大江戸蝉時雨




そろそろしびれ薬が消えかかる頃だった。
既に酒も入って赤い顔をした佐賀藩江戸家老竹内の身体も自由になる頃合だった。
しかし、先ほど飲まされた酒が程よく身体に回り、ほろ酔いと言ってもいいくらいになっていた。
ただの茶屋娘ではないとすれば、いったい何者なのか。
浪人だと思った男は、思ったよりも上質の着物を着ていた。
持っている刀も恐らくそれなりの物だと思われた。
その身のこなしが、ただの優男ではなかった。
さほど遠くはない場所、江戸のどこかに連れてこられたようだったが、いったいこれからどうなるのか皆目見当がつかなかった。
「きっと今頃必死であなたの行方を探していらっしゃるのでしょうね」
茶屋娘が言った。
「どうせしけこむなんてこといつものことだろ。呆れて屋敷に報告してるんじゃないか」
「まあ、本当に性質の悪い御方ですのね」
茶屋娘と男の言葉をじっと聞いていると、どちらも江戸の育ちであることがわかるが、それが何だというのだと竹内はため息をついた。
「あいつはああ言ったけどね、やっぱりばっさりといっちゃおうか」
刀の柄を握って言うのに一瞬竹内は怯えた。
「約束を違えると、怖いですわよ」
やんわりと茶屋娘がたしなめた。
誰かがここを見つけ出してくれない限り、竹内の身は確実に危うい立場だった。
そろそろ日が暮れてきたのか、薄暗かった家の中は本当に明かりがなく、そして静かだった。
「…どうするつもりだ」
思わずそう聞いた。
「屋敷に帰るつもりだろうけど、ほら、あんたのところの殿様さ、そろそろ江戸に来る頃じゃないの」
参勤交代で江戸へ来る日が迫っていた。
だからこその千石船であり、資金調達には気を配っていたのだ。
「かなり浪費しちゃってるけど、江戸屋敷の御方は本国の苦労も知らずに呑気だよね。
おまけに異国の娘を自分が試した後に売っ払おうなんて考え起こさなきゃ、こんなところに捕らわれることもなかったろうに」
「だから、そんなことは知らん、と何度も言っておろう」
「…その調べは、とっくについてんだよ」
「いつまでも、見苦しいですわよ」
ふうと息を吐いて、男は言った。
「あんた、下の者に嫌われてないか」
「…嫌う者とていよう」
「そのうち、誰かが裏切ったりとか考えないわけ?」
「いると言うのか、裏切り者が」
「調べが確かなら」

流れる冷や汗に着物が張り付き、非常に居心地も悪かった。
既に動けるはずの身体だったが、たった二人、それもただの茶屋娘と侍一人を前にして、逃げ出すための力が出なかった。
改めて思った。
いったいこの二人は何者なのか、と。

 * * *

夕陽が完全に落ちる頃には、直樹とお琴の家に駕籠が着いた。
二つのうち、一方は庭へ入っていき、もう一方は家の前に下ろされた。
家の前に下ろされた駕籠からお琴が飛び降りるようにして出ると、駕籠と一緒に歩いてきた渡辺に走り寄った。
渡辺は懐からご隠居宅で渡された提灯を取り出していた。

「渡辺様」

渡辺は走り寄ってきたお琴に微笑んだ。
「無事に着いて良かった。あちらもいらっしゃるし、緊張したよ」
「ありがとうございました。渡辺様はもうお帰りに?」
「あいつが留守の家に上がるだなんて恐ろしいこと。遠慮しておくよ」
「先生はそんなことで怒りませんよ」
「…そりゃあ、表面上はね…」
ごにょごにょとつぶやいた渡辺の言葉はお琴に伝わらず、そのまま提灯に火をつけて帰っていった。
「またお寄りくださいね〜」
お琴の声が響く中、渡辺は手を振り、駕籠屋も頭を下げて帰っていった。
それらを見送った後、お琴ははたと気がついた。
「あ、一人お待たせしてしまったわ」
慌てて家へと戻ると、縁側にのんびりと沙穂が座って待っていた。
「も、申し訳ございません。あの、汚いところですが、ど、どうぞ…あ、いたっ」
そう言って家の中に上がろうとして、縁側でつまずいた。
「え、ええっと、い、いつもはこんなんじゃないんですよ」
足を擦りながら障子戸を開け、部屋の行灯に明かりを入れようとした。
それも緊張したのかなかなか火がつかず、見かねて沙穂が火を入れた。
部屋の中に明かりが灯り、ようやくお琴はほっとした。
「お茶でも…」
そう言ってお琴が立ち上がると、沙穂は「私もお手伝いいたします」と立ち上がった。
「いえ、そんなお手伝いだなんて」
お琴は手を振って急いで台所に向かった。
かまどに火を入れたお琴が戻ってくると、沙穂はしみじみと言った。
「ここで直樹さんは診療をしていらっしゃるんですね」
「ええ」
「お聞き及びかと存じますが、私は確かに直樹さんとお見合いもいたしましたが、やはり添い遂げるには難しかったのですね」
お琴は自分からその話題を出した沙穂に驚いた。
「あの、でも、沙穂さんは…」
「こんなふうに家の中まで入り込んで、嫌な女だとお思いでしょうが」
お琴はぶんぶんと首を横に振った。
「お琴さんがそういう気性でいらっしゃるから、私は諦めがついたのです」
「そんな」
「いえ、本当です。
私は大泉屋の娘として何不自由なく育てられました。
先代から付き合いのあった小間物問屋の佐賀屋の方との縁談は、直樹さんの評判を聞いて祖父が決めたのです。
商いも確かですし、佐賀屋のご主人の人と為りも、嫁ぐにはとても都合がよろしかったのです」
お琴は沙穂の話にただうなずいた。
「あのまま、直樹さんが佐賀屋を継ぐものと思っておりましたが…」
お琴は直樹と長崎から帰ってきた日のことを思い出していた。
「父は、医者には娘はやれないと言いましたが、祖父は直樹さんに肩入れしておりましたから、まだ縁談そのものを諦めていたわけではありませんでした。
でも、直樹さんにお会いして、やはり私では無理なのだと…痛いほどわかってしまったのです」
お湯が沸いたのか、湯気が吹き上げる音が響いた。
「あ、いけない」
お琴は話の途中ではあったが、少しだけその場を離れられることにほっとしていた。
直樹の妻として聞いてはいけないような、普通の女として、そして同じく直樹を好いた者として聞いておきたいような、複雑な心境だった。
ついでにご隠居からいただいた菜の物を用意し、土瓶とともに部屋へ戻った。
恐らく大泉屋が灯りに使っているいい油と比べると、安い油の行灯の灯りは薄暗く感じるだろうが、今の直樹とお琴の生活ではこれが精一杯だった。
ただこの家だけは、診療所として使っている分、診療部屋と寝起きしている部屋、小さな物置部屋兼直樹の私室として使っている小さな部屋と庭もあり、直樹の父母がこれくらいはさせてくれと懇願されて与えられたのだった。
もちろん実家に頼ればそれなりの生活はできるだろうが、直樹自身が跡取りを断った以上援助を受けることはできないと、慎ましやかな生活をしていた。
お琴はその生活に何の不満もなかったが、沙穂ならどうだっただろうと少しだけ考えた。
「いただいた物で申し訳ありませんが、少しだけお腹に入れるのも悪くはないと思ったので…」
そう言いながらお菜を置き、土瓶のお茶を振舞った。
お客に出すなら、向こうで入れて持ってくるのが筋だろうが、いつも土瓶ごと持ってきて、たっぷりと飲むのが好きだった。その癖でたっぷりといつものように持ってきてしまった。
「あの、無作法で申し訳ありません。その、先生もたっぷり飲むのがお好きで。
いつも叱られてばかりですけど、これだけは唯一褒めていただけるので」
そう言い訳しながら沙穂にお茶を出した。
「とても、おいしいです」
暑さが和らいだとはいえ、熱いお茶を汗をかいた様子もなくいただく沙穂を見て、お琴は急に自分の身なりを憂いだ。
どんなに直樹がお琴を好いていようとも、きれいな人、ましてやかつてはこのきれいな人が見合い相手であったことを考えると、言いようのない不安と焦りを感じてしまうのだった。
少しだけ躊躇した後、お琴は言った。
「あたしはずっと、沙穂さんから先生を奪ったのだと思ってました」
沙穂はゆっくりと湯のみ茶碗を置くと「もう一杯いただけますか」と言った。
お琴は息を吐き、「はい、喜んで」と土瓶を手にした。

 * * *

渡辺は、直樹とお琴の家から真っ直ぐに自身番へ向かった。
直樹が遅れて着いたことに不安を抱いたわけではないが、何か変わったことがなければと思ったのだ。
その途中だった。
後ろから息を乱して走って追い抜いていく者がいた。

「どうした」

思わずそう声をかけると、恐らく自身番に向かうつもりであったその者は、渡辺を振り返って言った。

「乱闘だ」
「乱闘?」

そのまま自身番に走っていくので、渡辺も後を追いかけることにした。
幸い自身番まで近かったため、あまり走りが得意ではない渡辺も軽く息を弾ませるだけで済んだ。

「船宿で刀を持った奴らが暴れて、けが人が出てる」

自身番でそう言った者は、船宿の近くに住む者だったが、仕事からの帰り道でその乱闘騒ぎを見たという。
初めはただの喧嘩だと思ったようだが、一方は刀を持っていたため、侍同士ならいざ知らず、町人に向けてはいくらなんでもけが人が出るというので、自身番に届けたようだ。
そのまま再びその問題の船宿まで走ることになった。
もちろん渡辺も成り行きで一緒に向かうことになった。

「乱闘はどこだ」

既に駆けつけていた岡っ引きや他の同心に混じって、渡辺はその船宿に入っていった。
船宿の中はぐちゃぐちゃだったが、幸い刀で斬り付けられた者はいなかった。
最近の船宿は、舟を待つばかりではなく、お座敷もあったり、場合によっては客を泊める事もできる。
その座敷に侍数人が乗り込んで、人改めをしていったのが原因だと言う。
当然座敷で飲み食いしていた者たちは、突然の乱入者に驚いて抗議したという。
中には同じように刀を持っている者もいて、騒然とした状況になったようだ。
それでも、当の騒がせた侍たちがいないので、その場は岡っ引きや当番の同心たちが話を聞いて事を納めることになった。

「渡辺さん、ここだけの話ですがね」

そう言って渡辺に話しかけてきたのは、奉行所でも懇意にしている他の同心だったが、その同心の話では、どうやらここと同じ騒ぎが既に二つも起きているようだと。
暮れてきたこの時刻では、侍たちの焦りもわからないでもない。
いったい誰を捜しているのか、まだ見当はつかなかったが、もしかしたら同じ騒ぎがまた起きるかもしれないとその同心は言っていた。
もちろんこう次々と騒ぎを起こしたのでは、何かしらお咎めもありうるので、もう少し今後はおとなしくなるかもしれないが、との事だった。
渡辺は、この騒ぎが何か関係するのかと考えてみたが、さすがにそこまではわからなかった。
あまりに続けて走ったので、もう一度自身番に向かう気も失せ、今日のところは帰ることにした。
さすがに夕暮れとは言え、まだ暑さが残っていたので、汗はびっしょりだった。
そう言えば、と渡辺は歩きながら見渡した。
この辺りでは大きな木が少ないせいか、既に蝉の鳴き声は聞こえなかった。
異人であるお栗とともに庭の蝉を飽きるほど観察したのは、子どもの頃以来だったと渡辺は思い返していた。
まさか自分が黄金色の髪の異人と会うことになろうとは思わなかった、と渡辺は既に落ちかけた日に照り返された自分の刀の鍔(つば)を見た。
いや、あれはもっと黄金色だったと思い直す。
ご隠居宅で会った沙穂といい、今日の渡辺は非番とは言え久々に良い気分転換になったようだった。
逆に夫のかつての見合い相手を家に招く羽目になったお琴をちらりと案じたが、直樹が何も考えずに許可を出したわけではないだろうと、渡辺は案じるだけにしておいた。
何せ直樹は、手習いで机を並べた仲でもあり、今は侍と町人であるとは言え、お琴に優しい言葉をかけただけで目つきが鋭くなるような嫉妬深さだ。
案じたあまり家に上がりこむようなことをやってのければ、後々何を言われるかわかったものではない。
それをまた、妻のお琴は全くわかっていない。
それはそれでなかなか似合いの夫婦だと渡辺は思うのだった。

(2012/10/02)