大江戸恋唄




お琴が落ち込んだりしている間に、直樹はせっせと師の元へ通っていた。
もちろんそれは自分のためではあったが、お琴の誤解がおかしくて、不意に笑いがこみ上げたりした。

「直樹さん、何か楽しいことがありまして?」

不思議そうに美人が聞いた。
ここ最近師のところへ通ってきているお裕という名の女性だった。
歳の頃は同じだったが、同じにしてはお琴と比べるのも悪いくらいの女性らしさだ。
家がお香屋であるため、いつも良い匂いをさせているのも女性らしさを醸し出していると言えよう。
どうやら家業に役に立つと師の所に病を勉強しに訪れているらしかった。
それはかなり熱心で、頭も良く、直樹は感心していた。
「いや、別に」
素っ気無くそう答えて再び師から預かった書物を書き写す。
書物を書き写した後は、師に付いて患者を診ることもするのだが、書物どおりにいかないのが病だった。
病にはいろいろと段階もあり、年齢によっても症状の出方が違う。
それを書物を参考にしつつ体得せねばならなかった。
お裕は直樹が大店の嫡男であることを知り、興味を持っていた。
お裕のところは二人姉妹で、どちらも美人姉妹で名が通っているらしい。
ここに通っているうちにその噂くらいは聞いたが、住んでいる場所はこの師の家の近くなので、今まで全く姿を見たことはなかった。
「日本橋の佐賀屋といえば、大名家にまで伝手のある大店でございましたわね」
「…そう言われてはいるな」
あまり家業の話をしたくなかった直樹は、お裕の話には乗り気ではなかった。
それでもお裕はそれとなく直樹に話しかけてきた。
「今度お店に寄りましたらお見立てはしてくださるのかしら」
「俺はあまり店に出ませんよ」
「あら、そう、残念」
お裕はそう言って今日やる分を終えたらしく、師にニ、三質問をした後に帰っていった。
お琴が心配するようなことは何もない。
もちろん何かしらの誘いはあるので、向こうは直樹に好意を持っているのかもしれないと思うことはあったが、師のところでは勉強をしに来ているのであって色恋沙汰を起こす気は直樹には全くなかったのだ。

 * * *

それから数日後、本当にお裕が店に現れた。
何気なさを装って店の中を見回し、今日は嫡男はいらっしゃらないのかと店の者に尋ねた。
もちろんそれくらいはよくあることであり、店の者もあえて直樹を表に出したりはしない。
本当に呼び出すと、売り上げは確かに良くなるが、店の中が大変なことになるのがわかりきっているからだ。
何となく気になった手代は、女将に話を持っていった。
女将との話を通りかかったお琴が聞いた。
お琴は女の勘とでも言うべきなのか、即座にあのお香の人だと見抜いた。
女将がお裕に応対すると、お裕はそつなく品物のあれこれを見て女将と歓談し、帯止めを一つ買っていった。
帰る頃になって直樹が現れた。
見計らったような時間だった。
もちろん本当に見計らったのであり、お琴はやきもきしながら店の隅でずっとお裕を見ていたのだ。
女将との話は匂い袋にまで及び、これなら小間物問屋としてお香屋と協力して商品にしていけそうだとの話にもなっていた。
そこへ直樹の登場で、更に話は具体化する。
直樹は商売に関しての勘は悪くないので、そういう話になっても小間物問屋の若旦那然としている。
それにしてもお裕はどういうつもりなのだろうとお琴はそわそわして見ていた。
お裕もそんなお琴に気がついたのか、ちらりとこちらを見た。
しかし、見ただけで声をかけてくるわけでもない。
それが無性に気になって、お琴は店から奥へと戻った。
このままじっと見ていたら、自分からどういうつもりかと問い詰めてしまいそうだった。もちろんお琴にはそんな権利などないというのに、だ。
お裕がようやく帰っていったのを見て、お琴はもう一度お店の中をのぞいた。
お裕がいた場所には微かにお香の香りが漂っている。
これだけ香れば直樹に匂いが移るのもわかるというものだ。
「それにしたって香りすぎじゃないのかしら。いくらお香屋の娘だからって」
そんな風につぶやいて顔を上げると、そこには直樹の顔があった。
驚いて飛び退いたくらいだ。
「…で、どうだった、お裕さんは」
にやりと笑った顔は、いつものお琴をからかう様相だ。
「大変おきれいな方でした」
叩きつけるようにお琴はそう言った。
実際本当に美人だったのだ。お香屋のある通りで小町と言われてもおかしくないくらいに。
「…あのお香は…」
そう言いかけてお琴は口をつぐんだ。
自分とは違う香りは、やけに艶めかしく女を感じさせる。
「おまえには似合わないだろ」
直樹の言葉にお琴は直樹を睨んで言った。
「どうせあたしは美人じゃありませんからね」
直樹に声をかけられる前にお琴は自分の部屋に逃げ込んだ。
何か背中に声をかけられたようだったが、とても振り向くことなどできなかった。



直樹は足音も高く部屋へ戻っていくお琴の背中につぶやいた。
「美人かどうかは関係ないだろうが」
もちろん部屋に戻ったお琴には、直樹のそんな言葉など聞こえるわけがない。
人それぞれだと言いたかったのだが、今さら追いかけてそんなことを言うのも馬鹿馬鹿しい。

「兄さま、何ですかこの匂いは」

後ろから今帰ってきたらしい裕樹が声をかけてきた。
「ああ、おかえり」
「ただいま、兄さま」
「お香だろ。今度匂い袋も考えるらしいぞ」
「…そうですか。わたしはこの匂い、ちょっと苦手ですね。もっとこう、爽やかなほうが…」
「おまえの好みはもっと快活なほうがいいのか」
「…いえ、そういうわけでは。おとなしめの香りがよいと思っただけです」
少し赤くなりながら裕樹は答える。
「兄さまはこういう香りが好みなのですか」
少しだけ虚を突かれたようになり、直樹は口を開けたまますぐには答えられなかった。
「…いや」
それ以上言葉が出なかった。
良い匂いだとは思う。
思うが、自分が考えていた匂いとは何か違うと思っていたなどと裕樹には言えなかった。
「そうですか。こういう匂いにも慣れないといけませんかね。実は白粉の香りも苦手で」
「ご婦人方を相手の店では、それでは困るだろ」
そう言って直樹は笑うことができた。
笑いながら自分は一体何を考えているのか、とため息をついた。
いったい誰を思い浮かべたのかなどと、口が裂けても言えなかった。
直樹の部屋よりも奥、そこはしんと静まっていて、この話を聞いているのかどうかさえわからなかったが、少なくとも泣き声は聞こえなかった。
聞こえなかったことにほっとした自分がいることに直樹は気づいた。気づいたが、今はどうしたらいいのかさえわからなかった。
なので、そのまま黙って裕樹との会話を打ち切って部屋に戻ったのだった。



直樹が気にしたほどには、お琴は泣いてはいなかった。
どちらかと言うと怒りに身を任せながら手鏡をのぞいていた。
「どうせあたしはあれほどの美人じゃありませんよーだ。
でもこれでもかわいいと言ってくれる人の一人や二人くらい…」
そこまで言ってお琴は口をつぐんだ。
それでも、そう言ってくれるのが直樹でなければ意味のないことだとお琴はうつむいた。
手鏡を置いて文箱を開ける。
文箱の一番下には、直樹の幼少の頃の姿絵が入っている。
もちろんこれは直樹には内緒だが、取り出して一人で眺めるぶんには問題ないだろう。
そしてその姿絵を見ながら何度か思い出しそうになることを考えた。
どこかで見たことがあるのかもしれないと思っていたが、父同士が友人同士であることを考えれば、幼い頃に会っていても不思議はない。
会話をした覚えはなかった。
これほどの美少女であれば、いくらお琴の記憶が残念な出来であろうと片隅にでも残っているだろうからだ。
「やっぱり気のせいよね」
どちらかと言うと、神童と言われていた頃の直樹に会ってみたかった。
その頃のお琴と言えば、近所の悪餓鬼たちと遊びまわっていて、おしとやかと言えるようなものではなかった。
「ああ、なしなし」
思わず頭を振って自分の幼少時の頃のことを思い出すのをやめた。
母が亡くなってから、男手ひとつで育ててくれた父には感謝しているが、両親のそろった家というのはやはり違うと、この佐賀屋に来てからしみじみ思っていた。
料理屋にはたくさんの人がいて、あれこれかまってもらえたのは恵まれていたと思う。
それでも、母のぬくもりをあともう少しだけ感じていたかったのは本当だ。
「…お母さん」

「お琴」

はっとしてお琴は後ろの襖(ふすま)を振り返った。
「な、何でしょうか」
慌てて姿絵を片付ける。
直樹に見られては大変だと姿絵を背にかばい、「開けるぞ」と言った直樹に焦って「ちょ、ちょっと待って」と答えるのが精一杯だった。
何で直樹さんがわざわざと思ったものの、手は忙しく姿絵を元に戻そうと文箱に突っ込んだ。
慌てて文箱を元の場所に戻すと、ようやく息をついて「ど、どうぞ」と襖の向こうに答えた。
「…足の具合を見に医師が来ている」
「へ?あ、足?」
「俺の後をついてくるくらいだもんな。とっくに治ってると言ったんだが、母がうるさくて」
お琴は顔をひきつらせながら「わかり…ました」と答えて立ち上がった。
直樹はお琴の後姿をじっと見ていた。
「大丈夫です。直樹さんのおっしゃったようにもう随分と歩けますし」
お琴が膨れながらそう言うと、直樹は笑いもせず「そうだろうな」と返した。
その反応に首をかしげてお琴は聞いた。
「それだけですか」
「…ああ」
それでも直樹は動こうとしない。
「あの?」
ますますいつもと違う様子の直樹にお琴は首を傾げた。
やはりお琴には直樹の考えることなどわからなかった。
「参考になるから俺も行く」
「…え」
「行くぞ」
そう言うと、直樹はお琴の前を歩いていく。
本当に直樹さんは勉強好きで変わっている、とお琴は思うのだった。



直樹が襖越しにお琴に声をかけた時、先ほどのこともあって泣いているのではないかと少し思っていた。
つい耳を澄ませたところに「お母さん」とお琴の声が聞こえた。
だから、部屋に入った時に慌てて片づけていたのはお琴の母の思い出の品でも見ていたのだろうと思っていた。
とりあえず涙の後がないことに息を吐いた。
母を亡くしていたことを知り、両親の揃っている佐賀屋にいるのは辛くないのかと思ったこともある。
どちらかというとこの家での生活を楽しんでいるようだったので、あえて直樹は聞くこともなかった。元よりそれまでそんなことすら気にしたことはなかったのだ。

医師の診察は簡単なものだった。
治っていることを確認するためだけの診察なので、お琴の足首に触れ、曲げてみたり伸ばしてみたり、つかんでみたりしたくらいだ。
佐賀屋ご用達の医師は決して藪ではない。
手近なところで修業できるなら、この医師でもいいくらいだったが、それは今許されることではなかった。
それゆえにわざわざ遠い師の下へ通っているのだから。
お琴の片足だけ足袋を脱いでさらしている足がやけに白くて、直樹は思わず目をそらした。
表面上は腕組をして母とともに医師から離れた場所で見守っているようにしか見えないだろう。
それでも、以前とは違う心持なのが直樹にはわかった。
ここにいるのは、医師になりたいからなのか、お琴を心配してなのか。
医師が動いた瞬間に薬の匂いが漂った。
不意にお香の匂いも思い出され、直樹は目を伏せた。
医師になりたいのだと、直樹は自分に言い聞かせたのだった。

(2014/02/01)


To be continued.