大江戸蝉時雨




佐賀屋を出ると、日射しはまだ高く、歩くお琴を照りつける。
直樹の母であるおかみに散々あれこれと勧められたが、さすがに食べるほうも限界があるし、飾り物は仕事の邪魔になるからと辞退した。
それでも一介の医者の女房にしては、控えめながら物はいい簪を差しているのは、佐賀屋の主とおかみからの贈り物だった。

「おいしい団子にお茶はいかがですか」

可愛らしい顔をした茶屋娘が道行く人に声をかけている。

「あら、新しい娘さんね」

お琴は気になってその茶屋をのぞくようにして通り過ぎる。
よそ見をしていたので、誰かとぶつかった。

「おっと、御免」
「あたたた…」
「こりゃ済まない。
…ああ、直樹先生のところの…」
「え?ああ、め組の啓太さん」
「こんにちは。どちらへ?ああ、帰るところですか。
それにしても、相変わらずそそっかしいですね。よそ見していたら車(大八車)に轢かれますよ」
「啓太さんがぶつかってきたんじゃないの」
「おっと、そうきますか」
「もう、あたしだっていつもよそ見してるわけじゃないわよ。
ちょっと新しい茶娘が気になったの」
「そうですか。じゃあ、お詫びにその茶屋で団子でも奢りますよ」
「団子?うーん、お腹いっぱいだから、お土産にしてもいい?」
「直樹先生にですか」
「そうよ」
「ちゃっかりしていますね。
まあ、いいでしょう。直樹先生には日ごろお世話になっているし」
そう言って啓太は茶屋に寄っていく。

「団子を持ち帰りたいんだけど」
「はい、団子ですね」
「茶を俺とこちらのご婦人に」
「はい」

なかなか可愛らしい顔立ちで、この茶娘のお陰でこの茶屋は繁盛しているようだった。

「ねえ、最近ここで働き出したの?」
好奇心いっぱいのお琴が娘からお茶をもらいながらそう聞いた。
「はい、昨日からです。お智と申します、どうぞごひいきに」
そう言ってにっこりと笑って去っていったが、それを見て啓太はお琴にこっそりと言った。
「こんななりをしていますが、以前はどうしてもここで働きたいって魚屋の弦さんを困らせたみたいですよ」
「魚屋で」
「なんでも、魚を解体するのが好きだとか」
「はあ、人は見かけによらないものね」

お琴は店頭で立ったまま茶を飲み干すと、器を渡して帰ろうとする。

「あ、ちょっと、団子!」

啓太は慌ててお琴に団子を手渡した。
「…本当に忘れっぽいな」
お琴は啓太を軽く睨むと、団子を抱えて「それじゃあね」と足音高く帰っていった。

家に帰り着くと、直樹はまだ診療中だった。
それを邪魔しないように、患者が帰った後で団子と茶を直樹に出した。もちろん助手のほうにも。

「それでね、大泉屋のご隠居様があたしたちも招待くださったのよ」
「ああ、そのようだね。ほら」

そう言って直樹が大泉屋からの文を見せた。
そこには駕籠を寄こすので是非にと書かれていた。

「それから、今日は寄り合いがあるから、晩飯はいらない」
「はーい」

先ほどはお腹がいっぱいと言っておきながら、直樹とともに団子を頬張ったお琴は、これならもう夜の食事はあたしもなしにしてしまおうかしらと考えていた。何せ佐賀屋であれこれといただいて、今日はもう十分という気がしていたのだ。

そろそろ日が傾いてきて、ようやく風が出てきたようだった。
障子戸を開け放ち、お琴は風を入れることにした。
近くの社からまだ蝉の鳴き声が響いている。
奥の部屋にいたお栗ちゃんは、直樹に教わったのか熱心に薬を包んでいる。

「お栗ちゃん、お父様はどんな仕事をしている人なの?」
「いろんなものを売ったり買ったりしてます」
「へえ、外国のものだったら、きっと珍しいものもたくさんあるんでしょうねぇ」
「捕まえたひと、もっとほしいから言うてました」
「…お栗ちゃんを人質にして脅してってことかしら」
「おう、そう、ひとじち」
「…それって危ないわよね…」

改めてお琴は金髪のお栗をまじまじと見つめた。
それなのに、お栗は自分の立場をどう思っているのかわからないままここにいるようで、お琴は案外お栗ちゃんって凄い娘なのかもと思うのだった。

 * * *

料理屋の二階、奥まった部屋でひっそりと集まった面々は、どう見ても共通の職業ではなかったし、友人とも言いがたい面々だった。
しかし、表向きは趣味の集まりとなっている。
料理は主の重雄が運び込んだ。料理屋福吉の主にしてお琴の父だった。
お琴の父はこの訳ありの一行の詮索はもちろん一切しない。
娘婿の直樹がいったいどんな集まりで来ているのか、問い詰めたことはなかった。
ただ、薄々、何かとんでもなく大事な用事で集まっていること、それも私的な集まりよりももっと大きな何かが背後にあることを感じ取っていたのか、こちらの集まりがある時は二階の他の部屋にも予約を入れないし、料理は全て重雄が運び込むことにしていた。
料理屋の他の女中は、娘婿なので特別に扱っているという認識しかないはずだ。
そして、今回もわざと灯りを暗くしたような部屋で、静かにその話し合いは行われた。

「佐賀藩、で間違いないかと」
「人知れず客人を戻すのが最優先でしょう」
「その客人って、可愛いのかな」
「来るとすれば、宴も半ば過ぎというところか」
「ところで、客人の父上はいったい何を…」
「鉄砲などの取引を持ちかけられ、断ったのが最初ではないかと」
「ふーん、世も末だな。えげれすだの阿蘭陀だのとあれこれ外国の船が来るとなると」
「東馬様、まさかそんなこと、往来で口にしてはいないでしょうね」
「口にしたってだれも本気にしてないよ。あーあ、侍なんてなくなっちゃえばいいのに」
「そりゃ東馬様は三男でいらっしゃるからお気楽なんですよ。お兄様はそれはそれはご苦労なさっているんじゃありませんか」
「家を継ぐんだから仕方がない。家をいずれ出る身としては、それくらい背負ってもらわないと。
そういうおもとは、このご時勢でよくもまあ騙くらかしていられるもんだよね」
「別に騙しているわけじゃありません。誰も聞かないから答えないだけです。
それにお店の旦那様とおかみさんはそれでもいいっておっしゃったんですもの。
それを言うなら、髪結いと称してあちこち良さげな若衆を誘惑しているお真理はどうなんです」
「失礼ね、髪結いは本職です。
それなら、顔がちょっとばかり可愛らしいからってげてもの趣味を隠して愛想振りまいているお智はどうなの」
「隠してませんわ。どこも雇ってくださらないから、腕を発揮できる場所がないだけですもの。
奥様にも隠していらっしゃる直樹様はどう?」
「いつまでも気づかないお馬鹿で可愛い妻ならいるが」
「よっく言うよなー、反吐が出らぁな」
「そういう啓太さんは、その奥様に団子を買ってあげてご満悦だったわね?」
「お、おまえっ、言うに事欠いてそれだけを取り上げるなよ。
あれはちょっとぶつかってだな…」

「…うるさいっ」
直樹の声が鋭く響き渡った。
一瞬にして部屋の中は静まった。

「ほらみろ、あいつの機嫌を損ねると容赦ないんだから」
誰に言うでもなく啓太がぼやいた。

「はいはい、お役目お役目」
首をすくめておもとが場をとりなした。

「佐賀藩の江戸家老って、嫌らしくて最低なやつよ」
お真里が思い出したように身震いした。

「佐賀藩はとかく熱心だけど、なんと言っても今は長州と薩摩が必死だしね。間に挟まれていろいろ苦労してるんじゃないかな。地理的にも微妙だし」
お粗末な略図を広げて西垣東馬が説明する。

「町の噂じゃ、鉄砲でも買い付けて、戦争でも始める気かと」
お智がにっこり笑ってお茶をすすった。

「して、お上の判断は?」

皆が一斉に直樹を見た。

「佐賀藩江戸家老、竹内峰次之介ほうじのすけを闇に葬れ」

直樹の声が響いた。
その声に反応するように行灯の火が揺れた。

「へー、思い切ったね」
「西垣様、ふざけてばかりいると足元をすくわれますわよ」
「おもと、それはそれで運の尽きってことで。もっとも、そんなへまはしたことないけどね」
「これが旗本の三男とは」
呆れたようにおもとがため息をつくと、お真里が笑う。
「どこでも次男三男はこんなものよ」
「俺は庶民で良かったよ」
欠伸をしながら退屈そうに啓太が言った。
「その庶民さまは、明日の手筈で早く寝たいんだけどなー」
「何でこういう相談するのにいつも夜なのかしらね。
昼間に茶屋で堂々と…」
「ちょっと待った、お智。あんたのところの茶屋には行かないわよ」
「あら、おもとちゃん、どうして?」
「男どもがうじゃうじゃとして、密談向きじゃないのよ」
「騒がしければ話しても聞こえないわよ」
「密談したい内容も聞こえないじゃないの」
「まあ、残念」
「それに悪人が活躍するのも夜よねー」
お真里が同じように欠伸をする。
「それは暗いほうが何かと都合がいいからでしょ。
ばっさりやっちゃったあとも暗闇に紛れて逃げおおせるわけだし。
あたしたちだって似たようなものじゃない」
おもとはそう言ってから、冷たい直樹の視線を感じて、とってつけたようにほほほと笑った。

「まあ、どうせ江戸家老一人でふらふらするわけもないし、それなりの護衛がつくとおもって間違いないでしょ。あの屋敷で護衛につくと言ったら、腕の確かな者は二人がせいぜい。
あとは何人いようとも変わりがないでしょうよ」
お真里の言葉に皆がうなずく。

「どちらにしても」
お茶をすすりながら、お智が平然と言った。
「わざわざ女を勾引かどわかして脅して強請るなんて、ろくなやつじゃないでしょうし、一思いにすっぱりとやるのがよろしいんじゃなくて?」
「すっぱりとって…本当にあんたって見た目と違って怖いんだから」
おもとがため息をついた。

「そのお客人は上手く大泉のご隠居のところに届けられるんだろうな」
啓太がお猪口の酒を飲み干して言った。
「…さあ、あいつのやることだから」
素っ気無く直樹が答える。
「おいおい、本当に大丈夫なんだろうな、お琴ちゃんで」
思わず啓太がそう突っ込むと、直樹はすっと立ち上がってじろりと睨んだ。
「お琴が待っているので先に失礼する」
そう言って他の者が声をかける間もなく部屋を出て行った。

後に残った面々は、それぞれ啓太を見る。
「おやおや、お琴ちゃんの名は出しちゃまずいだろ」
西垣が茶化すと、
「そうよ、馬っ鹿ねぇ」
とおもとが同意した。
「ああ、明日も先生の所に行かなきゃならないってのに、よくも機嫌を損ねてくれたわね」
恨みがましくお真里が言うと、
「でも、これできっと完全無欠の計画を施しそうですわね」
とお智がふふふと笑った。
夜はじりじりと更けていく。
薄暗い行灯は、それぞれ別の顔を照らし出していたのだった。

(2012/09/02)