大江戸恋唄



53

「直樹さん、直樹さん、ほら、もうすぐお江戸ですよ」
「わかってる」
直樹がそれだけ言うと、お琴は黙ったが、疲れているはずの足取りは浮足立っている。品川宿へ向かう旅路の途中だ。
昨日は六郷の渡し(多摩川下流の渡し船)に間に合わずに川崎宿で泊まり、今日は朝早く出発したのだった。
品川を過ぎれば江戸市中はもうすぐで、芝を過ぎると賑わいはますます増してくる。
「直樹さん、直樹さん、東海道ももうすぐ終わりですね」
「ああ」
「直樹さん、直樹さん、ほら、増上寺が」
「…ああ」
「直樹さん、直樹さん」
「何だよ、わかったよ」
何度も何度も名前を連呼してはしゃぐお琴に、つい直樹は声を荒げた。連日の歩きに加え、朝早くからの疲れもものともしないお琴に直樹は呆れるくらいだ。
「お琴さん、元気ですね」
既に疲れ気味なおもとは、はしゃぐお琴を見ながらため息をついた。直樹でなくともこの高揚したお琴を押さえるのは大変な気がした。
直樹の言葉にも全く堪えないお琴は、何を見てもどこを見てもはしゃいでいる。この態度は今までもずっと同じで、同じく旅をするものとしては気が楽な反面、疲れているときに聞くと二倍増しだ。
行きは特に船上での景色は変わらず続くばかりで退屈だったのだろう。
帰りは物見雄山であちらを見てもこちらを見ても初めての場所ばかりなのだから、気持ちはわからないでもない。
大坂の賑わしさ、活気にあてられて、お琴の食欲は落ちることもなく満足そうだった。
京の都の華々しさには、何やら妄想をたくましくして、お琴が一人にへらにへらと笑ってばかりいたのは、おつきのおもとですら不気味だった。それでもまたかと呆れもしない直樹に、おもとはある種の感動を覚えたくらいだ。
伊勢に至る頃にはなんとなくおもとも想像がついたが、踊り狂うかのような集団を見つけて、御利益があるならば一緒に踊ってみようかと思案していたのを止めたのは、我ながら良い判断だったと自負している。
それでも神妙にお伊勢参りを済ませ、伊勢を出発した後は妙にはしゃいだり、少し落ち込んだりを繰り返しながら道中を過ごしてきた。
ようやく江戸市中に入る頃になって、お琴は心配そうに言ってきたのだ。
「直樹さん、江戸に入って大丈夫かしら」
「どういうことだ」
「だって、直樹さん、一応勘当された身でしょ」
「俺は勘当はされたが罪人じゃない」
「でも、ほら、佐賀屋の息子は祝言間近の女子を裏切って、とか」
「…祝言間近も何も、そこまでひどいこと言われるようなことはしていないと思うが。それに勘当も大泉屋の手前、そうしたほうが世間的にも都合がいいからだが」
「そうですか。大丈夫、でしょうか」
「そんなことをずっと心配していたのか」
「ええ、まあ」
少しだけうつむいたお琴を直樹は額をぱちんと叩いた。
「いたっ」
「ほら、前を向け。佐賀屋の父母も元気なお琴を待ってるだろう」
「そ、そうでしょうが、何も叩かなくても…」
ぶつぶつとつぶやきながら、それでもお琴はいつも通りに歩き出した。それを見て直樹は微笑んだ。相変わらずろくな心配をしないと思いつつ。

陽が強く照りだす頃、ようやく日本橋の通りが見えた。
江戸に入った頃からなつかしさは感じていたが、江戸市中でもとりわけ店の集う日本橋の通りは格別だった。
「わあ!お江戸に帰ってきたって感じ」
そう言って駆けだそうとするお琴の腕をとっさに直樹がつかみ、かろうじて止めた。
いくら慣れた通りであろうと、ここで走り出しては大八車にでもぶつかりそうで気が抜けない。ここまで来て怪我をしては何を言われるかわからない。
おもとは江戸市中での暮らしが長かったわけではないが、帰ってきたと感じた。
すでに佐賀屋が自分の帰る場所だと実感していた。
直樹は懐かしさもあったが、この人通りの中で偶然大泉屋の誰かに会っては気まずいだろうと、自然と辺りを警戒しながら歩いていた。
大泉屋は佐賀屋よりも通りの奥なので、さっさと佐賀屋にあいさつに戻るのが吉だろう。
自然と帰ってきたという噂は回るだろうが、噂が回るのと実際に会うのとは別だ。
大泉屋の一人娘も他の婿を見つけていればより安心なのだが。
そうやって直樹があたりを警戒している間に、気づけば隣にいたはずのお琴がいなかった。
「お琴!」
はるか後方で、困った顔のおもとがそばに付いて、誰かに話しかけているお琴が見えた。
「何やってんだ、あいつは」
仕方なくもう一度踵を返してお琴に近づく。
お琴はどこかの老人とにこやかに話をしている。
おもとがいるので何かに騙されたりすることはないだろうと思いつつ、以前の人さらいのこともあるので、警戒して老人をうかがった。
「あ、直樹さん、ほら、以前お会いしたことのある御隠居様」
「…ああ」
直樹はあえてその御隠居の名を出さずに頭を下げた。
紛れもなく大泉屋の先代主で沙穂の祖父だった。
何か大きな力を持っているという噂は、伊達ではなかった。
お琴は知らないが、お琴を救うのにも一役買ってくれた。
そして、お琴は未だ沙穂の祖父であることを知らない。
大泉屋の御隠居も役者が違うようで、こうして道端で会うと好々爺の風情だ。もちろんそうやって油断させるのも正体を隠しているせいなのだろうが。
「ほら、やっぱりこの御隠居様は悪い人ではなかったわ」
「…ああ、そのようだな」
お琴は喜んでいるが、直樹としては一刻も早く立ち去りたい気分だ。
「だからと言って、いきなり離れるな。こんな店の目と鼻の先で行方知れずになられたらたまったもんじゃない」
「あ、はぁい」
間延びした返事を返しながら、あまり反省した様子はない。この日本橋の通りでそんなことがあるはずないとでも思っているのかもしれない。
今まで鄙びたところばかりにいたので、久しぶりの江戸での過ごし方とやらを忘れてしまったのか。この人ごみの中ではぐれたら、子どもなど二度と会えないかもしれないというくらいの江戸の喧騒と物騒さを。
「それではね、御隠居様」
御隠居はお琴に軽く手を振って見送った。
すぐに佐賀屋に着くという気楽さから、足取りもさらに軽快に歩き出したお琴は気づかなかったようだが、直樹が注意深く見守っているうちに、御隠居は通りからそっと消えていた。
「何だか得体の知れない御老人でしたわね」
おもとの言葉に直樹はうなずいた。
「正体は知っているんだ。大泉屋の先代で、怪しい身分ではない。ただ、得体の知れない、というのは合っているかもしれない。俺も陰で何をやっている方か、詳しくは知らないが、江戸の奥をも動かす方だと聞いている」
「まあ、そんな御方なのですね。よく胆に銘じておきます」
あの御老体にもかかわらず神出鬼没なところは本当に侮れない、と直樹は思うのだった。
そんな再会をしたのもつかの間、三人の目の前には大きく佐賀屋と染め抜かれた暖簾が見えた。
「きゃ―!帰って来たわ」
お琴は止める二人の言葉を聞かずに走り出した。
店の前に客を見送る手代の姿があった。
「惣吉さぁん!」
手を振って駆け寄るその騒々しさは、周りの者たちを驚かせもしたが、同時にお琴が帰ってきたと知らしめることになった。
「お琴さん!お帰りなさいませ!」
手代が張り切って声をかけるが、かけながらも涙ぐんでいる。

「え?お琴ちゃん?」
「お琴さん?」

店の中にまで響いた声は、接客をしていたにもかかわらず女将と番頭を店の外に飛び出させた。
一方直樹は親し気に手代の名前を呼んだことで眉間にしわが寄っている。いつの間にそこまで親しくなったのだ、とでも言いたげだ。
後から息子がゆっくりと歩いてくるにもかかわらず、それは全くの無視でお琴を囲んで涙を流している実家の連中である。
「…無事に送り届けましたからね」
一言そう言えば、女将はさも今気づいたかのように「あら、お帰りなさい」とあっさり返事を寄こした。
直樹とて涙の再開を期待していたわけではないが、ここまであっさりだと、いったい自分はその辺にお使いにでも行っていたのかと錯覚したくらいだ。勘当されたとはいえ、一年以上を遠い長崎で過ごしてきたし、生命の危機もあったのだ。
「まあ、おもとさんも疲れたでしょう。さ、皆、中へ」
そう言われて直樹は一瞬佐賀屋の敷居をまたぐのをためらった。
しかし、番頭がそっと背中を押すようにして言った。
「長旅をしてきた方をもてなすのは、何も勘当云々は関係ありませんよ。どうぞしばし疲れを癒してください」
そこでようやく直樹は安心して佐賀屋の奥に入ることができた。
奥の部屋では主である重樹が待ち構えており、下働きの奉公人たちも誰もかれもが直樹とお琴を見ようと並んで立っていた。
「お帰りなさいませ、お琴さん。夫婦になられたんですって?」
そうやって顔なじみの奉公人が言えば、新しく入った奉公人もいる。
「初めまして直樹さま、ようこそ佐賀屋へ」
「お帰りなさいませ、直樹さま」
「お琴さん、おめでとうございます」
「おもとさんもよくぞ御無事で」
そうやって長旅を労われ、祝言を挙げたことを祝われ、お琴も感極まってきた。
「えぐっ、えぐっ、あ、ありがどうございまず〜」
「…鼻水拭え」
直樹に手拭いを差し出され、お琴は歩きながら鼻をかんだ。
お陰で奥の主の部屋に着く頃には、なんとか挨拶ができるくらいになっていた。


お琴は鼻をかんですっきりしたその顔で、少し後ろにいる直樹を見上げた。
主の息子である直樹よりもお琴が前にいるのは、旅立つ前に主から勘当されたせいだが、それでも息子であることには違いない。
襖の向こうで息を殺すようにして主は待っている。
この息子である直樹を誰よりもずっと手元に置いておきたいと願っただろう人だ。
促されて襖を開けると、いつものように主がにこやかに迎えてくれた。
中に入って「おじさま、ただいま戻りました」と言うと、黙ってうなずくだけで涙ぐんでいる。
お琴もつられてまた涙ぐんだが、後ろからため息とともに「鼻水」と言われたので、はっとして涙を止めた。
もう、直樹さんったらひどい、と文句を言う前に、直樹が頭を下げた。
「ご無沙汰しておりました。勘当された身でありながら、この家の敷居をまたいだこと、また若輩の身でありながら、お琴と夫婦の契りをかわした勝手をお許しください」
「直樹、顔をあげなさい。わしは、…大泉屋さんの手前、おまえを勘当するしかなかった。お琴ちゃんと所帯を持ったのも、お紀が計画したせいだと承知だ。もちろん表向きは当分勘当したままになると思うが、わしとて大事な息子をそう簡単に見捨てられるものでもないんだよ」
「ありがとうございます、おじさま」
勢い込んでお琴が頭を下げると、そこへ勢いよくすぱーんと襖を開けて、お紀が入ってきた。大店の女将とは思えない思い切りの良さだ。
「さあ、湿ったあいさつはそこまでにしてちょうだい」
「お、女将」
後ろから慌てて追いかけてきた番頭と手代が、止められなかった!という青ざめた顔をしている。
「こ、これ、おまえ」
さすがの主も驚いて仁王立ちする女将を見た。
しんみりとした場が、一気に騒がしい場となる。
「勘当したままを装うなら、一緒に住むわけにはいかないから、新婚の二人にふさわしい新居が必要よね」
「ええ?!」
お琴の声に直樹は眉根を寄せて母である女将を見た。
「さ、お昼を済ませたら、早速新居を見に行きましょう」
あまりにも張り切っている女将に番頭は慌てて言った。
「女将、そんなに急がせては疲れもとれませんよ。それに、久しぶりにお琴さんたちと夕餉を囲むのを楽しみにしている者たちのこともお考えくださいませ」
「…あら、それもそうね。そうよね、疲れたわよね」
「いえ、あの」
「疲れましたわよね、お琴さん!」
力強くおもとがお琴に迫ったので、お琴はちょっと後退りながら「え、ええ」と答えざるを得なかった。
「まあ、やっぱりそうなのね。ごめんなさい、お琴ちゃん」
「い、いえ。その…直樹さんは、大丈夫?」
疲れていると言えば疲れている。しかし、新居と聞けばまたもや新たなる力が湧いてきそうなお琴に対して、呆れたようにそっぽを向いている直樹が心配だった。
「…静かに二人きりになれるところだったらどこでもいい」
ため息をつきながらお琴にそう言ったので、お琴は顔を真っ赤にして直樹の背中をたたいた。
「や、やっだー、直樹さんったら。ふ、二人きりだなんて」
何を今さら、といった感じの直樹だったが、着いた早々の騒動は勘弁してほしいと願っている。もちろんこんな騒がしさも予想の範囲ではあったが、久々にくらうとめまいがしそうなほど強烈だった。
しかも久しぶりにお琴と二人きりになれると思えば、新居に移るのも構わないと思っていた。
そんな直樹の想いも知ってか知らずか、お琴は女将に言った。
「明日、案内してくださいますか。あ、でも、そこまで甘えてしまっては…」
女将はお琴の手を握ると、熱心に言った。
「何を言ってるの、お琴ちゃん。正真正銘家族じゃないの。それくらいさせてちょうだいな」
「おば…いえ、お義母さま…!」
「…お琴ちゃん!」
二人でひしと固く手を握りあっている。
おもとはそこまで見て、さっさと自分の支度にとりかかることにした。
奉公人でもあるおもとは、お琴たちのようにのんびりしていられる身分でもない。
直樹はと見ると、もはや無表情だ。どうにでもしてくれといった感じだ。
涙の再会が終われば、またもや佐賀屋にも元の活気が戻ってくる。
奉公人たちもそれぞれ自分の仕事に再び取りかかりながら、更に騒がしくなるだろうこれからの日々を思った。
いや、騒がしいどころか地獄のように忙しくなるのを、まだ奉公人たちは気付いていなかったのだった。

(2016/06/15)



To be continued.