大江戸蝉時雨



13


がきっと舟に衝撃があった。
後を追いかけてきた舟が数人を乗せて直樹たちの乗っている舟に体当たりしてきた。
衝撃に対してすかさず体勢を立て直すと、今度は刀が振り下ろされた。
これも跳ね返し、舟に乗り移られないように攻防する。
舟はぐらぐらと揺れ、船頭である下男が小声でどこか岸に着けますかとささやく。
それに答えずに思案していると、お栗を狙って横から手が出てきた。
ごんと音がして見ると、一人の追っ手が舟から落ちていった。
ぼちゃんと音がして舟から落ちた者は、舟に置いていかれ、なかなか岸に這い上がれずに苦労している。
「わたし、てにすとくいでしょー」
そう言って手に持った板きれを持ってお栗が得意気に笑った。どうやら舟を岸に渡すための板のようだったが、それを両手で持っている。
直樹にはよくわからなかったが、てにすとはえげれすの剣技みたいなものなのか。ただ、それを問い返す時間は直樹にはなかった。
「…無茶しないでくれ」
かろうじて直樹はそう言った。
次々と繰り出される刀だったが、舟の上ではやはり不安定なのか、思ったよりも狙いは正確ではないため、何とか直樹一人でも防ぐことができている状態だ。
海へと抜ける川筋を行っているはずだが、もどかしいほどに舟が進まない。
いくつかの堀と交わるたびに出てくる舟が、直樹たちの刀のぶつかり合いを見て慌てて避ける。
下手をすると同心や岡っ引きまで呼ばれかねないので、早く決着をつけたいところだ。
幾つめかの堀から、再び刀が降ってきた。
新たなる追っ手かと身構えたところに、ようやく見慣れた顔を見た。
降ってきた刀は直樹を通り越し、直樹を狙っていた刀に振り下ろされた。
更に追っ手がもう一人川に落ちていった。
二人が落ちたところで直樹側に更なる助っ人が現れて追っ手が怯んだのか、追っ手側の船足が遅くなった。
そこを狙ったかのように下男が船足を速めた。
間を縫うようにして追っ手を引き離す。
追っ手側も諦めていないのか、遅れながらも追いかけてくる。
それでも先ほどの舟と挟むようにして進んでいる。
追っ手がどのように考えているのかわからないが、どう考えてもこれは無謀の類だろうと直樹などは思う。
既に決着はついているとも思うのだが、追っ手には追っ手の事情があるのだろう。
捨て身になっても追いかけねばならない事情があるのだとしたら、哀れなことだと思う。
「そろそろ海ですぜ」
下男が前方を睨んで言う。
海に出てしまえば、ますます明かりのない暗闇となり、追いかけるほうも不利となる。
おまけにお栗を千石船に乗せてしまえば手出しも更に難しいものとなるだろう。
「私を下ろしてください。少しでも乗る人数が少なければそれだけ早く沖に出られるでしょう」
直樹は後方を見てそう言った。
「それでも、あの連中は来ると思いますぜ」
「後ろにも味方が来ています。思い切って敵の舟に乗り込みます。
既に追っ手は二人です。片方は竿を手にしていますので、すぐには反撃できないでしょうし、反撃に入ればこの舟を追いかける術はなくなります」
「しかし、先生が」
「…なんとかなりましょう」
下男は戸惑いながらもうなずくと、舟の速度を緩めて追っての舟の横につけるように転回した。
間合いを計ると、直樹は突然の転回に戸惑っているふうの追っ手の舟に飛び込んだ。ついでに刀を下げていた追っ手の一人を蹴り倒す。
船は大きく揺れ、直樹も態勢を崩した。
闇雲に繰り出される刀を払い、狭い舟の上で決着をつけるのは困難を極めた。
舟の竿を操っていた者の手元が狂ったのか、もう少しで海に出るというところで岸にぶつかり乗り上げた。
どうっという乗り上げた衝撃とともに追っ手共々舟の外に投げ出された。
直樹は足元に泥砂の感触を得た。
対して同じように落ちた追っ手の一人は水音をさせている。どうやら岸辺というよりも川側に落ちたようだった。
そこへざくっと着物の斬られる音がした。ぱしゃぱしゃと水音が激しくなる。
目を凝らすが、闇の中で誰かが動く気配ばかりでよく見えない。
自分が斬られたわけではない事がわかるだけだ。
同じく闇の中でうあっと言う叫び声と呻き声が聞こえた後、急に静かになった。
静かになっただけで警戒を解いていいのかわからなかった。
ぎしっと舟の音がした。
「よお、先生、ひどい格好だね」
そのひどく怠惰な声は、間違いようもなく西垣だった。
こんなに暗くて見えるのかよという突っ込みも空しく、直樹はようやくため息をついた。

「あんたの甘いところは、できるだけ斬らないようにしようと、斬って死なせないようにするところだよ」

いつかそう言った西垣の言葉を直樹は思い出した。
それを踏まえたうえで、西垣は直樹よりも早く追っ手を斬ったのだろうと悟った。
医師としての自分は、できることならこの手は斬るためではなく、人を助けるために刃物を持ちたいと思っている。
ただ、例外はいずれの場合もある。
お琴に危険が迫ったとき、お琴を助けるためならば、躊躇せずに斬り捨てるだろう。
それがわかっているので、西垣の言葉に素直にうなずくことはできなかった。
たかが女一人のために自分の信念すらも覆してしまうことを揶揄されたが、それでもそれが真実だったからだ。
「これで追っ手の全てか」
西垣は刀を納めて辺りを見渡している。
「恐らくは」
若干心もとない返事だったが、見えないのだから仕方がない。
「しかし、無茶をする」
「本当ですわ」
思ったよりもしっかりと竿を持っているお智が言った。
「いずれ追いつかれた。あれしか方法がなかった」
「まあ、そうかもしれないけどさ」
「火事はどうなった」
「さあね」
西垣がお智を見た。
「おもとさんがそのうち追いつくでしょうよ。半鐘の音も少し間遠になってますし、それほど延焼せずに済んだと思いたいところですわね」
「…なら、俺はそこへ行く」
「行くって、今から?」
西垣は面倒そうに言った。
「俺は医者だ。きっと今は医者を必要としてる」
「…ああ、そう」
西垣は呆れてそう言ったが、きっとまた乗せていかなければならないのだろうと覚悟した。
「あの方はどうされるんですか」
今頃は沖に向かっているはずの舟を思ってお智が言った。
「もともと船に乗るはずだったんだ。少しくらい早まったとて支障はないだろう」
そう言って舟に乗り込もうとした直樹に向かって、二人は言いにくそうに口を開いた。
「…あの、お琴さんが」
「そうそう、お琴ちゃんがね」
途端に直樹はぎろりと二人を睨んだ。…が、その目は暗くて見えないのが救いだ。
「あれは俺たちのせいじゃない」
西垣は慌てて言った。
「火事の半鐘を聞いて、直樹先生に何かあったんじゃないかって、お琴さんがこちらに向かったそうですよ」
お智が助けを出すように言った。
「会ったのか」
「橋の上にいたのをちらりと見た程度で、後はおもとさんが」
「では、途中まで来ていたのか」
「ええ。そのようですわね」
直樹はあの馬鹿とつぶやいて、舟を下りた。
「歩いて行くつもりか」
「そうじゃないとすれ違う」
「この暗さじゃ地上でも同じだ」
「それならいい案があるんだろうな」
暗闇で睨んだ目は見えないはずなのに、西垣は薄ら寒いものを感じて首をすくめた。
「川を下ればここに着くのは明白ですし、どうせ火事場には近づけませんから、いっそここでお待ちするというのはどうでしょう」
「そうだ、それがいい」
西垣は面倒なのでお智の案に乗っかるように勧める。
「そこまでおもとが気がつくか」
「…それは、まあ…」
そうまで言われると、お智としても自信はない。
直樹は懐から提灯を取り出して火をつけた。ぽうっと辺りが明るくなる。
「…持ってたのかよ」
「当然だ」
見れば、提灯には大泉屋の銘が入っている。大泉屋より借り受けた物らしい。
それを合図にしたように、ぎいっと舟の音が響いてきた。

「せんせー」

割とすぐ近くからお栗のえげれすなまりの声がした。
見えないだろうが、西垣がひらひらと手を声のするほうに振った。

 * * *

ごほごほっとお琴が咳をした。
風向きが変わり、煙が二人の方へ流れてきたからだ。
「お琴さん、どうやら今のところ焼け死んだ人はいないようですし、あちらのほうに逃げた皆さんがいらっしゃるようなので、そちらへ行ってみましょう」
おもとがお琴を手ぬぐいで引っ張るようにして誘導している。
火事場からは少し離れているが、風向きによっては煙も流れてくる。
さすがにほとんどの人は逃げたようで、心配そうに見守る男たちしか付近にはいない。
少し離れたところから火消しの威勢のいい声だけが響いてくる。
そろそろ火事も下火なのか、新たに家を壊している様子もない。
「おもとさん、ごめんなさいね」
「いいんですよ、乗りかかった舟ってやつです。…あ」
「どうしたの、おもとさん」
「そうよ、そうよねぇ」
「何?」
「いえ、よく考えたら、舟で沖へ出たに決まってます」
「沖に?」
「ええ。お客人は今夜船に乗るんでしたよね、長崎行きの」
「た、多分」
「それなら、直樹先生は舟で川を下っているはずですよ」
「じゃあ、あたしたちも」
「ええ。そうしましょう。でも、もしかしたら追っ手も舟でと考えると…」
「お、追っ手?」
「え、いえ、おほほ、直樹先生なら大丈夫でしょうよ」
誤魔化しつつおもとは再び歩き出した。
夜中なので乗せてくれる猪牙舟(ちょきぶね:小舟)はそうそう見当たらないだろう。
どうしようかと思案しながら歩いていると「お琴さん、まだこんな所に」と声がした。
その声は紛れもなく啓太だったが、おもとは知らない振りで黙って立っていた。
火消しの仕事はほぼ終わったのか、顔を黒くさせた啓太は、手に火消しらしく建物を壊す道具を手にしている。
「あ、啓太さん、もう帰るの」
「あ、ああ、あとは近場の火消しだけで十分だとさ」
「そう」
「お琴さん、危ないから戻れと言ったはずだ」
「そうだけど、おもとさんに助けてもらったし。
あ、佐賀屋のね、女中さんで、お義父様の信頼も篤くてとっても頼りになる人なの」
「ああ、そうですか」
啓太は頭だけ下げると、お琴にまた向き直った。
「それで、直樹先生に会えたのか」
「ううん。どこに行ったかわからなくて」
「大泉屋のご隠居らしき方が、あちらの避難所にいらっしゃったみたいだが」
「ご隠居様が?啓太さん知ってるの」
「あ、ああ、すぐさまご自分の持ち家の一つを解放して避難所代わりにしてくれと。
それに、どうやら火元がご隠居の裏の家からで、空き家に侵入していた浮浪人が何かで誤って引火したんじゃないかと証言があってな」
「へー、そうなんだ」
「だ、だから、そこへ行けば他に誰か知り合いがいるんじゃないか」
「そうか、そうね。ありがとう、啓太さん」
「おうよ」
「じゃ、行ってみましょうよ、おもとさん」
何の屈託もなくそう言って、お琴はおもとを促した。
少しだけ険しい顔をしたおもとが啓太をじっと見ていたが、お琴は気づかなかったし、啓太はおもとから視線をそらしてやり過ごしたのだった。

(2012/10/22)