
佐賀屋の女将は笑った。
「ええ、構いません」
「次は銀細工の簪でも購おうかな」
「あら、まあ、今度はどちらのお嬢様に?」
「それはまた追々ね。次は帰って来た時かな。いい話を期待しているよ」
「それは、もう、もちろんですとも。西垣さまがうんとおっしゃってくださるなら」
「それでは」
そう言って、西垣は佐賀屋の暖簾をくぐって出ていった。

西垣は眩しい日差しに目を細めると、ゆっくりと日本橋の通りを歩き出した。日差しはすっかり春を過ぎ、夏を目の前にしていた。
佐賀屋を出て少し行ったところに、団子のおいしい茶屋がある。
女子を売りにした水茶屋とは違い、地味ではあるが、笑顔のかわいい看板娘はいる。
春の終わりで茂った葉をつけた青々とした木が入口に影を作っていた。
そこに顔見知りの大工がいた。
「やあ、今日は早じまいかい」
そう声を掛ければ、大工は振り向いてああ、といった感じで長床机(座ったりする長椅子)を譲った。
西垣が遠慮なく座った後、少し躊躇した後で大工はもう一度長床几に座り直した。
西垣が茶屋の娘に団子を頼んでから、大工に言った。
「お琴ちゃん、帰ってくるそうだ」
大工がはっとして西垣を見た。
「…そうですか」
「二人仲良く帰って来た姿を見れば、諦めもつくだろう」
「とっくに諦めてますよ」
「そうかな」
そこへ団子が運ばれ、西垣が無言で団子を食べだすと、大工が言った。
「けじめはつけますよ」
「お琴ちゃんはさ、多分どんな目に遭ってもあの男から離れないと思うんだよね」
「どんな目って、そんなに虐げられてるんですか」
「あー、ちょっと意味が違うかな。あの男は間違いなくお琴ちゃんを大事にすると思うよ。ひどいやきもちで泣かせるくらい」
「それのどこが大事にしてるんです」
「ま、ちょっと屈折してるかも」
「生涯添い遂げると誓ったんなら、大事にするのは当たり前でしょう」
「それはそうなんだけどさ、お互い、何かどうしても離れなければならなくなったら、お互いのことを思って離れちゃうんだろうなって」
「絶対離れないんじゃなかったんですか」
「うん、だからそこが屈折してるってこと。離れたら生きていけないくらい辛いくせにさ、いざとなったらそういう選択をするだろうってこと」
再びの無言。
西垣がお茶をすすって、茶屋の外の喧騒がより一層騒がしく感じる。
「…誰も太刀打ちできないじゃないですか」
「だから、そういうところがさ、あの二人には手を出したら馬鹿を見るってね」
「そういう割には、お琴さんに手を出そうと狙っていたんじゃないですか」
「ああ、それは、また別」
西垣が笑う。
「いやあ、おいしかった」
茶碗を置き、西垣は立ち上がった。
茶屋に再び大工を残し、また通りの喧騒の中に戻っていく。
「勝手言ってら」
西垣の背をそのまま見送った大工は、西垣には聞こえないようにあらぬ方を向いてつぶやいた。
「さあて、松本屋にでも邪魔するかな」
ふてくされた顔の大工を茶屋に残し、西垣は悠々と通りの中を歩き出した。
あと数日もすればこの通りで佐賀屋の勘当息子が帰ってきたと噂になるだろう。
「西垣さま〜」
通りの向こうから西垣を呼ぶ声が聞こえ、西垣は即座に松本屋に行く予定を変更することにしたのだった。

(2016/05/16)



To be continued.