大江戸蝉時雨



10


お琴と沙穂はお茶を飲み、重箱の菜を食べ、思ったよりも和やかに、それでいて当たり障りのない話をした。
沙穂にもいろいろ思うことはあっただろうが、お琴は取り繕うにも取り繕い方もわからずにそのままの接待だった。
すっかり日が暮れてから、お琴ははたと気づいた。
「あまり遅くなっては、おうちの方が心配なさるのではありませんか」
「そうですね。これだけこちらにお邪魔しても何も起きないということは、やはり祖父の家のほうを狙っているのでしょう」
お琴はその言葉に驚いて言った。
「大店のお嬢さんにそこまでさせるなんて…」
「あら、それはお琴さんも同じ目に遭わせるかもしれないと言いましたよ」
「ええ。でも、これは元々佐賀屋が負った問題で…」
「決めたのは祖父です。もちろん父母は反対しておりましたけれど、祖父に逆らえませんし、何よりも私が申し出たことですので。程よい頃に家からの迎えが来るでしょう」
「そうなんですか」
「ええ、父母は心配性で過保護ですから」
そう言って沙穂は笑った。
お琴はご隠居宅に残った直樹は今頃どうしているだろうと思った。
「…あちらが、心配ですわね」
まるでお琴の心を読んだかのように沙穂がつぶやいた。

 * * *

船宿に傍若無人にどこかの侍が押し入ったとの話は、三人の耳にはまだ届いていなかった。
嫌われてはいるが、権力は持っている佐賀藩江戸家老竹内を捜しているだろうとは承知していた。
行灯に火が入れられ、既に暗かった船宿にはようやくほんのりと明かりが灯った。

「いったい誰が裏切っていると?」
竹内が問うと「さあ。いつもあんたにへばりついているくせに野心の強い誰かさんじゃないのか」と男が適当に答えた。

じりじりと時が過ぎていくばかりで、ここに捕らわれている意味を考えているときだった。
表でがたがたと音がした。
その瞬間、表戸が吹っ飛び、外から人影が二つ三つ飛び込んできた。
行灯の明かりに照らされた顔は若い侍だったが、よく見知った顔は一人しかいなかった。
助けがきたと思い「わしはここだ」と声を上げると、その見知った顔が刀を振り上げた。
竹内は慌てて刀を避けて飛び退いた。
がきっと鋭い音がして、あの男が抜いた刀が竹内を狙った刀を跳ね上げた。
「お智、ここは狭い。中で刀を振り上げるやつなんて二人がせいぜいだ。裏から出ろ」
その言葉にものも言わずに茶屋娘は裏へと駆け抜けた。
行灯の炎だけがゆらりゆらりと揺れる。
「思ったより多いな」
男がつぶやいた。
竹内は後ろへと這いずりながら、先ほどまで殺されると思った相手に守られている。
竹内を助けに来たはずの影は、今まさに竹内の命を奪わんとして襲い掛かってきた。
ちっと舌打ちをしながら、すかさず男が応戦している。
思ったよりも男の腕がよく、本来なら自分の主家の若侍たちの実力不足を嘆かなければならないところだが、今はありがたい。
この狭い船宿に影は続々と詰め寄る。
それぞれ刀をぎらつかせて、次々とぶつかる。
狭い中応戦している男は、竹内を守っているせいか、かろうじて跳ね返しているが、このままでは追い詰められるのも時間の問題だろう。
そう思っていた矢先に攻を焦ったのか、一人が行灯を蹴り飛ばして襲い掛かってきた。
行灯にかぶさっていた物は燃え始め、その少しだけ魚臭い油が竹内の衣にかかり、消えるはずだった火はその油を通して竹内の服を伝っていった。
「わぁっ」
竹内は手で炎を叩き落とそうとしたが、それくらいで火は消えることなく上等な衣を次々と燃やしていく。
それまで襲い掛かってきていた侍たちもその炎に驚いたのか、さすがに攻撃が止んで、男も「川に飛び込め」と怒鳴っていた。
竹内が焦りながら這うようにして奥へ奥へと進んで舟着場に向かうと、舟に乗った茶屋娘が驚いた顔で竹内を見るのがわかった。
舟の竿で竹内の身体を川へ突き落とした。
既に炎は竹内の身体の半分を覆っていたので、それ以外やりようがなかったのだろう。なんて乱暴なと思いながら、竹内は川へと落ちていった。

 * * *

沙穂の家からの迎えの駕籠を見送った後、お琴は表戸を閉めることを躊躇った。
しかし、直樹がいつ戻るのか知らされておらず、そういうときは固く表戸を固定するようにと口うるさく直樹に言われていることを思い出し、しっかりと閉めた。
外の暗闇は嫌いではないが、やはり蚊がまとわりつくのは好きではない。
蚊帳を吊るし、寝床を整えた。
雨戸も閉めてしまおうと思ったところで、遠くから半鐘の音が聞こえた。
火事…と気がついたところで外を眺める。
半鐘が遠いせいか、恐らく火事も遠く、煙も見えない。
そのうちこちらにも煙が漂ってきたのか、近くの半鐘が鳴り出した。
ゆっくりと間を空けたそれは、やはり火事が遠いことを示している。
それでも気が気ではなく、思わず庭から飛び出してお琴は表に向かった。
外には同じように飛び出してきた付近の町人たちが立っていた。

「火事はどこだ?」

口々にささやき合うが、煙の臭いもまだしない。
半鐘を叩いている当番の者は、南だと答えたが、お琴一人そこではっと青ざめた。

「先生…」

直樹のいるであろうご隠居宅は、今まさに半鐘が鳴り響く方面ではなかったか。
まだ夜半には間があるためか、行灯を消していない家もあっただろう。
一度そう思いだすと居ても立ってもいられず、お琴は走り出した。
付近の住民は驚いたように「お琴ちゃん、どうした」と声をかける。
「先生が…」
「直樹先生、往診にでも行ってるのか」
そう問われて、迷いながらうなずいた。
詳しい事情は話せなかったが、そちらのほうに行っていると言わないと町から出してもらえない。夜間は町ごとの木戸を閉めるところもあり、出入りには木戸番に声をかけないといけないのだ。
お琴は焦れる思いで開けてくれるのを待った。
木戸の脇をくぐると、また走り出した。
右に曲がれば佐賀屋へ続く道に差し掛かったところで、「お琴さん」と声がかかった。
早駕籠に乗ったおもとだった。

「おもとさん」

青ざめた顔でお琴がおもとを見た。
「今からお琴さんのところに行くところでした。
直樹先生のところへ行かれるんでしょう。
私は知り合いに舟を頼みますから、どうぞこれに乗っていってくださいな」
そう言って駕籠から降りてきた。
昼間に乗った駕籠とは比べようもない粗末な駕籠だが、速さは倍の早駕籠だ。
軽いお琴なら恐らくさほど時間をかけずに着くだろう。
お琴は迷わずうなずいて駕籠に乗った。
「ありがとう、おもとさん!」
「お礼なら旦那様に言ってください。本当は私ではなく旦那様ご自身が行きたいところをこのおもとを信用して寄越してくださったんです。途中できっとお琴さんのところに寄るだろうと見越してますよ」
「お義父さんが…」
「いいですか、火事場は戦場と一緒です。決して近付き過ぎないでください。
直樹先生ならきっと上手く逃げるでしょうから、かえってお琴さんが行方不明になって火事に巻き込まれたら青筋立てて怒鳴り散らしますよ」
お琴は少しだけ笑って言った。
「わかったわ。気をつけるから」
「それじゃ、おもとも後で行きますから、気をつけて」
お琴がしっかりうなずいたのを確認して、おもとは「では、くれぐれもお願いします。危ないと思ったらこの方の言い分に構わず引き返してくださいね。大事な佐賀屋のお嫁さんなんですから」と早駕籠の担ぎ手に言い添えた。

お琴が駕籠の中に垂れ下がった紐にしっかりつかまるとすぐに駕籠は走り出した。
火事場へ向かう者もいたが、逆に荷物を背負って走ってくる者もいた。
お琴の早駕籠よりも早く、火消しの半纏を着た者たちが付近の路地から飛び出してきて走っていく。
舌を噛まないように歯を食いしばりながら、ちらりと啓太を思い出した。
もしかしたら啓太も今頃火事場に向かって走っているかもしれないと。
一番に駆けつけるのはその町の火消し組だが、あとから応援に駆けつけた組の者も喧々囂々としながら延焼を防ぐために奔走する。
あの見事な屋敷が燃やされたり、壊されたりするのは残念だと思いながら、お琴は暗い夜道を揺られていた。
もちろんまだ実際にご隠居宅の周辺が火事だという確証もなかったが。
半刻(一時間)もしないうちに火事の詳細について瓦版が舞うだろうとわかっていたが、お琴はそれを待つつもりはなかった。
早駕籠は既におもとから行き場所を聞いていたのか、お琴には何も言わずにご隠居宅へと向かっていた。
昼間とは違って景色もわからない中を揺られるに連れ、人通りが多くなってきた。
明らかに火事から逃げようとする者が増えてきたのだ。
半鐘が激しく鳴っているのが聞こえる。
煙の臭いも漂ってきた。
大通りに差し掛かるところで早駕籠が止まった。

「これ以上は駕籠で進めませんや」
「いいわ、歩いていくから」
「しかし、この先は恐らく火事場ですよ」
「だって、この先に先生がいるんだもの」
「あ、お嬢さん!」

止めるよりも早く駕籠屋を振り切り、お琴が走り出した。
既にお嬢さんと呼ばれる歳でもなかったが、それ以外に呼びようがなかったのだろう。
その呼び声を背にお琴は逆流するように人の合間を縫って駆け出したのだった。

(2012/10/07)