大江戸蝉時雨



12


おもとは少々不安に思いながらもお琴を早駕籠に乗せて送り出した。
本当なら走ってついていきたいところだが、さすがにそれはできなかったので、早々に川沿いを走り、目当ての船宿を探した。
ただの勘でしかなかったが、お琴が何かを感じたようにあの火事は直樹たちがいるあのご隠居宅に火を放たれたとおもとは思っている。
もちろん何も知らないお琴はそこまで考えていないだろうが、少なくとも直樹のいる方面での火事だと思っている。
月のない夜で、目当ての船宿はなかなか見つからない。
大半の者は火事の半鐘の音で家の前に出てきているから、誰もいないところを見ていけば早いかもしれない。
おもとは一軒ずつ通り過ぎて、ようやく目当ての船宿を見つけた。
しかし、戸は開け放たれ、中はひどく荒らされていた。
火事場泥棒でもあるまいしと、中を覗き込んで悟った。
既にここには藩邸の手の者がやってきて、中にいた者たちを襲ったのだと。
奥へと入っていき、川に出る船着場を見たが、やはりそこには舟もなかった。
おもとはため息をついてどうしようかと思案した。
まさかあの二人がやられるとは思っていないが、少なくともここから逃げ出したのは間違いない。
再び川沿いを歩こうかと船宿の中に戻りかけたときだった。

「お〜い、おもと〜」

おもとを呼ぶ声がした。
振り向けば、舟がゆっくりとこちらに向かっていた。
暗くて誰が乗っているのか定かではなかったが、声からすると西垣だろうと思われた。
こちらの様子が何故わかるのかと思えば、手に持っていた提灯だった。
提灯には佐賀屋の銘が入っている。
うっかりしていたと、おもとは提灯を消そうかと考えたが、この先舟に乗って火事場へ行くなら、この佐賀屋の銘も何かの役に立つかもしれないとそのままにすることにした。
おもとの元にゆっくりと舟が近づいた。
「どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないでしょうよ。火事よ、火事」
「ええ、先ほどから半鐘が…」
「それよ、それ。直樹先生が…」
船宿の船着場からおもとが舟に乗り込んだ。
「あら、舟から落ちたの?西垣様ったらずぶぬれじゃなくて」
思わず西垣を見ておもとが言ったが、西垣はそれには答えずに、代わりにお智が少しずれて舟の場を譲った。おもとがそこに座る。
「どういうこと?」
「ご隠居の家が火事だと?」
舟に落ち着いたおもとにお智と西垣が次々と尋ねた。
「そうよ、きっとそうに違いないわよ」
おもとは力強くそう答えた。
「まあ、待て。本当にそうかどうかわからないんだろう」
「いいえ、絶対そう」
「何でそんなに自信満々なんだ」
「それは、お琴さんが心配して走っていったからよ」
西垣はその瞬間に思わずぽかんと口を開けた。
「あのな、それのどこが根拠があると言うんだ」
「あら、女の勘は捨てた物じゃないわよ」
「…女の勘、ねぇ」
呆れたように西垣がつぶやく。
「でもお琴さんて、確かかなりの早とちりでおっちょこちょいだとか」
「そうよ。でもね、半鐘は間違いなくご隠居の家のほうからよね。
あんな静かな通りで、それこそ放火でもなければよほどのことがない限り燃え広がるなんておかしいのよ」
「そうかもしれないが」
西垣は舟の速度を速めた。
「直樹先生なら、上手く逃げ出せるんじゃなくて?」
お智の言葉に西垣はうなずく。
「それでも、あそこには客人もいるし、この様子だと火事を装って先生たちを襲うくらいのことはすると思うわ」
おもとの言葉に西垣はため息をついた。
「…あら、そう言えばあの助平じじいはどうしたの」
おもとは今気がついたというように言った。
「逃げられた」
「はぁ?」
西垣の言葉に大げさにおもとが驚いた。
「正確には、火が燃え移って川に落ちてそれっきり」
お智の言葉に西垣はそれも正確じゃないしと小声で突っ込む。
「やだあ、明日になったら溺死体じゃなくて?」
「そうかもね」
お智はあっさり言った。
「それよりも、もっと急いでちょうだい、西垣様」
おもとは気持ちが焦るのか、身体だけは前のめりになりながら前方を見据えている。
「…はいはい…」
諦めたように西垣が竿を操る。

 * * *

お琴はすれ違う人々に押されて、行きつ戻りつしながら火事場に向かって進んでいた。
火の熱さも火の粉もまだ遠い気がするのに、煙だけは容赦なくやってくる。
建物はかろうじてわかるが、足元に落ちている物は良く見えない。
それを避けたり、思わず踏んづけたりしながら歩き続けていた。
そもそも方向音痴で鳥目のお琴は、ただでさえ暗い夜は苦手だったし、来たことのない場所は勝手がわからずうろうろと歩いては道を誤ることすら日常茶飯事なのだ。
早駕籠から飛び降りて歩き出してから、本当にこの方角で合っているのかすらよくわからなくなっていた。
何度目かの角を曲がったとき、ばきばきっと建物が壊される音がした。

「危ない!」

お琴が驚いて立ちすくむと、横から手が出てきて引きずられるようにして通りの端へ連れて行かれた。

「何やってんだ、お琴さん!」

よく見れば、半纏を着た啓太だった。

「一体何故こんな所に」

半分怒って半分呆れた様子の啓太のめ組の半纏をぼんやりと見ながら、そう言えばめ組の人だったとお琴は思った。

「聞いてるのか?」

はっとしてお琴は啓太を見た。
「き、聞いてます」
「危なっかしいな。こんな所に来ても火に巻き込まれるだけだ。さっさと移動したほうがいい」
「でも、先生が」
「こんなところにいつまでもあの先生がいるわけない。とっくに逃げ出して、今頃はもしかしたら臨時の救護所で怪我の治療でもしてるかもしれないぞ」
「…あ、そうよね。うん、そうかもしれないわ」
口ではそう言いながらも、本当にそうは思っていない。
何か得体の知れない不安がお琴を襲っているのだ。
「本当に大丈夫か?」
お琴は啓太の問いに口ごもりながらうなずいた。
異国の客人のことは啓太は知らないとお琴は思っているので、まさかその客人もちゃんと逃げたのかどうか心配なのだと口には出せなかった。
「あのね、この火事、どこからの火事なの?」
「ここまで燃え広がっちまったらよくわからないな。
そのうちお調べもあるだろうが、まさか先生が火を出したわけじゃあるまい」
「そりゃそうよ」
「それなら、もっとどーんと構えて待ってみたらどうだい」
「そうしたいけど…」
「とにかく、ここは危険だ。あっちの川沿いに避難するほうがいいな」
「…わかったわ。もしも先生に会ったらお願いね」
「わかったよ。ほら、どいてな。そっちの建物も壊さなきゃなんないから」
啓太に追い立てられるようにしてお琴はその場を離れた。
少しだけ気になって振り返ると、延焼を防ぐために次々と周辺の建物が壊されていく。
この分では本当に自分も巻き込まれてしまいそうだと、お琴はよろけながらも川沿いへと走っていった。
同じように川沿いで一息つく者もあるが、一休みするとまた火事に巻き込まれないようにと違う方向へ去っていく。
お琴はどこへどう向かったらいいのかわからないまま、川沿いをぼんやりと眺めていた。
少なくとも今いる場所はすぐに火事に巻き込まれることはなさそうだが、このまま火事が収まらなければその限りではない。
辺りは暗いのに、煙だけははっきりとわかる。物の焼ける臭いも。
ご隠居以外の知り合いはこの辺りにはなかったが、焼け出された人々を思うととにかく身体だけは無事にと思わないではいられない。
川の向こうからなら大丈夫だろうかとお琴は橋を渡った。
夜になれば舟の数は減るのだが、この火事で船を使って逃げる者もいるためか、いくつかの舟が行き交っている。
そのうちの一つに提灯が揺れているのが見えた。しかも佐賀屋の銘まで入っている。
別れ際におもとが知り合いの舟に乗ると言っていたことを思い出したお琴は、橋の上に戻って「おもとさーん」と声を張り上げた。
ちらちらと提灯が揺れ、合図を送っているかのようだ。
お琴は舟が近場の船着場に寄るのを見届けてからそこへ走った。
「お琴さん、こんな所にいたんですか」
船から急ぎ降りてお琴の元に駆けたおもとが怒ったように言った。
「え、ええ」
おもとを乗せていた船はそのまままた行ってしまった。
お琴はちらりと誰が乗っていたのかと思ったが、暗くてよく見えなかった上におもとが凄い勢いで小言を言い出したので、首をすくめて神妙に聞くことにした。
「いいですか、駕籠に乗る前に言いましたように、火事場はそりゃ人が逃げていくことに必死です。下手に近寄るといつの間にか自分の思う方向とは違うところに流されて、迷子にもなりかねませんよ」
「…あの、でも、子どもじゃないですし」
「いいえ、それだけじゃありません」
まるで保護者のように諭すおもとを見ながら、お琴はついまだあるのかと思ってしまった。
「建物はどんどん壊されていくので、来た時とは景色が違って見えます。
普段からその辺りに住んでいる者ならともかく、お琴さんのように普段でも迷子になりやすいお方が一、二度行っただけの土地をうろうろするのはよくありません」
「…そ、そうね」
「おまけに今はこんな夜更けです。月もほとんどない晩に鳥目のお琴さんがこの先どうやってお帰りになるつもりだったんです?」
「全く見えないってわけじゃ…」
「見えたのは、提灯の明かりと火事場の炎のせいでしょうよ」
「う…」
お琴は確かに闇雲に歩いていた気がする。
見えなくともすれ違う人々が忙しげに逆方向に歩いていくのはわかったが、確かに何度も転びそうになった。一度は壁に向かってまともにぶつかるところだった。
「さ、こんなところでぐずぐずしている暇はありませんよ」
「どこへ」
「何言ってるんです。先生のところへいらっしゃるんでしょう」
「え…」
「きっとこの火事で出発を早めたはずです。
どうせ帰ったって、心配でまた飛び出してくるに違いありませんもの。それにここまで来て帰るのは、お琴さんらしくありませんものね。
ええ、ええ、佐賀屋の旦那様にしかと頼まれたおもとが責任を持って先生のところへお連れいたしますよ」
おもとの顔は見えなかったが、お琴はおもとに精一杯の笑顔を見せて言った。
「ありがとう、おもとさん」
そう言うと、おもとは手ぬぐいを取り出し、「さ、これにつかまってください。手綱の代わりです。お琴さんの手ぬぐいは口元に当てて。そうですよ、煙を吸い込まないように。しっかり後を付いてきてくださいましよ」と足早に歩き出した。
手ぬぐいをつかんだまま、お琴はつられるようにしておもとと共に歩き出したのだった。

(2012/10/18)