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「先生、こんな感じでいいのかしら」
「…大丈夫、似合ってるから」
佐賀屋から贈られた着物を身につけ、きれいに髪も結い直してもらうと、ようやく若妻らしく落ち着いた雰囲気になったお琴は、それでも自分の装いに自信がないのか、先ほどからそんな会話を繰り返している。
「あ、どうしよう。もう駕籠屋さんが来ちゃうかも」
そう言ってばたばたと奥へと駆けていく。
「お栗ちゃん、用意はできた?」
奥の部屋で着替えを手伝った後、なるべく顔を晒さなくてもよいようにと、あれこれ面かぶりを工夫していた。
黄金色の髪がちらりと見えても不都合なので、髪結いのお真里がどこからか手に入れたかもじ(人毛で作ったつけ毛)を譲り受け、ちょっと見にはわからないように整えることも一苦労だった。
駕籠には直樹とお琴が乗ると見せかけて、片方にはお栗が乗るのだから、大泉屋のご隠居が招待した館に着くまで気は抜けないのである。
お琴も場所は正確には知らず、ご隠居が差し向けた駕籠に揺られるだけだ。
「おもろいです、これ」
つけ毛を気に入ったのか、着物を気に入ったのか、お琴の緊張をよそにお栗は思ったよりはしゃいでいた。
「お栗ちゃん、くれぐれも道中はしゃべっちゃだめよ」
「わかってまんがな」
「えげれすの人じゃなければ、ずっといてもらっても構わないんだけど、何しろここは江戸だから。長崎に戻れば少しは自由になるでしょうし、仕方がないわよね」
「しかたがないです」
「でも、よくこんな異国にお父様と二人でいらっしゃったわねぇ」
「行く話があったから、来たまでです。
母いうひともあちこちの国行ってます。
でも日本はあちこちいけないのが残念やわー」
「ごめん」
表で声がした。
「あ、駕籠屋さんね、きっと」
お琴はまた慌てて表へと戻っていく。
表戸には、確かに駕籠屋が来たようだったが、もう一人意外な人物も来ていた。
「渡辺様」
「お琴ちゃん、こんにちは。そうやってると若妻らしくていいね」
「あら、いつもは若妻らしくないって事ですか」
「いや、あはは、いつも可愛らしい感じだから」
「え、そうですか」
お琴が頬を染めて喜んだところで奥からここぞとばかりに直樹が出てきた。
「…意外に口が上手いな」
渡辺は直樹の言葉に苦笑すると、あえて違う話題を振ることにした。
「一緒に行くことにしたよ」
渡辺の言葉に直樹は眉を上げて言った。
「今日は非番ですか」
「そうなんだ。改めて大泉屋に招待されたしね」
「…そうか」
多くは言葉にせず、直樹はまだ落ち着かずに家の中を歩き回っているお琴を見た。
「…頼みます」
「もちろん」
渡辺は大きくうなずいた。
* * *
庭では朝から蝉がせわしく鳴いていた。
残暑はまだ厳しく、蝉の鳴き声も衰えることを知らないようだ。
直樹は先ほどお琴が立っていた縁側に立ち、駕籠に乗り込む姿を思い出していた。
「それじゃあ、行ってきますね。
…後で先生もいらっしゃるのよね?」
そう言ったお琴は少しだけ不安そうな顔をした。
直樹がそのままついていけば話は早いだろう。
しかし、それでは別の計画が進まないのだ。
「用事が済んだら行くよ」
そう言った直樹の言葉を信じたのか、お琴はこくりとうなずいた。
大泉屋が寄越した駕籠屋には表から庭に回ってもらい、お琴とお栗が乗っていった。
駕籠屋が事情を飲み込んでいるのか、直樹の代わりに姿を偽ったお栗が乗ることも承知だった。余分な言葉も交わさなかったし、お栗が誰であるとかも聞かなかった。
もちろん駕籠屋がちらりと見ただけでは、お栗が異人だとはわからない。
渡辺はどうやら最初から
庭から駕籠を見送った直樹は、駕籠を密かに見守る影に黙ってうなずいた。
真昼間から同心渡辺が付き添う大泉屋の駕籠を堂々と襲うとは思えない。
思えないが、万が一という事もある。
それにお栗の警護はそれだけで終わらないのだ。
たとえこちらの事が終わったとしても、港からはるか西国の長崎まで送り届けなければならない。
投げ文をした者は、ここにお栗がいたことを知っていた。
夜半に強引に押し入ることも考えられたが、さすがにそこまではしなかったようだ。やはり秘密裏に事を運びたいらしい。
厄介だな、と直樹は一人ごちた。
わざわざ危険を冒してまで江戸に異人を連れてきたその意味はいったい何なのか。
ただお栗の父を脅すためだけとは思えなかったが、逆に長崎では監禁するのも難しいのかもしれないと直樹は思い直した。
* * *
何で俺が、と思わないでもなかった。
できれば地所を離れたくなかったが、一番身軽であちこちをうろうろしてもさほど咎められないとなれば、この役目は啓太しかありえなかった。
正直、一時期はあの医者の妻であるお琴に懸想していたこともあった。
それは熱病のように浮かされて、今でも時々ふわふわと甦る。
一見妻をおざなりにしているように見える直樹とそれでも健気に尽くすお琴をどうにかしてやりたいと思った。
よそ者が口を出すべきじゃないと忠告もされたが、そのときの自分は不思議なほど耳に入らなかった。
結局、あの医者の痛い逆襲にあったし、それなのにお琴は全く気づかずで、散々な目に合ったとも言える。
不義密通とでもなればとんでもないことなので、それでよかったのだと今では思う。
冷静になってみれば、あれはあれでぴったりと合った夫婦なのだとわかる。
それでもあの医者にはわかっているのだろう。
あのときの啓太の心持が、決して戯れでありえなかったことに。
そして、今でもなお警戒している。
だからこそ、あのお琴と客人を守るのにこれほどふさわしい人材もいないのだと。
じりじりと日は昇り、乾ききった道は足元から砂ぼこりを舞い上げる。
先を行く駕籠のそばには同心である渡辺が付いていたので、さほど心配する必要はないだろうと思われた。
ただ、この渡辺がどれほどの腕前か、見たことがないのでわからなかった。
もしかしたら啓太の尾行にも気づいているかもしれない。
気づかれないように気配は殺しているものの、同心という者は自分を注視している者がいれば気づくものだ。いや、そうでなければ同心は勤まらないだろうと啓太は思っている。
普段は大工をしている啓太は、肩に大工道具を担いでいる。
ここで半鐘でも鳴れば、火事場に駆けつけるめ組の火消しでもあった。
今日ばかりは鳴らないでくれよと思いながら大泉屋のご隠居宅までの道を歩き続ける。
直樹に指示されるまま、この役を引き受けた自分を嘆きながら。
いつのまにか、人通りが絶えた。
嫌な感じだ、と啓太は辺りを見回した。
先ほどまで賑わっていた通りを過ぎ、一つ角を曲がったところだった。
もちろん落ち着いたたたずまいを見せる邸宅がちらほら見え始め、大泉屋のご隠居宅もこの辺りにあるのだろうと思われた。
それが大泉屋が持っているご隠居宅のうちの一つに過ぎないことはわかっている。
隠居宅というのは静かな場所を選ぶもので、啓太は最初から少し気に入らなかった。
いっそあのまま医者の家にいたほうが良かったんじゃないかと思っていた。
静か過ぎて、誰かが浚われてもわからないんじゃないかと。
静かだから騒ぎがよく聞こえるというのはただの戯言だ。
実際は注意しないとちょっとした音など耳に入らない。
もう一つ角を曲がると、潮の匂いがした。
海が近いのだと気づいたが、客人を船に乗せる予定ならば、それもありだろうと思ったくらいで、前の駕籠を注視し続けていた。
そのときだった。
「な、なんでいっ」
「なにやつ」
「な、なに?」
駕籠の前に飛び込んできたやつらがいた。
それは文字通り塀の上から飛び降りて、突然道をふさいだのだ。
道には人影がないと思って油断した啓太の落ち度だ。
思わず舌打ちをして走り出した。
もしもこんなところで襲われて何かあったら、それこそあの医者に殺されかねないと本気で心配する羽目になる。
面をかぶったやつらはものも言わずに刀を抜いた。
駕籠は塀に沿って置かれたが、駕籠の中から聞こえたのは、最初のお琴の戸惑いの声だけで、後は押し黙っている。
渡辺が駕籠屋を脇にどかせると、黙って同じく刀を抜くのが見えた。
間に合えと念じながら啓太は小刀を現れたやつらに向かって投げた。
うっと声がして一人が倒れ、もう一人は気配を察したのか刀ですかさず跳ね返された。
しかし、その隙に渡辺がもう一人を刀で払った。
角から物売りの男が現れたのを確認したのか、すかさず小刀で傷を負ったやつを抱えてその場から逃げた。
啓太はどっと力が抜けて、冷や汗を拭った。
本当に襲ってくるとは、と思いながら放り出した大事な道具を取りに戻った。
このまま帰りたい気分だったが、まだご隠居宅に着いたわけではないのでどうしたものかとのろのろと大工道具を担ぎ上げた。
「…助かったよ」
声をかけられて振り向くと、わざわざ駕籠を待たせた渡辺が立っていた。
差し出されたのは、先ほど啓太が投げた小刀だった。
仕事で使う振りして持っているもので、たいした代物ではないが、やはりあるのとないのとでは気分が違う。
「い、いや、咄嗟のことで…」
驚いてそう答えると、渡辺は何か訳知り顔でうなずいてまた駕籠のほうへ戻っていった。
やはり渡辺は知っているのだろうと思ったが、啓太もそのまま知らない振りで歩き続けたのだった。
(2012/09/08)