大江戸恋唄




お琴が佐賀屋を出るという話はあったものの、実際はなかなか実現しなかった。
それと言うのもお琴の父の店、福吉は再建してから思ったよりも忙しく、お琴の父である重雄はお琴と過ごせる時間も少なかったのだ。
お琴は申し訳ないと思いながらも佐賀屋での生活を楽しんでおり、佐賀屋の者たちもお琴がいるのが当たり前になってしまっていた。
お琴と顔を合わせるたびに憎まれ口を叩く裕樹だったが、今ではすっかり慣れきってしまって、たまにお琴が福吉から直接家に戻ったときなどはつまらなさそうにしている。
口ではそのまま家に帰ってしまえばいいと言いつつ、いないとなると手習いの帰りにそれとなくお琴の様子を見てくることもあるようだった。
直樹は相変わらずで、時折はお琴が出かけるついでに一緒に行くようにお紀に言われて行くくらいで、表面上は平和な日々が過ぎていた。

福吉に行くと、上方言葉の料理人見習いがうるさかった。
「おんどりゃー、またお琴にちょっかいかけにきたんか」
そんな風に突っかかられる。
そのたびにお琴にたしなめられ、店の主であるお琴の父、重雄に怒られることもしばしばだ。
直樹がお琴に何かをするわけではない。
ただ時々お紀の言う通りにお琴を連れ帰ってくるだけだ。
重雄が恐縮したように夕食代わりの料理を出してくれるのもありがたかった。
その重雄も弟子がたくさんいるようで、立ち働く姿をぼんやりと眺めながら直樹は食事をすることもあった。
これだけ忙しくてはお琴に構っていられないのも当然だろうと思った。
それでも重雄は自分の店に誇りを持って働いていた。
もちろん直樹の父、重樹とて同じように自分の店に誇りを持って働いているには違いない。
ただ、それは直樹の心を動かすものではないというだけだ。
それは大変な贅沢であるというのはわかっていた。
その日暮らしで食うや食わずのものも大勢いる中での戯言に過ぎない。
誰もが何かをしなければ生きていけないのだ。
今は父母の庇護の元にこそこそと黙って別の勉強をしていることをいつまで隠しておけるものなのか。それこそ父母が今直樹を好きにさせているのは、その後店を継ぐと思っているからに違いない。
そして、その勉強道具の一部は、父母が稼いだ金であることも直樹を心苦しくさせていた。
割り切ってしまうには、まだ心を決めかねていたのだ。
「小間物問屋を早く継いでそれなりのお嬢さんを嫁にもらわなあかん時期ちゃうのか」
料理を運びがてら料理人見習い、金之助がそう言った。
売り言葉に買い言葉で、ああ、そうだなと返す言葉が途中で詰まった。
どうしても、継ぐ、という言葉に素直にうなずけなかったのだ。
少し考え込んでいた直樹に、お琴は陽気に話しかけた。
「どうされたの、直樹さん。また金ちゃんが何か言った?」
「…別に」
お琴の給仕する姿を見ながら、直樹は自分の行く末を見つめていた。
お琴を嫁にという母、お紀の言葉はやや非現実的だった。
正直言えば、店の女将などお琴でもいいがお琴でなければならないわけではない。
直樹にとって店はそういう存在だ。
つぶせないが、積極的につぶしたいわけではない。
それこそ弟、裕樹もいるのだから。
そろそろ、本当にそろそろ父母に打ち明ける時期かもしれないと直樹は思った。
このままなし崩しにお琴と一緒にされて店を継ぐことになったら、後戻りができない。
長崎に行くつもりであったので、この先の保証もない。
その遠すぎる道のり、果てのない学問を思うと、嫁などとっている場合ではないと思っていたのだ。


後にお琴はこの日の直樹の姿を時々思い出すことになった。
何か思いつめたような、決意したような表情に、少しだけ哀しげに心が騒ぐのを感じながら横顔を見ていた。

 * * *

やはり医師になりたいという決意をした直樹の心を少しだけ騒がせていたのは、時折見かける大工の若者だった。
さすがにその正体は既に知れていたが、お琴に話しかける態度がやけに馴れ馴れしいのではないかと思っていた。
毎度見かけるたびに直樹に突っかかってくる料理人見習いよりもずっと現実味を帯びていた。何よりもお琴の態度が違う、と感じていた。

ある日、その若者が団子屋で休憩しているところに行き会った。
「ああ、これは佐賀屋の」
目が合ったのでお互いに仕方なく会釈し、大工の若者がそうつぶやいた。
一応商売人と職人であるものの、いつ世話になるかわからない立場としては上方言葉の料理人見習いよりもはるかに態度はよかった。
もちろんいきなりけんか腰になる理由など直樹には見当たらないのだが、と思っていた。
「今日もお勉強ですか」
少しだけ棘を感じさせるその物言いは、恐らくお琴から聞いたのだろうと直樹は思ったが、それには答えずに通り過ぎようとした。
「…あんた、きっぱりお琴さんを振ったらどうだい」
通り過ぎようとしていた直樹は思わず振り返った。
「一緒に住んでいるからって、いつまでも気を持たせちゃお琴さんがかわいそうだ」
直樹は黙って若者を見た。
そう、名前は確か啓太とか言ったと思い出した。
「それで?」
「お琴さんは、あんたを想って家に帰るきっかけもつかめない」
「振ったら、あんたが付文でもするのか」
「…そんなこと!」
大工の若者、啓太が否定しようとしたが、顔を真っ赤にさせるだけでうまくいかなかった。
直樹はそれを見て呆れたように言った。
「他にも料理人見習いが同じようなこと言っていたけど」
「誰でも思うんじゃねぇの」
開き直ったように啓太は言ったが、直樹は淡々と返した。
「…お琴が、いつ帰るかなんて知ったことではないし、好きにすればいい。部屋は余ってるし、家族は歓迎してる。それはおまえが気に病むことじゃない」
「ああ、そうかい」
やけくそ気味に啓太が言ったところで直樹が笑った。
「あいつもおまえも、何でお琴がいいんだ?」
「お、俺は別に…」
そう言って啓太は口ごもって「ちょっとした保護欲というか妹みたいなもんで…」とぶつぶつつぶやくのを直樹は冷たい目で見た。
「別にどっちでもいいけどな」
そう言って啓太から離れて歩き出した。

「なんだ、あいつ」

直樹の背中に向かって啓太が悪態をつくのが聞こえた。
直樹はその声に振り向くことなく歩き続けた。

家に帰りつくとお琴が「お帰りなさい、直樹さん」と屈託のない笑顔で言った。
それがやけに気に触り、直樹はつい言った。
「料理人見習いだの大工だのと愛想振りまきすぎなんじゃねぇの」
「…金ちゃんと…啓太さん?」
首を傾げるお琴に更に腹が立って襖をぴしゃりと閉めた。
「愛想って…普通の会話なのに?だいたい直樹さんが無愛想すぎるだけでしょ」
襖越しにお琴の声が聞こえた。
誰にでも笑って接する気持ちが直樹にはわからなかった。
直樹の父も商売人らしく、いつも笑顔で福顔と評判の主だった。
笑えば得なことがあることくらいはわかっていた。
小さい頃には処世術で団子屋の女性に笑顔を向ければ頼んだよりも多く入っていることがほとんどだったし、たいていのことは許されることもわかっていた。
それがあまりにも馬鹿馬鹿しく感じて、滅多に笑わなくなってからというもの、直樹は必要以上に仏頂面になったのだった。


お琴はお琴で心配事は尽きなかった。
一度師の元へ行く直樹の後をこっそりついていこうとしたが、あっさり見破られてしまい、往来で怒鳴られた。
それ以来さすがに後をつけるようなことはなかったが、古本屋に行くときなど、嫌がられながらも一緒についていったりもしてみた。
それというのもここ最近直樹の着物からほのかに香る匂いはいつも同じだったからだ。
それまではどちらかというと薬の香りがほのかにしていたくらいで、最近香る匂いは明らかに女のものだとお琴は思ったのだ。
意を決して直樹にも聞いてみた。
「な、直樹さん」
「なんだよ」
「その、最近いつもお着物に良い匂いがするので、どんなお香を使っているのか教えてほしいの」
「匂い?お香?」
そう言って自分の着物を嗅いでいる。
「…ああ、お裕さんのか」
「お、お裕さん?」
顔が青ざめるのを感じながらそう言うと、直樹はお琴の顔を見て面白そうに言った。
「師のもとに同じく通っているお嬢さんだ」
「へ、へえ…。どんな人…?」
「そうだな。頭はいいのはもちろん、なかなかの美人だ」
「び、美人…」
直樹の口から美人だと出たのは初めてではないだろうかとお琴は驚いた。
それほどまでの美人なのだと思わざるを得ない。
直樹はお琴の様子とは裏腹に、楽しげに言った。
「そう言えば、家はお香屋だったか」
「そ、そうなんですか。だから良い匂いが移ったんですね…」
そこまで言って、お琴ははっとした。
良い匂いが移るほどの距離にそのお裕さんとやらがいることに。
もしかしたら仲良く肩を寄せ合ったり、抱きしめたり、もしかしてく、口付けまで…?
そこまで考えたとき、お琴は衝撃のあまりふらふらしながら部屋に戻った。
とても直樹の顔を見られなかった。
今までありとあらゆる年齢層の女と名のつく人間に興味を持っていなかったという直樹が、たとえ戯れでも仲良く話をしたり、お香の匂いが移るほど傍に寄せるとは、それこそお琴にはありえない話だった。
ありえないが、今は現実として直樹の着物からは連日同じ匂いがしているのだ。
確かに師のもとへ行くことがここのところ多くなっていて、それが逢引でないとどうして言えよう。
直樹はふらふらと部屋に入っていったお琴の様子を楽しげに見て、さらに「ばーか」とつぶやいたが、それにお琴が気づくことはなかった。

 * * *

翌日、直樹はいつもより機嫌よく家を出た。
その機嫌の良さは奉公人たちにも気づかれるくらいで、いったい直樹に何があったのかと訝(いぶか)るくらいだった。
反対にお琴が落ち込んでいて、目の下には隈までできていた。
それを見た直樹がすれ違いざまに「歌舞伎かよ」とぷっと吹き出したのを見て、ようやく奉公人たちは直樹が喜ぶような何かがあったのだと勝手に解釈した。
もちろんその解釈は間違っていないが、直樹の機嫌の良し悪しにお琴が関係することくらいはさすがに気づいていたのだ。
「お琴さん、直樹様と何かありましたので?」
若い女中が思わず期待してそう聞いたのも無理はなかった。
「い、いえ」
慌てて答えたお琴の様子を見て誰もが何かあったのだと確信した。
「ほらほら、手が止まっていますよ」
年配の女中がそれ以上追及してはならないと言うように若い女中を促した。
助かったとお琴が息を吐いたところに年配の女中は笑って言った。
「直樹様なら大丈夫ですよ」
「な、なんで」
何故わかるのかとお琴は年配の女中を振り返った。
「どんなに美人で働きものの若い女中が入っても、見向きもしなかった方です」
それは女中だからと思っていたからでは?と首を傾げたお琴に年配の女中は苦笑した。
「直樹様がどこへいらしているか、この家の者は誰も知りません」
あたしは知っている、とお琴は顔をこわばらせた。
「そこがどんなところであれ、直樹様が目的を持っていらしている場所ですから、目的以外のことには目が向かないお方だと思いますよ」
「…そうでしょうか」
暗に直樹の女人のことで悩んでいると打ち明けたようなものだ。
しかも恋仲でも何でもなく勝手に悩んでいるお琴にとっては、直樹の行く先も言えないし、直樹に文句も言えない。
年配の女中は、もちろん直樹が岡場所のようなところに行っているわけではないとわかっていたのでそう答えたが、二人の様子からしてお琴だけは直樹の行く先を知っているのだろうと思われた。
そうでなければもっとお琴が騒いでもおかしくはないのだ。
むしろ今まで安心していた場所に女人の姿を認めたので、こうして心配しているのだろうと年配の女中は察したのだった。
年配の女中に言われた後もしばらくはふさいだ様子を見せていたお琴だったが、やがて何か開き直った様子を見せて、いつものように立ち働く姿を見せるようになった。
奉公人たちはそんなお琴の様子を見てほっと息を吐いたのだった。
いつかいなくなるとわかっていても、既にお琴は奉公人の中では主家族同然で、しかもお琴の元気な声一つで活気が出るようにもなっていた。
頭が良くてきれいな顔立ちの直樹は、少し近寄り難い人間だったので、その直樹と口げんかまでしてしまうお琴の存在は、直樹が実は年相応の当たり前の若者でもあると認識させてくれた存在でもあった。
お琴が来たこの数ヶ月の間で、直樹は随分と変わったと奉公人ですら気づいていたのだ。
笑いもしなければ怒りもしない、ただ淡々と生きているだけのようだった直樹が、大声で笑い、怒って怒鳴り、何か楽しげだったりする様子は、商いを堅実にしていく以上に直樹には必要なものであったのだと思ったのだった。
さすがは主夫婦だと奉公人たちが感心していたことを、直樹は全く知らなかった。
当然奉公人たちはどちらかというと直樹よりお琴の味方だったのも仕方がないだろう。
だから、年配の女中が帰ってきた直樹から「お琴の様子はどうだった」と聞かれて思わず「お昼からはいつもどおりに過ごされましたよ」とちょっとだけ直樹を責めるように答えたのも仕方がないことと言えるだろう。
「ふうん」
そう言って年配の女中を直樹は見た。
「おきよはお琴さんの味方ですからね。あまりいじめないでやってくださいまし」
「別に」
「女将さんに知られたら、大変ですわよ」
「…でも言わないだろ、おきよさんは」
「あれでお琴さんはおもてになるんですよ。しかも直樹様を囲むようなお方たちではなくて、皆様想いは真剣です」
「どうだか」
直樹はそう言って女中の前から立ち去った。
女将のお紀の見る目は確かだと年配の女中、おきよは思っていた。
これほどまでに感情を出す直樹を見たことがなかったのだ。
この先のお琴の想いも直樹の想いも行く末がどうなるかはともかく、その若々しい想いに触れると、自分は随分と歳をとったのだと感じた。
お琴がこの家を去る時は、自分の役目も終えていいのではないだろうかと思うのだった。

(2014/01/26)


To be continued.