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無事に大泉屋のご隠居宅に着いたとき、お琴は心底ほっとした。
途中、心配していた通り賊のような者に襲われかかったが、あっという間に同心渡辺が追い払ってくれた(とお琴は思っている)。
門の中に招き入れられ、駕籠を降ろされていざ下りる段階になると、お琴の膝ががくがくと震えているのがわかった。
立ち上がるのに苦労していると、すかさず渡辺が手を取った。
「これくらいは許されるよね」
そう言ってお琴を立ち上がらせて渡辺が笑った。
もう一つの駕籠から、さほど怖がった様子もなく楽しげにお栗は下りてきた。
「お栗ちゃん、大丈夫だった?」
心配そうに聞いたお琴に、お栗はかぶった面の中から弾んだ声で答えた。
「こううんしました!」
「…こううん?」
「興奮じゃない?」
渡辺の言葉添えにお琴は「ああ!」とうなずいた。
「大丈夫そうだね」
渡辺はさも面白げに笑った。
「お初にお目にかかります、お嬢さん」
そう言うと案内にでてきた女中に従って屋敷の中に入るように促した。
「渡辺様って…意外に女の子のつぼを心得てる」
「そう?」
「ええ。西垣様よりずっと」
「あははは。姉がうるさいからかな」
「お姉さまですか」
納得したようにお琴はうなずいた。
二人も促されて屋敷の中に入ることにした。
お琴はご隠居について呉服問屋の先代の主だった、ということしか詳しいことは知らない。
直樹との結婚前には、ご隠居の孫娘との縁談の話もあったりしたのだが、それはいろいろあって双方納得の上でやめになった経緯もある。
なので、お琴としてはちょっぴり気にはなる今回の訪問だったわけだが、お栗ちゃんのこともあり、思い切って出かけてきたのだ。
何せ今回の訪問にはお琴だけでなく、巻き込む羽目になった佐賀屋の義父母も呼ばれているのだから、お琴一人で悩んでいる場合ではないのだ。
それにしても大泉屋のご隠居様というのは、なかなかにして豪傑な人物であるらしい、と招待された隠居宅を見ても思うのだった。
あくまで控えめに隠居宅らしく装った建物は、実は上等な木材をふんだんに使った素晴らしいものであり、武家でもこれほど見事な建具を使っていないだろうと思われたものだ。
落ち着いたのは、お琴たちより少しだけ遅れて着いた見慣れた義父母の顔を見たときだった。
お栗はお国の言葉で小さく感嘆の声を上げていた。
何をしゃべっているのかよくわからなかったが、その感激した様子から察しただけだ。
「まあ、お栗ちゃんというの。初めまして、私は小間物問屋のおかみのお紀と申します。この度は長旅の末にとんだことに巻き込まれて…」
「のー!たのしかったでぇす」
「日本という国は、それほどひどいところでもないのよ。ただでさえあんな島に押し込められてる異人さんたちに言うことじゃあないけれど」
「のーのーのー!おこともせんせいもやさしかったです」
「まあ、そう。早く無事に返してあげたいわねぇ」
「…わたし、もっと日本いたいです。でも、お国がのーなので、しかたないです」
「のーってなぁに?」
お琴はお栗が先ほどから口にするお国の言葉が気になって聞いてみた。
「のーは、あかんです」
「…あかんです…?」
ますますわからずに首を傾げたお琴に、笑いながら佐賀屋の主が答えた。
「上方の言葉で駄目ということじゃなかったかな」
「そうですか。それをのー、ね」
ふむふむとうなずいたお琴は、「失礼いたします」と声がして障子戸がすっと開いたのを見て、危うく湯飲みを落とすところだった。
そこには、稀に見る美人がいたからだ。
「皆様方、よくおいでくださりました。大泉屋
本日は皆様のお世話をさせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
この暑いさなか、涼やかな声でそう言ったのは、直樹のお見合い相手でもあった沙穂だった。
「こ、こ、こ、こちらこそ」
上ずる声を抑えて、お琴はようやくそれだけ言った。
他の面々もそれぞれ言葉を返す。
渡辺などは美人を前にしてさすがにうれしそうだ。
一通り挨拶を済ませた後、沙穂はお琴を見た。
「あ、お琴さんでいらっしゃいますね」
思わず「はいっ」と無駄に大声で返事をしてしまった。
「このたびは祖父の我が侭にお付き合いくださり、ありがとうございます。ぜひお琴さんにお会いしたいと申しておりましたもので。
私もお会いできてうれしゅうございます」
「え、は、はあ、あの、お、お招きくださりありがとうございます」
まさに先制された気分でひたすら頭を下げる。
頭を下げながら、こんなやつと直樹が夫婦になったのかと蔑まれたらどうしようと冷や汗をかいていた。
「直樹先生の奥様は大変明るくてお優しい方だと私どものほうでも評判でございましたので」
「え、ええっ、そんな」
しかし、さすがにそんな意地悪な思考はお持ちでないようで、そんなふうに思ったお琴自身が恥ずかしい思いだった。
密かに恥じ入るお琴の横で沙穂はにっこりと微笑んだ。
やがて再び障子戸が開き、この邸宅の主であるご隠居がようやくお出ましになった。
「お待たせいたしました。源兵衛でございます」
一堂に向かって丁寧にお辞儀をしてから、前に進み出た。
ひげを蓄えた立派な体格の元気そうな老人だった。
お琴はどこかで見たような、と思いつつ、同じように挨拶を交わして頭を下げると、大泉屋のご隠居は「まあ、皆様頭をお上げくださいませ」と慌てた。
特に渡辺を認めると、更に「これはこれは渡辺様、このたびは不躾なお誘いにもかかわらずこのような鄙びたところにようおいでくださりました」と頭を下げた。
「いえ、こちらこそこんな若輩者にそんな挨拶はご無用です」
「ふむ、渡辺様がどこぞの商家の若旦那であれば、と実に惜しい。
いや、だからこそ町方であって良かったと言うべきなのか」
「…おじい様」
「おおっと、沙穂にまた怒られますな」
そう言ってご隠居は笑った。
「では、早速ですが、ほんの些細なものですがご用意いたしましたものをお運びいたしましょう」
沙穂はそう言って奥へ向かい、次々にお膳を並べ始めた。
女中はいるようだが、廊下まで運ばせ、直接部屋の中に入れるのは沙穂の役目であるらしかった。
恐らくお栗の素性をできるだけ知られないようにするための配慮らしかった。
お栗も黙って給仕が終わるの待っていた。
お琴は配膳された料理を見ながら、直樹はいつになったら来るのだろうと気になっていた。
日の高いうちに来られるといいのだけれど、と思ったが、素晴らしい料理の数々にその心配も実は長続きしなかったのだった。
* * *
髪結いのお真里は佐賀藩邸から怒りを抑えながら出てきた。
お真里が形ばかりに頭を下げて出て行くと、門番は少しだけ気の毒そうな顔をした。
元々佐賀藩邸はお真里の得意先ではない。
どちらかというと商家のお得意が多いし、男性よりも女性の髪を結うほうが多かった。
それをわざわざ評判を聞かせて佐賀藩邸に呼ばれるように仕向けたのは、直樹らの仕掛けだった。
助平心を持った佐賀藩江戸家老にとっては、またとない機会であったに違いない。
わざわざお真里を指定して呼び寄せた。
もちろん一度で終わってしまっては情報収集も心もとないので、それなりに愛想を振りまいて二度三度と呼ばれるようにしたのは、お真里の得意技だ。
しかし、さすがに好色な江戸家老竹内の手をあの手この手ですり抜けるのはなかなか手強かったと見え、今日の不機嫌顔になったようだ。
「いっそ出入り禁止を食らったほうがよほど良かったかもしれないわ」
茶屋に寄ってお智にそうこぼすと、お智は訪れる客にあふれんばかりの笑顔を見せながら言った。
「いっそのこと手が滑ったとか言ってちょん切ってしまえばよかったのに」
「…な、何を」
なんだかその笑顔の輝きが怖いとお真里は茶をすすりながら聞いた。
「もちろんあそこを」
聞くんじゃなかったとお真里は思った。
その笑顔の裏で口と思考が全く異なるお智が、実は一番怖いんじゃないかと思うお真里だった。
「…黙っていれば江戸でも評判の小町娘なのにねぇ」
お真里は次々とその笑顔に吸い寄せられるようにして茶屋に入ってくる男どもを見ながらそうつぶやいた。
「さあて、そろそろ来るかしらね」
お真里は外を見ながら再び茶をすする。
いつの間にか店の片隅には旗本三男、遊び人を自称する西垣も来ていた。
「評判の茶屋娘がいるというのはここか」
少しだけ厳しい顔をした若い侍が茶屋に顔をのぞかせて言った。
「あら、お出ましね」
お真里を認めた侍は、「髪結い、おぬしがおるという事は、ここで間違いなかろうな」と問うた。
「ええ、あのお智が今江戸で一番の評判茶屋娘ですわよ」
お真里はしれっとそう答え、お智を目で示した。
今日もあの好色江戸家老にあれこれと口説かれたお真里は、さももったいぶって茶屋娘の話をしたのだった。
来るか来ないか、仕掛けた自分ですら不安はあったが、こうして訪れたところを見ると、直樹の計画には抜かりがなさそうだった。それに加えて自分のお誘いも功を奏したと自負してもいた。
茶屋の表では、偉そうに駕籠から降りてきた恰幅のいいいかにも好色そうな男が佐賀藩江戸家老竹内だった。
表にたむろっていた職人衆などを蹴散らすようにして茶屋に入ってくると、お真里の隣の場所に陣取った。
「暑い中、わざわざ来てやったのだ。お智とやらをこちらへ寄越せ」
ふんぞり返って言う様は、あまり見目のいいものではない。
まさに侍の中でも権力を笠に着る嫌なやつと言えよう。
店主は頭を下げつつ「これはこれは佐賀藩のご家老様でいらっしゃいますね。お噂はかねがね…。まさに佐賀藩においてこの人ありと江戸の隅々まで聞き及んでおりますよ」と卒なく応対した。
もちろんその噂は好色で有名なのだが、そんなことは腹で思っていても誰も口にはしない。
お智はもちろんちょん切ってしまえと言ったその口で、「ようこそおいでくださいました」とまずは冷たい茶を供した。
どうせここの御代は踏み倒す気だろうとわかっていても、店主はお侍、しかも融通の利かなさそうなこういう輩には仕方なくへりくだるものだ。
「お茶は…まあまあだな」
そう言ってごくごくと残さず飲み干す。
「酒はないのか」
「まだ昼にございますれば」
お智が答えると、「まあ、仕方がないか」と一旦は諦めた。
「そのほうは、いつから勤めておる」
「七日にもなりません」
「ほう…。では、もっと実入りのよい仕事ならばどうだ」
ああ、ほら、きたきた、とお真里は素知らぬ振りで団子を頬張る。
既に江戸家老竹内の目はお智に釘付けで、お真里がいることもすっかり忘れている。
もちろんそのほうがありがたい。
側付きの者たちは、中に一人、表に一人。
一応油断なく見張っているようだが、人の多い茶屋でのこと、どうしてもそこそこ死角はできる。
今日の側付きは、どう見てもいつも付いている目つきの鋭い輩ではなかった。
これは、とお真里は啓太を案じた。
恐らくあの使い手は、お栗とお琴のほうに出張っているらしい。
案じても今はどうしようもないので、お真里は自分の役割に専念することにした。
ちらりと奥でのらりくらりとしている西垣に目をやる。
お智がすれ違いざまに江戸家老竹内に何事かささやく。
厠はどこかとおもむろに江戸家老竹内が立ち上がる。
付いていこうとする側付きの者を目で制すると、お智の尻を追いかけるようにして茶屋の奥へと進んでいく。
側付きはそれでも途中まで追いかけていこうとしたが、狭い店の中でのこと、すれ違う客が多くて追いつけない。
あっという間に江戸家老竹内は奥のほうへと行ってしまった。
(2012/09/15)