大江戸蝉時雨



11


佐賀藩江戸家老竹内が川に飛び込んだらしい水音が聞こえた。
西垣は目の前にいた侍の刀が振り上げられたのを見たが、暗闇の中で闘いきれるものではなかったらしく、西垣がいるほうを睨んだだけで振り下ろしては来なかった。
本音としてはここで西垣諸共殺しておきたいところだっただろう。
西垣はそのままじりじりと船着場まで下がり、月明かりにお智が舟を動かそうとしているのを見て、すかさず川に飛び込んだ。
鈍い音を残して西垣が川に消えると、複数いた様子の侍たちはそれぞれ川面をのぞいた後、立ち去っていった。
西垣はゆっくりと川面に浮かび上がり、舟に寄った。
「あのおっさんは?」
「…浮かんでこないわ」
「流されたか」
よっと声を上げて舟につかまると、水を吸って重い着物をものともせずに舟に上がった。
舟はゆっくりと辺りを漂う。
「どうする」
「どちらにしてもあの様子だと有無を言わさず成敗って感じね」
「まあ、どうせこれも想定内だったろうけども、あれだけの人数が竹内一人に来るとは」
「さすがにそればかりは直樹先生の予想を超えていたかもしれませんわね」
お智はくすくすと笑った。
「笑い事じゃないだろ。おっさんはどっかに行っちまうし」
「明日には大川に浮いてるかもしれませんわね」
「…あのな…。…まあ、いいか」
西垣は着物をしぼって水気を払うと、頭をかいた。
「それよりも、先ほどから何か…」
お智が竿を西垣に渡してお智が言った。
耳を澄ますと、遠くから半鐘の音が聞こえた。
「…火事か」
これは計画のうちなのか、何か尋常ならざることが起こったのか、ただの偶然か。
夏とは言え、全身ずぶぬれの西垣は、ゆっくりと流れる舟の上で身震いした。

 * * *

ご隠居宅からお琴と沙穂、渡辺が帰ってしまうと、再び静かなときが流れた。
元より直樹が何か積極的に話すでもなく、ご隠居は話好きであるものの、久々に大勢の客を迎えて少し疲れたようだった。
お栗は少しだけ気難しく感じる直樹が相手ではなかなか話すきっかけもないようだった。
ゆっくりとした時を過ごしながら、最後の打ち合わせをしていた。
闇に乗じて小舟で沖に止まっている千石船に乗り込む。ご隠居宅には裏口に堀が流れていて、小船が使えるのだ。
船の出発は夜が明ける前だが、それまでに何事もなければよいが、との話だった。
佐賀藩邸の中で起こっている内紛は、いずれ大きな騒動になるだろうが、それをあからさまに幕府に知られるわけにはいかない。
今回の江戸家老竹内のことも一つのきっかけに過ぎない。
その裏では幾つもの謀計が蠢いているものなのだ。
しかし、それは佐賀藩が片付ければいい話で、直樹たちには関係のないことだ。
いくらお上の仕事を手伝おうとも、武家に関してはよほどのことがない限り口を出すものではないとわきまえている。
そこを履き違えると命を落としかねないからだ。
もちろんいつ命を落としてもおかしくはない、と身に沁みてわかってはいるのだが。
仕事を請けるたびにお琴のことが気にかかる。
今回のことにしても自分から首を突っ込むのは本意ではないが、実家の佐賀屋とお琴に関係するとなれば、やはり見て見ぬ振りはできなかった。
直樹は新月に近い夜空を見ながら、今頃お琴はどうしているだろうとふと思った。
沙穂を家に迎えて、さぞかし戸惑ったことだろうと。
そのあたふたとした様子を想像すると、直樹は自然と口がほころんだ。

「…めずらしいですね、なにをおもってましたか」

お栗が目ざとく見つけて直樹に言った。
「おことのことですか」
直樹はお栗を見た。
「あたりですね」
お栗は楽しそうに言う。
「おこと、いい人です。ときどきごはんしっぱいするし、おちゃわんわるけど、さみしくないようにしんぱいしてくれる」
直樹は思わず苦笑した。
ほんの短い間にもかかわらず、お栗はお琴の行状を的確に伝える。
そばで聞いていたご隠居もいつの間にか笑い顔だ。
そんなときだった。

「先生、大変!」

庭から飛び出すようにして現れたのは、髪結いのお真里だった。
「あいつら裏の家に火を放ったわ」
「なんじゃと」
直樹が返事するより早く、ご隠居が立ち上がって答えた。
「皆で水をかけてるけど、燃え広がるのは止められないわ」
「俺たちを追い出すためか」
直樹が険しい顔で考え込む。
「そうよ。きっと待ち受けてる」
「それだけのために火事を起こすとは…なんと卑怯な」
ご隠居は襖を開けると女中に言いつけるべく出て行った。
「裏の家に潜んでるだけだと思ってたのに」
お真里は悔しそうにしながらも、お栗にかもじ(かつら)を手早くかぶせ、身の回りを整え始めた。
「こうしていても焼け死ぬ羽目になります。外に知り合いの者を見張らせておりますし、どうにかして出るしかありません」
ご隠居が部屋を出て行ってから屋敷の中が騒がしくなった。
どうやら裏の家から煙臭さも漂ってきて、燃え広がる前に大事な荷物を移動させているようだ。
「直樹殿、これを」
ご隠居が再び部屋に現れたかと思うと、直樹に刀を手渡した。
「これは」
「万が一の場合に備え、これを使ってくだされ。
わしのような者には無用の物だが、道場に通っていた直樹殿なら扱えるだろうて」
どう見てもそこらにある品とも思えなかったが、外に手だれのものがいるかもしれないとなれば、何もないよりはましだろうと思われた。
実際侍の子どもたちが大勢通う中で、商人の嫡男としては異例の道場通いだったが、そこで所作を覚えるだけのつもりだった。
ところが思ったよりも剣の才能があったと見え、道場主もその身分を惜しく思いながらの稽古だった。
少し抜いてみれば、素晴らしい輝きを放つ刀だった。
「これはさる大名の方より頂戴した物。さあ、こちらに火が移るのもじきだろうから、船を出す手配をいたしましょう。
せっかくこちらを頼りにして来たというのに、せめて無事に船に乗せなければ面目ない」
「ご隠居様、船の用意ができました。お早く…」
庭から下男が声をかける。
煙が漂ってきたのを直樹も感じた。
お真里にも促され、お栗は急いで庭に下りる。
舟に乗ってご隠居宅から出た途端に何かあっては困るので、直樹も一緒に乗り込む。
「ご隠居は…?」
直樹の問いに下男が竿を操りながら答えた。
「もちろん無事にお逃げいただけるよう手配してございます。こちらのことはご心配なさらずに」
予定より随分と早い時刻だが、こうなっては一気に沖に出るしかなかった。
下男が操る小船が潜り戸を抜けて堀に出ると、暗い中で立っている男が居た。
「船津様です」
お真里が小声で言った。
「…船津家の…嫡男?」
「ええ。どうしてもあたしの役に立ちたいと言うものだから、この際協力してもらおうと思って。あまり腕は立ちませんけども、見張りくらいにはなるかもと」
しれっとお真里は悪びれずに言った。
仮にも藩の要職についていると思われる者の嫡男を小者扱いとは、と直樹は内心同情しつつもそれに甘んじている船津に呆れてもいた。
しかし、その船津は本当に役に立たなかった。
わずかな明かりで見えたこちらに大きく手を振っている間に、どこからか現れた者に背後から昏倒させられていた。
思わずお真里の口から「あ…」と声が出た。
命までとられなかっただけましだが、「…相変わらず役立たず。頭はそこそこいいのに」とつぶやいた。
船津を襲った者は、どこかに合図をすると、堀端を走って追いかけてきた。
どこからか舟に乗るつもりだろう。
「あともう少しで海に繋がる川に出られます。今少しご辛抱ください」
下男はそう言って竿を忙しそうに操る。
月のない晩である。明かりは全くないはずだが、背後が明るかった。
火が徐々に燃え広がっているのだとわかった。
既にこの様子ではご隠居宅のほうにも燃え移っていようと察せられた。
直樹は刀の柄に手をかけて用心していた。
何かが堀端から飛んできた。
それをすかさず刀で叩き落す。
ぼちゃっと音を立ててそれは堀に落ちていった。
「弓か」
直樹は自分が叩き落した物を目で追う。
しかし、よく見れば堀端にあったと思われる竹竿だった。
さすがに弓は用意していなさそうなことに直樹はほっとした。この距離で狙われたら避けようがないからだ。
「川に入ります。これで少し速度も上げられますし、川幅も広くなって乗り移られることはないでしょう」
既に半鐘は鳴り出して、人々の動きが慌しくなっているのが見える。
そう思っているうちに船の数が増えてきた。
「あのおとはなんですか」
お栗は耳を澄ませている。
「火事を知らせる半鐘だ。鐘の音だ」
「かねのおと…。えげれすにあるのとちがいます」
甲高く、絶え間なく半鐘は鳴り響く。それは火事場が近いことを告げる。
ぽちゃりと音がした。
「先生、後ろ!」
後ろから先ほどの侍たちが追いかけてきたようだ。それぞれ顔に頭巾で覆面をしている。
「今更顔を覆ったってどこの家臣かなんてわかりきってるのに」
忌々しげにお真里が言った。
「お栗を前へ」
直樹は船に立ち、後ろを睨んで立ちはだかる。
お真里は懐から出した小刀を手に同じく防戦の態勢だ。
竿を操る下男は、他の舟にぶつからないように必死だが、舟の数が多くなったせいで思ったより速度を上げることができない。
「追いつかれる…」
相手の舟は既に間近まで迫っていた。
お真里は直樹にうなずくと、すれ違った別の舟に飛び移った。
飛び移られた舟のほうは大いに驚いたが、お真里が下りた分直樹たちの舟足は早くなるだろう。
お真里は驚いて口を開けているどこかのご隠居然とした男に言った。
「はしたなくてごめんなさいね。ちょっとそこまで、乗せていただいてもいいかしら」
お真里の言葉にご隠居は驚いたままうなずいた。
お真里は小刀を手にしているのを思い出して、「あら、ごめんなさい、護身用ですの」とすかさず懐にしまって、男に向かってにっこりと笑って見せた。
火事はどんどん燃え広がり、対岸に炎がちらつくのが見えた。
岸にもおいそれと近づくことはできない。
できればこのまま沖まで出てしまいたかったが、そうはいかないようだった。

 * * *

先生…!

お琴は人の間をすり抜けて走った。
逆方向に向かうお琴を止める者もいた。

「娘さん、そっちは火事場だ、もう近づけないよ!」

火の粉が舞うのが見える。
炎の熱さが少しずつ近づくようだった。
風が通り抜け、煙が立ち上る。

「先生…、どこ…」

荷物を背負った人々が顔を黒くしながら逃げてくる。
既に火事は一町に広がっているようだ。
お琴は先生は大丈夫だと思いながらも不安感は消えなかった。
何か、大変な目に遭っているのじゃないかという思いが火事の炎のように渦巻いていた。

「危ないぞ、ぼうっと立ってんじゃねぇ!」

そう言いながら通り過ぎていく者の荷物がお琴に当たり、お琴がよろけた。
「あっ」
お琴は人の群れに押されてそのまま長屋の間に入り込んでしまった。
「こんなところで、立ち止まってるわけにはいかないわ」
お琴はうなずいて再び通りに戻っていった。
逃げる人々の群れは、既に通りを埋め尽くしていた。

(2012/10/13)