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英国人であるくりすはお栗ちゃんと呼ばれてはいるものの、やってくる者たちの前に出ることはできない。
髪だけなら誤魔化しようもあるが、瞳の色は変えられない。
したがって、患者がいる間は奥でしゃべらず、出ることもなく、じっとするしかなかった。
そんな生活はどう頑張っても何日も続くはずがない。
それを思って、お琴は実家の料理屋か直樹の実家の佐賀屋に預けてはどうかと直樹に提案した。
お琴の実家はちょっとした料理屋福吉を営んでいて、父は板前である。
しかし、やはり診療所と同じように人の出入りが激しく、人の目に晒されるわけにいかないお栗ちゃんを預けるには少々難儀なことだ。
「やっぱりお義父様とお義母様にお願いするしかなさそうね」
まずはお琴だけが先に佐賀屋に行き、事情を話すことにした。
「先生、本当にあたしがいなくても大丈夫ですか」
「一日くらいどうってことないから、たまには母上に顔を見せてやってくれ。どうせ俺が行くよりもずっと喜ぶだろうから」
「そうですか。
…大丈夫って言われるのもなんだか複雑」
実際には診療の手伝いなら通いの見習いがいるし、薬剤の調合も結局は直樹が全部やっていたし、お琴がすることは家のことだけである。
ぶつぶつ言いながら、お琴はそれでも佐賀屋に出かけていった。
お琴が佐賀屋に出かけると、直樹も思案顔で文をしたためた。
通いの見習いを呼ぶと文を二通渡して言った。
「これを八丁堀の渡辺様と大泉屋のご隠居様に届けてくれ」
見習いが出て行くと、入れ替わるようにして投げ文があった。
『客人を渡されたし』
直樹はため息をついて縁側から外を見た。
当然のように誰の姿も見当たらなかった。
* * *
文を受け取った渡辺は、町を歩きながら考えていた。
客人を預かっているという直樹の文に、ますます武家屋敷での面倒ごとに深く関わっていく自分を嘆いた。
その客人とはどんな人物か書かれていなかったが、どうやらその客人を逃がすために亡骸の人物が切られたのだと察した。
これを報告すべきかどうかも悩む。
「はははは、お琴ちゃんも相変わらずきついなー」
聞きなれた名前を耳にして、渡辺は振り返った。
ちょうど直樹の実家の佐賀屋まであと少しというところだ。
「西垣様もいい加減になさいまし」
遊び人風の侍の側でお琴が風呂敷包みを胸に抱いて立っていた。本人は精一杯怖い顔をしているつもりらしいが、微笑ましいほどに迫力がない。
「お琴ちゃん、佐賀屋までお使いかい」
さりげなくそう声をかけると、西垣と呼ばれた侍は肩をすくめて去っていった。
「渡辺様」
お琴は軽く頭を下げた。
「先ほどの男は…」
「旗本の三男で西垣東馬様ですよ。いっつもああやって遊び歩いているの。
先生とも知り合いらしくて、よく声をかけられるんだけど、懲りない人なんですよ。
あたしには先生という人がいるのに、まったくもう」
「ははは、そりゃお琴ちゃんなら声をかけたくなる気持ちもわかるけどね」
「そうですか?三男坊とはいえ旗本のご子息様ですし、佐賀屋の常連様だからあからさまに無視もできなくて。
何であんな人と先生はお知り合いなのかしら。全く性格合わなさそうなのに」
「直樹先生もあれで顔が広いからね」
「そうですよね、渡辺様ともお知り合いでいらっしゃるし」
「いやあ、たいしたことないよ、しがない同心なんて」
「いいえ、立派ですとも。…あ、いけない。大事な用を先生に頼まれていたんだった」
「…もしかしてそれは、今お預かりしている客人のことかい?」
「え…と…」
「ああ、心配しないで。先ほどね、直樹先生から文をいただいて。もちろん詳しいことは聞いていないんだけども。
話の具合によっちゃ、協力させていただこうかと思う」
「え、でも、八丁堀はそれじゃおさまらないんじゃ…」
「もちろん他言無用だよね。でも、やばくなったらお上の力も必要だと思わない?」
「えーと…じゃあ、まずはお義父様にお話してからでいいでしょうか」
「構わないよ」
「それじゃあ、佐賀屋はすぐそこですから」
事が決まると、お琴は跳ねるようにして佐賀屋の暖簾をくぐっていった。
中からはおかみと女中のおもとの声が響く。
直樹先生よりと言っていいくらい、お琴が佐賀屋で娘同然に可愛がられている様子がよくわかる。
それを外で聞きながら、そろそろ嫁をもらうべきかと渡辺は思うのだった。
* * *
佐賀屋の主は福顔だともっぱらの噂である。
そのにこやかな表情はよほどのことがない限り崩されることはなく、つい近頃まで一緒に住んでいた長男の直樹の仏頂面具合が増幅されるほどだった。
何故あれほどまでに直樹が不機嫌顔だったのか、今となっては知る由もないが、この明るい嫁をもらってから人が違ったようだとの評判は記憶に新しい。
そうでなくとも親友の娘で、娘に恵まれなかった佐賀屋では、このお琴を嫁とは思えないくらい溺愛しているのだった。
「お義父様、この件はお上に知られれば正直この佐賀屋の身代をも揺るがすこととなりましょう。それ故に本当にお頼み申し上げても良いものか…」
「なあに。奥の部屋で過ごす分には問題なかろう。女中にはこのおもとを付ければよいし、恐らくそう長くはお預かりすることもないだろうと思うよ」
「そうでしょうか」
「あの直樹が事に当たっているのならば、心配することもないだろうよ。
わしもわしであの娘さんが無事に長崎に戻れるように尽力いたそう」
「それで、渡辺様には…」
「うん、わしから話すのがよいだろうな。
おもと、渡辺様をここに」
「はい、かしこまりました」
おもとは女中の中でも夫妻が最も信頼している。
お琴や直樹とも顔見知りで、その容姿は目だって美しい。…が、何か秘め事はあるようで、その秘め事が更におもとの美しさを際立たせているようだ。
もちろん夫妻はその秘め事とやらも知っているようだが、お琴は表立って聞いたことはない。
「お邪魔いたします」
障子の向こうから声がし、同心渡辺が入ってきた。
直樹の幼い頃からの友人でもあり、同心となった今でも親しくお付き合いいただける気さくな人物だった。
「お久しぶりでございます、渡辺様」
「こちらこそ、無沙汰しておりました」
二人が丁寧に挨拶を交わしたところで、おもとが茶と茶菓子を持ってきた。
これ以上は話に加わるつもりはないらしく、そのまま部屋からそっと出ていった。
しばらくあれこれと近況を交えつつ、佐賀屋の主が渡辺に話を通すと、渡辺は眼鏡の奥の目を瞬いて言った。
「まだ推測の域を出ませんが、どうやらお客人は武家屋敷に捕らわれていたようです。
それを殺された御仁が助け出し、逃がしたところで捕まったのでしょう。
恐らく亡骸を引き取るものは現れますまい。
それに西国からはるばる運ばれたとなると、駕籠では難しいでしょうから、船でしょう。
最近こちらに着いた西国の船と言うと…」
「…よりによって佐賀藩…ですね」
「生国、でありましたな」
「はい。それ故わが屋号は佐賀屋なのでございます」
柔和な顔を困ったように曇らせて、佐賀屋の主はそう言った。
「これは、あの娘さんを本当に我が家で預かっても大丈夫なのかどうか疑わしくなりましたね」
「どうしたものでしょうか」
障子の向こうで足音がして、おもとの声がした。
「旦那様、大泉屋から急ぎ文が参っております」
「では、こちらへ」
主の声におもとが障子を開けて文を携えて入ってきた。
主は文をざっと眺めてからうなずいた。
「急ぎ返事を所望されているので、『かしこまりました』とお伝えしてくれようか」
「『かしこまりました』だけでよろしいのですね」
「それだけでわかるようになっている」
「はい、では、お使者にそうお伝えします」
おもとが再び出て行ってしまうと、主はにこやかに笑って渡辺を見た。
「これは、さすがに大泉屋さまでございますな」
「何か」
「ご隠居のお屋敷で、宴を催されるようです」
「宴を…」
「こちらにお誘いがありました。
直樹もお琴ちゃんもぜひ来てほしいと。
少々場所が遠いようなので、大泉屋から駕籠を出しますと」
「ほう…」
「あたしもですか」
お琴は事の次第がよくつかめず、にこやかに笑うばかりの主を見て首をかしげた。
大泉屋とは浅からぬ因縁があったが、ご隠居がわざわざ誘うのだからと黙ってうなずいた。
(2012/08/25)