大江戸蝉時雨



14


お琴とおもとは啓太に言われた通りを歩いてご隠居の持ち家の一つとされる家に向かった。
「それにしてもご隠居様は、あのお家だけじゃなくて、まだ他にもあるなんてさすが大泉屋の方よねぇ」
「そうでございますわね。佐賀屋の旦那様は働いている者たちにも良くして下さいますから、ご自分の楽しみのために別邸を買われることをあまりお望みになりませんものね」
「あら、そんなこと言ってはご隠居様にも大泉屋の方にも失礼よ。確かにお義父様は堅実でいらっしゃるけれど、大泉屋ともなればお客様も多いし、上方のお付き合いある方も大勢お泊りになったりされるでしょうから、別邸の一つや二つくらい必要かもしれないわよ」
「…おっしゃるとおりですわ。おもとの浅はかな言葉、お忘れくださいまし」
「あ、ごめんなさい。おもとさんを偉そうに咎めたりして」
「いいえ。さすが直樹先生がお選びになったお方だとおもとは思っておりました」
そう言っておもとは顔をほころばせた。
「あら、そう、うふふ」
お琴はおもとの言葉に気を良くして歩調が浮かれている。
ちょっと持ち上げればすぐに反応するところは若干お調子者とも言えるが、素直な気性は何にも変えがたいものだとおもとは思っている。
そして、その嫁を直樹がどれほど慈しんでいるかも知っている。
時々あなたの尊敬する旦那様は、いつも冷たいことばかり言うくせに他人が同じようにすると烈火のごとくお怒りになるんですよとぶちまけたい衝動に駆られる。もちろん余計なことを言えばなぜか直樹の耳に入るので、迂闊なことは言えないのだが。
「あそこに大きな提灯が…」
「あれがそのようですね」
しばらく歩いたところに、遠くからでも一目でわかる大泉屋の銘の入った大きな提灯が門前に据えられているのが見えた。
人が出入りしているところを見ると、本当に救護所代わりにしているらしい。
啓太はお琴の手前、浮浪人の仕業と説明していたが、場所が場所なだけに今回のお客人と関係のあることなのだろうとおもとは悟った。
もちろん公にしては困ることがたくさんあるので、あえて身元も知らぬ浮浪人としているだけのことだろう。関係者の口から漏れることがない限り、そのまま過ぎていくのだろう。
仕えていた女中や下男は元より口を開くことはあるまい。それが大泉屋としてたくさんの使用人を抱えているの大店の教育であるし、軽く口を開くような使用人は続かないだろうと思われる。
二人で門をくぐると、夜半だというのに大勢の女たちが動いていた。
「あの、ご隠居様はこちらに?」
一人の女をつかまえておもとが聞いた。
「あ、ええ。あちらの離れにいらっしゃるそうですよ」
「ありがとう、お訪ねしてみます」
再び屋敷の奥へと進むと庭の奥に離れがあった。
「凄いわね、離れまである別宅なんて」
お琴は感心したように言った。
離れの前に立つと、確かに人の気配がした。
「あの…」
戸口を開けると、そこに立っていたのは、紛れもなく大泉屋のご隠居だった。
「ご隠居様!」
驚いて思わず大きな声でお琴が言うと、ご隠居も驚いて振り向いた。
「なんじゃ、お琴さんか」
「夜分に申し訳ありません」
「夜分も何もこんな状況では寝るに寝れんの」
そう言ってご隠居が笑った。
「火事はようやく下火だそうです」
「そうらしいの。しかし、ようも焼けたものだ」
「…ええ。あの、それで」
「直樹殿のことか」
「はい」
ご隠居は少しだけ難しい顔をしてから、お琴の後ろに控えていたおもとに気がついた。
「そちらは」
お琴ははっとして振り返ると、おもとをご隠居に見せるようにして言った。
「佐賀屋の女中さんで、おもとさんです。お義父様が心配して私のために寄越してくださった方です」
「もとと申します。挨拶もなく申し訳ありません」
それだけでご隠居は察したようにうなずいた。
「そうそう、直樹殿のことだったな」
「先生はどちらに」
「お客人を乗せて沖に向かいました。火事騒動で出発を早めねばならなくなりましてな、下男と一緒に小舟で」
「では、火事には関係ないのですね」
「火事の折には足早く屋敷を抜け出ましたので、被害はありますまい」
「お客人は大丈夫だったでしょうか」
「さあてな。直樹殿が付いているので大丈夫と思うしかあるまいて」
「そうですか…」
若干の不安を残し、お琴は黙り込んだ。
おもとはそれを見て勇気付けるように声をかけた。
「お琴さん、大丈夫ですよ。あの先生がしくじったりするわけはありません。
それに夜ですから、お客人を見咎める人などそうはいません」
「そうよね」
お琴は笑っておもとに言った。
「先生は、実は剣の腕も凄いのよ。何かあったらその辺の棒切れで悪人をやっつけちゃうかもしれないわ」
「そうそう。護身用に刀を一つ持たせたから、最悪それで敵を振り払うだろうて」
「か、刀」
お琴は驚いてご隠居を見た。
「い、いや、そこまでの悪党はそうそういるまい。なあに、護身用じゃからの」
慌てたようにご隠居がそう言い繕うと、お琴は胸をなでおろした。
おもとも一緒になって安堵した。
直樹が人を斬らねばならない有様になったら、お琴は随分と心配するだろう。本当にそういう状況になろうとも、できればお琴にはそういうことは伏せておきたかったのだ。人を斬ることは、侍でもなければどんなに言い訳をしても犯罪であることには違いないのだから。いや、もちろん侍とて問答無用で切り捨てることは犯罪になるのだから。
「おもとさん、先生を追いかけるにはどうしたらいいかしら」
「なんと、お琴さん、追いかけるつもりかの」
ご隠居はそう言ってお琴を見た。
「はい、そのつもりです」
「…ここは一つ、戻ってくるのを待つのはどうじゃ」
「…ええ、そうは思うのですが」
下を向いていろいろな言い訳を探している様子のお琴を見て、ご隠居はため息をついた。
「止めても無駄のようじゃな」
お琴の顔がぱっと輝き、ご隠居を見た。
「…直樹殿もこの顔に弱いんじゃろうな」
ふふっとご隠居は笑って外へ出ると、その辺にいた女の一人に何かを言いつけた。
「同じように舟を用意させましょう。普段はこんな夜中に仕事をしているものなどおりませんが、今日はこの火事で幾人かがこの屋敷に留まっております。女だけでは何かあったら直樹殿に顔向けできませんからな、一人供の者をつけましょうか」
お琴はおもとを見た。
この身分不相応なまでの申し出は、自分が我が侭を言って夜中に出歩くせいだとわかっていたので、申し出を安易に受けていいのか、断ったほうがいいのではないかと思ったのだ。
おもとはお琴にうなずいた。
「舟にさえ乗せてもらえばそれで結構でございます。なにぶんにもこんな夜更けですし、逆に出歩く者などおりません。
でも、そうですね、お琴さんのことを考えれば…。
我が侭であることは承知の上でお願い申し上げますと、その船頭さんに腕の覚えのある方などいらっしゃれば、船頭さんと女二人でも安心でございますわね」
「ふむ、承知した」
先ほどの用事を言いつけた女が戻ってきた。
「ご隠居様、舟の用意ができました」
「そうか。すまないが、船頭の角之介を」
「はい、すぐにお呼びします」
言ったはいいが、おもとは失礼だったかとどきどきしていたが、すぐに手配してくれたご隠居にありがとうございますと頭を下げた。もちろんお琴も慌てて一緒になって頭を下げた。

船頭の角之介の操舵によって、お琴たちの乗った舟は川面を動き出した。
暗いので、おもとが佐賀屋の提灯を持っているが、明るいのはその周りだけで、川の向こうをのぞけるものではない。
角之介も大泉屋から借りた提灯を舳先に据え置いている。
時々ぎいっと音がして振り向くと、後ろをゆっくりと猪牙舟が通っていったりするのがわかるくらいだ。
さすがに火事が落ち着いてきて、行き来する舟は格段に減ったようだ。
「沖へ出るとなると、先生もこの川を下っていったのかしら」
「いくつか堀はありますが、よほどのことがない限り、最終的にはこの川に出ないと行けませんので」
身体のがっちりとした角之介は、ご隠居が選んでくれただけあって、何かあっても頼りになりそうではある。
おもとは見えない暗闇を真っ直ぐと見つめるお琴をそっと見た。
相変わらず自分の危険を顧みずに飛び込んでいくその無鉄砲さには驚かされるが、それこそが直樹を振り向かせたのだと思うと、おもとは世の中の女に同情したくなる。
いくら江戸の女が強いとは言っても、ここまで度胸と無鉄砲さを併せ持った女はそうそういまい。
「お栗ちゃん、無事に船に乗れたならいいけど」
心細いだろうに、それでもお琴はお栗の心配を口にした。
船頭は力強く舟を川下へと進ませた。

  * * *

「さあ、いい加減に船に向かわないと、気がついたら夜が明けたなんてことになりかねません」
お智はそう言ってお栗を促した。
男たちは黙って何も言わないからだ。
お栗が誰を待っているのかはわかった。
この場にいないお琴だ。
しかし、お琴がいつ来るのかはわからない。
いつまでもここでぐずぐずしていては、本当に怪しまれてしまう。
さすがのお智も気が気ではなかったが、先ほどまでと帰ると言っていた直樹ですらそれを口にしなくなった。
お琴がここにやってくるとまるで確信しているみたいだった。
「…待っているんですね」
ため息とともにお智は諦めた。
「仕方がありませんね。船はあと半刻(1時間)で出発ですよ。四半刻(30分)だけお待ちしましょう。それ以上は船に乗りそこなってしまいますから」
いつものお智はもう少し楽観的で、この役はいつもおもとが担っていたと思い返す。
この場におもとがいないのだから仕方がない。
そのおもとももしかしたらお琴と共に現れるのかもしれないが。
お栗を乗せていた下男はとうに諦めたようで、煙草を取り出して吸っている。
夜目にも煙が薄く漂うのが見えた。

それから本当に四半刻後のことだった。
もう時間がないという時になってお琴が現れた。
佐賀屋の提灯と大泉屋の提灯を伴って。
「せんせーい!」
静かだった河川岸にお琴の声が響いた。
「静かにしろっ」
さすがに響いた声に同じくらい直樹が怒鳴った。
「まあまあ。あんたも声が大きいし」
取り成すように西垣が言った。
屈強そうな男が船頭とはいえ、お琴とおもとの二人だけの夜間の舟行きに直樹は顔をしかめた。
「危ないだろうが」
「だって、先生、変な人にやられたりしてないかとか、お栗ちゃんがちゃんと船に乗ったのか心配だったんだもの。あ、もちろん先生はやられたりしないって思ってたけど」
「それにしても」
なおも文句を言おうとする直樹を遮るようにしてお栗が飛び出した。
「お琴さん!」
「あ、お栗ちゃん!まだ船に乗ってなかったの?え、まさか乗り遅れちゃったとか」
「おー、ちがいます。お琴まってた」
「待っててくれたの」
来るか来ないかわからないお琴を待っていたと聞かされ、お琴は涙を流しながらお栗に抱きついた。
「ぜったい来るおもうてました」
「ありがとう、お栗ちゃん」
「もういちどあってお礼いいたかったです」
「お礼なんて、何も、何もしてあげられなかったし」
おいおいと泣きながら、お琴はお栗と抱き合う。
「本当にこれでお別れなのね」
「のー!そんなことありません。わたし、またえどに来る」
「でも、だって」
「いつか、えどもえげれすの人もあめりかの人もじゆうに来る国になります」
「そ、そうかな」
「ええ、きっと」
「そう、そうね。そんな時代が来ると信じていいわね」
「だから、お琴もげんきで」
「うん。またお栗ちゃんに会える日が来るまで待ってる」
「そのときにはわたし、てにすおしえましょー」
「て、てにす?」
「はい。らけっともってぼーるをうつね」
「…なんだかよくわからないけど、楽しみにしてる」
「こういうとき、えげれすのことばではしーゆーあげいんでしょー」
「しーゆーあげいん?」
「またあうのをやくそくすることばですよ」
「うん。わかった。しーゆーあげいんね」
「またあう日まで、ですよ」
また、会う日まで。
お琴は胸に刻んで名残惜しそうにお栗と離れた。
お栗が下男の操舵する舟に乗って沖へと離れていく。
沖には恐らく大きな船が佃島辺りに停泊しているのだろうと思われたが、未だ夜更けの海は暗くて何も見えない。
提灯の明かりだけがゆっくりと遠のいていくのが見えるだけだ。
もっと大きな船がこの港にも着くようになり、自由によその国の者が出入りできるようになるには、それからもう十数年あまり時が必要だった。
すぐ後にあめりかから黒船が着き、世の中が大きく変わるまで、この暗く静かな海は変わることがない。
お琴は提灯の明かりが見えなくなるまでずっと見つめていた。

(2012/10/29)