大江戸蝉時雨




「ちょいと夜分にごめんよ」

突然表戸から駕籠屋の声がした。
お琴は慌てて駆けつけると、そこには直樹の実家、佐賀屋の手代が息を切らして立っていた。

「どうされたんですか、誰か急病ですか」

もちろん奥でようやくのんびりし始めたところだった直樹も駆けつけ、お琴を自分の背にかばうようにして表戸を開け放った。
駕籠屋が運び込んだ女性を診療に使っている部屋に運び込むと、ようやく追いついたらしい佐賀屋の主人までがやってきたのだった。

「父上、どうされたんですか」
「直樹、夜半にすまないね。
武家屋敷の帰りにこちらのお嬢さんが駕籠屋の前に倒れこんだものだからね、ひどく衰弱しているし、そのまま直樹のところに運び込んだらいいと私が指示したのだよ」
「お義父様、こちらへ来て一服してくださいな」
「ああ、お琴ちゃん、すっかり遅くなったし、ここは手代に任せて、私は一足先に店に戻るとするよ。駕籠屋も待たせてあるしね」
「そうですか。こちらのお嬢さんはお任せくださいませ。
お義父様もどうぞお気をつけて」
「それじゃあね、お琴ちゃん。忙しいとは思うけれども、あちらの家にももっと顔を出しておくれよ」
「はい、わかりました」

お琴はそう言って笑い、直樹の父である佐賀屋の主人を送り出した。
佐賀屋を継ぐはずだった直樹が医者になり、佐賀屋の身代は弟である次男が継ぐことになっているのだった。
お琴が診療部屋に戻る前に廊下に直樹が出てきた。

「お琴、熱を出しているようだから、額の手ぬぐいを換えてやってくれ。できるな?」
「はい、先生」
「俺はちょっと調べものがあるから。
…それから、あの娘さんの素性については一切他言しないように。大声も出すな」
「わかりました、先生」

胸をどんと叩き、任せてくれと言うように胸をそらした。
ふと見るとまだ上がり口近くには手代が残っており、直樹が運ばれた娘の病状を告げると、手代は大きくうなずいた。
自身番に届けるかどうか聞かれたようだが、訳ありのようなので娘の意識が戻ったら改めて届けることにしようと手代と話がついたようだった。
まだ細かいことを話しているようだったが、お琴は邪魔をせずに見守り、手代が帰っていくのを見届けてしっかり表戸に芯張り棒を差した。
直樹は書物が山ほど積み上げてある小さな部屋に入っていった。
いつもあの部屋に入ると難しい顔をしているので、お琴は滅多に近づくことはない。
それを少しだけ心配そうに見つめてから、お琴はおけに冷たい水を入れて診療部屋に戻った。
診療部屋に横たわっている娘をのぞくと、そこにはありえないくらい眩しい色の髪が広がっていた。
おまけにひどく顔色が悪いと思われたその白さも、元の肌色でもあるらしかった。
よく見れば頬は薄っすらと桃色になっているのがわかる。

「…ど、どういうこと?」

かろうじて大声を出すのを止めると、その髪色をまじまじと眺めた。

「きれい…」

行灯の薄暗い明かりの中で輝く髪は、黄金色だった。
滅多に手にすることのない小判でもこれほどの輝きを放っているかと思うくらいの色だった。

「もしかして、南蛮人…?」

はっとしてお琴はおけを置いて、早速額を手ぬぐいで冷やし始めた。
まだ意識が戻らないのか、うわごとのように口を動かすその娘は、確かに熱を出していた。
それは何か風邪のようなものではなく、ひどく衰弱したことによるものだろうと察しがついた。
これでも直樹のそばで看護婦のように患者の世話をしてきたお琴である。
あとは黙って夜通し娘の看病を続けた。
途中、直樹が様子を見にきたが、力強くうなずいたので、娘の病状はさほど悪くはないのだろうとわかった。うとうとしかけたこともあったが、一晩看病し続けたのだった。

気がつくと、辺りは明るくなっていて、お琴は頭上で軽やかな声を聞いた。

「ここはどこでんねん」
(作者注:本来カタカナで表示したいところですが、非常に読みにくいので、ひらがな表記にします、ご了承ください)
「気がつかれたのですね。
あ、そうだ、先生呼ばなくちゃ。
先生!先生!」

早速お琴は立ち上がって声を張り上げた。

「大声を出すなと言ったろうが」
「あ、そうでした。でも、先生、気がつかれたようです。お熱も下がったようですし」
「そのようだな。お琴、何か食べるもの。
…ああ、いつもの焦げた飯はだめだぞ。柔らかいお粥にしてくれ」
「わかってます!」

少しだけ膨れてお琴が台所へと駆けていく。
その様子をくすくす笑いながら見やると、直樹はようやく顔を引き締めて金髪の娘を見た。

「気分は?」
「あなたは敵でっしゃろか」
「俺は医者です。ここはしがない診療所といったところかな」
「しがない…?診療所は病院のことですね」
「お国はどこですか」
「わたしはえげれす(英国)から来ましたねん」
「…それで、何故上方の言葉を…」
「長崎いわはるところに大坂のあきんどがいましてん」
「…それで無茶苦茶な言葉に」
「むっちゃくっちゃ?」
「えげれすの人と言えど、国の中を移動することはできません。何故こんなところに?誰かに連れてこられたのですか」
「それはわたしの父いうひとがえらいからでしょー」
「あなたの父上ですね。何か繋がりがあるのでしょうか」
「難しいことはわからしまへん。
わたしが捕まえられてきっと困ってるでしょー。
はやく教えてあげないと、取引されるかもでしょー」
「あなたは自力で逃げ出したと」
「おう、それは違います。
なんとかいうひとが助けてくれましたね。
そのひとどうなったか知りたいです」
「誰かに捕らわれて密かに江戸まで連れてこられたと。
どこかの屋敷に捕らわれていたのを誰かが助けてくれたということですね」
「だいたいあってるでしょー」
「なるほど…」

直樹がうなずいたとき、転びそうな勢いでお琴が盆を持ってやってきた。

「先生、できましたよ〜。お琴特製のお粥ですよ〜」

土鍋にぐつぐつと煮立っているものは、多分お粥と呼んでいる代物だろう。
どの患者もこれを一度食べれば必死で回復する。
ある意味特製で、特効薬と言えないでもない。

「めっちゃすごい味でんなー」

一口食べてそうつぶやいた娘だったが、それでもお腹が空いていたのか、黙々と口におかゆを運んでいる。

「ところで、この娘さんのお名前は?」

お琴の言葉に直樹はお琴の顔を見た。

「やだ、先生。お名前も聞いていないの?」
「…ああ、そうだったな」
「娘さん、お名前は?」
「くりすいいまんねん」
「くるす(十字架)と似てるわね。さすが南蛮のお人」
「南蛮じゃありまへん。えげれすです」
「え、えげれす…?」
「南蛮言うたら、ぽるとがるのことでっしゃろ」
娘は何の屈託もなくそう言った。
確かに江戸においては南蛮とはポルトガルやオランダなどを指すことが多い。
しかも鎖国によって本来は長崎にしか住むことを許されていないのだ。
江戸に外国人がいるのはとんでもないことなのである。
「えげれすは紅毛人とか呼ばれてるかな」
「紅毛…?」
直樹の言葉にお琴は首をかしげた。
「でもこの娘さんはきれいな黄金こがね色よ。
目だってこんな色でちゃんと見えてるのかしら」
「お琴の目だって黒いけれど、世の中が黒く見えているわけじゃないだろう」
「ああ、そうね。
でも、やっぱりくりすじゃくるすと間違われるし、お栗ちゃんとでも呼ぶしかないわね」
「おお、お栗ちゃん、わたしそれでいいです」
「では決まりね」

何だかんだと平らげた様子のお粥の入っていた土鍋を片付けて、お琴はこれからのことを思案した。

 * * *

亡骸を安置している自身番は重い空気が漂っていた。

「じゃあ、何かい、この殺された御仁は、どこかのお屋敷にいたかもしれないってことか」

懇意にしている岡っ引きからの報告に同心である渡辺は、ずり落ちる眼鏡を上げて考え込んだ。
似顔絵を持って聞きまわった結果を聞いて、こりゃとんでもない案件だとため息をついた。
とある武家屋敷にいたらしいことが判明したのだ。
武家屋敷に乗り込むことは多分できないだろうという諦めと引き取りに来るのかすら怪しい理不尽な亡骸。
どうせなら自分の管轄外のところに放ってくれればよかったのにとすら思う。
もしも武家でのごたごたが原因なら、お上に報告しても多分有耶無耶にされるだろうと渡辺は思うのだった。

「仕方がない。報告だけして終わらせるか…」

本当は殺されたもののためにも下手人を追うのが仕事なのだが、武家となると一同心では手が出ないのが悔しいところだ。
主に背けば切捨て御免であったし、何かまずいことが起きているにしても、わざわざここまで亡骸を捨てに来るのだから、屋敷を探し当てても知らぬ存ぜぬということもありうるのだ。

「こりゃまた気の毒なことだ…」

渡辺は思わずため息をついて亡骸に同情した。

(2012/08/18)