大江戸蝉時雨




「よっと」
西垣が佐賀藩江戸家老竹内の身体を重そうに支える。
「あー、どうせ担ぐなら可愛い女の子が良かったなー」
「文句言わずにさっさと運んでくださいな」
おもとに促されて、西垣は再び担ぎ直して小舟に乗せた。
店の裏を流れる水路を使って運び出そうというのだ。
「だいたいおもとだって腕力はそれなりにあるんだろうに」
「あら、今の私はか弱い女でございますから」
「…あー、はいはい」
それでもなおぶつくさ言いながら西垣はようやく一仕事を終えた。
竹内は、直樹の用意した薬を一服盛られたうえに、西垣の当身で盛大ないびきをかいて眠っている。
江戸では水路を使って物も人も行き交うが、さすがに真昼間から大っぴらに藩屋敷の高官を運ぶのは憚られる。
おもとが見送る中、さりげなくお智が付き添い、いかにも訳ありふうな感じを装って舟は進んでいく。
舟は頬被りをした西垣が操った。
「西垣様、舟の操縦もお上手でいらっしゃるんですね」
「そうそう、女の子の操縦はもっと上手いけどね。
兄貴たちと違っていろいろできるんだよ。
何たって将来はどこへなりとも行って参れの三男坊だからね」
「まあ、お父様にそんなことを?」
「まあね。でも本当に好き勝手なことをしたら、これまた咎められるんだよね」
「仕方がありませんわね、お家の恥と言うものもございますし」

川の流れは緩やかで、まだまだ淀んだ感じもする裏堀を西垣は卒なく櫂を操っている。

「本当に、将来はどうなさるおつもりで」
「そうだなぁ…。
どこかの入り婿という柄じゃないんだよね。堅苦しいのも苦手でさ、今更城勤めもなぁ」
「御役をもらいたくて右往左往していらっしゃる方々も多いというのに。
この御方だって、そういう方々からの実入りで私腹を肥やしていらっしゃるとか。
それをあなた様という方は、なまじお家の内所が豊かなばっかりに」
「ははは、そうだね。でも、たとえ貧乏だとしても、才覚次第で何とでもなるよ。
侍なんていつやめたっていいんだから。
別に侍にこだわっているわけじゃないしね。商売始めたっていいかなとも思ってるし。
…医者もいいかもね」
「直樹先生のように?」
「…あいつも、豪商の嫡男なんだから、素直に家を継げば楽なのに」
「それでも、あの方の才能はきっと何かを求めてもがき続けたのでしょうよ」
「いいじゃないか、お琴ちゃんをもらったんだから」
「ふふっ、うらやましいのですね、西垣様」
「あいつにしては稀に見る快挙だぞ、あれは」

少し乱暴に櫂を突き立てると、ちゃぽんと川面に音を立てた。

「医者の嫁にしては不出来だが、あいつの無愛想さを補って余りあるくらいだ」
「あの無愛想さが良いと評判ですのに」
「それがしも仏頂面になったらもてるかな」
「まあっ。西垣様は愛想のよさが売りではございませんか」
「そうかな」
「そうでございますわよ。その御身から醸し出すお気楽な感じと舌先三寸だけで世の中を渡っていけそうな軽薄な感じがよろしいんじゃありませんか」
「…何でかな。褒められた気がしないんだけど」
「あ、ほら、大川に」
「おおっと」

淀んだ掘割から、目的の場所へと向かう。
大川に入り、行き交う舟の数も多くなったが、筵をかぶせられた竹内の身体が見えることはないだろう。
それに加えてお智が涼しげな顔をしてお使いにでも行くかのように乗っているのだから。

「…よく眠っていますわね。直樹先生のお薬、よく効きますこと」

筵の下で軽いいびきをかいているのにちらりと目をやって、お智は微笑んだ。

「あいつは、何でこういうことしてるかな」

西垣は川面が煌くのを目を細めながら見ていた。

「…さあ。直樹先生にも何かご事情がおありなんでしょう。
それよりも、お琴さんに隠していらっしゃるのが気になりますわね」
「そりゃ知られたくないだろうよ」
「お知りになったら、どう思われるかと」
「…それこそ、一番恐れてることだろうねぇ」
「誰も彼も事情はありますわよ。
西垣様だって、恵まれたお方でいらっしゃいますのに、何故こんなことを」
「…それがしはただ、暇つぶし、かな」
「万が一の時はお縄になることすらもご承知のうえで?」

それにはただ笑って答えず、一軒の家の横に舟をつけた。

 * * *

大泉屋のご隠居宅では、和やかに食事が進んでいた。
開け放った障子戸から吹く潮風がお琴に新鮮さを感じさせ、見事な庭に心を奪われていた。

「今夜、懇意の千石船が長崎に向かいます」

お琴ははっとしてお栗を見た。
ほんの数日しか一緒にいなかったが、さすがに今夜と言われると別れがたいものを感じる。
お栗はお琴の視線を感じて「だいじょーぶですよ」と微笑んだ。

「お栗さんは、我が家の者がお送りいたします」
「…何から何まで」

そう言って佐賀屋の主は頭を下げた。
慌ててお琴も一緒に頭を下げた。

「直樹さんもよく私を頼ってくれました」

そう言ってご隠居はひげを撫でた。
ただ商売人としての繋がりやお見合いをしただけの仲であることを考えれば、何もかも大泉屋に頼むのは過分な願いだ。
実際にはそれ以上の繋がりがあることを佐賀屋の主は感じ取っていたが、それはあえて口にせず、その場では言わなかった。この場に直樹がいないことも関係しているのかもしれないと思っていたからだ。
何にしても、当代一の呉服問屋で、千代田の城に出入りも許された老舗であり、主およびご隠居が城内の重要な人物と繋がっていても何ら不思議はない。それくらいの人物ではあった。

「これほどまでに良くして頂いて、肝心の直樹さんは」

佐賀屋のおかみがお琴を見た。

「…さあ、用事が済めばこちらへ参るとのことですが、何の用事かまでは知らされておりません。申し訳ございません」

お琴が頭を下げると、おかみは慌てて言った。

「いいのよ、お琴ちゃんが悪いんじゃないから」
「そうだよ。
お紀、直樹はきっとやむを得ない用事で遅れているのだろう。それこそ急病が出たら時間がかかるだろう」
「そうですね。ええ、きっとそうですとも」
お紀の言葉に沙穂が気をとりなすように言った。
「直樹さんの分はいつでもご用意できますから、皆様気になさらずにお召し上がりくださいませ。今日はとっておきの西瓜もご用意いたしておりますよ」
「やあ、招いていただいて得したなぁ」
眼鏡の奥の目を細めながら渡辺が和ませるように言った。
日は少しずつ傾いていたが、庭の奥から聞こえる蝉の鳴き声はまだまだ止みそうもなかった。

 * * *

船宿の一階で、佐賀藩江戸家老竹内は転がされていた。
営業されていないのか、他に客の様子もなく静かだった。
その薄暗闇の中に、衣擦れの音だけさせて動く人物がいた。
かろうじて外からの日が差し込むので、目鼻立ちくらいは判別できるといったところだ。
それでもその顔立ちは驚くほど整っているのがわかる。
刀も脇差も全て取り除かれた風体で、竹内は目覚めた。
まだ少し痺れが残る身体を動かしてみると、どこも縛られていないことに気づいた。
すれ違いざまにどこかの浪人風情に当身を食らわされた気もしたが、逢引でもするような場所に寝ていたことを考えると、茶屋娘がささやいた提案も嘘ではなかったらしいと周囲を見渡した。

「…あら、お目覚めですか」

確かに茶屋娘の声がした。
板間の傍に座っていた。
頭を振って起き上がろうとしたが、上手くいかない。

「そのほう、そこにいたのか。起こしてくれ」
「いえ、永遠に眠っていただいたほうが」
「何を言っておる」

よく見れば、茶屋娘の横に男がいるようだった。

「…美人局か。
そのほうら、わしを誰だと思っておる」
「…幾人もの娘を手篭めにして、更に都合の悪い者は切り捨てる小悪人」
茶屋娘の朗らかな声が響いた。
顔は笑っているし、声も朗らかなのに、その纏う雰囲気は限りなく暗い。
「何を…」
「調べれば、山程出てきた」
冷たい男の声が響いた。
「娘たちはお金欲しさゆえだ」
竹内は言い捨てた。
「屋敷奉公を餌にして?」
茶屋娘は笑う。
笑い声はひっそりとした空気に吸い込まれるようだった。

「ご禁制の異国の娘を江戸に連れてきたな」
「そんなのは知らん」
「佐賀藩はこのところ急に鉄砲を買い集めているという話だが」
「噂に過ぎん」
「その交渉を卑怯な手を使って買い叩こうとしているとか」
「国元の話などわしには関係ない」
「江戸藩邸では、家老の竹内に逆らうと死が待っていると」
「藩を乱すものには容赦しないから、そういう話にもなるのだろう」
「ほう、あくまで関係ない、と」
「そうだ。関係ないことでこのわしを愚弄するか」

そう言い切った竹内だったが、目の前で息を吐いた男に目を見張った。

「お上が、全てを把握していると言ったら?」
「…公儀か」
「沙汰が下って御家取り潰しがいいか、後継の者に譲ってひっそりと逝くがいいか」
「そこなる卑しい者が幕府の役人と面識があるはずなかろう」
「直接下されたなら、おまえの命はとうにない。
密かに沙汰を告げられるは、佐賀藩に対する温情のゆえだとわからないか」
「…万が一、城内の誰かからの情報だとしても、今ここで約定はできない。
わし一人で決められるものではないからな」
「心配しなくとも、国元は承知する。
そもそも異国人を長崎から連れ出したことは、国元では知らぬことゆえ、全て江戸家老竹内の独断とご乱心ということで片が付く」
竹内の顔色が変わった。
「そ、そんなことが許されるはずがなかろう」
「では、やはり御取り潰しか」
「それは」
「主家が御取り潰しでは、大勢の者が困ろうな」
「おまえらは…何者だ」

茶屋娘は微笑んだ。
「説明するだけ無駄です」
もとより男のほうは説明する気も待つつもりもないらしく、「返答は」と迫った。
「いずれ家人がここを見つけるだろう」
「だから?」
その答えに初めて竹内は震えた。
ようやく、自分の生命の危機を悟った。
「問答無用で斬りつけられた者のことを思えば、これほどの温情もあるまい」
暗い中、奥にもう一人の男がいたのを知って、目を凝らした。
「説明くらいしてやればいいのに」
そこから響いた声は、諭すような響きがあった。
「た、助けてくれ」
一番くみしやすそうだったので、声音を変えて訴えた。
「助けてくれたら、金をやる」
「…残念ながら、それほど金には困ってないんだ」
奥から退屈そうに出てきた男は、二本差しだった。
「御役が欲しいなら、口を利いてやろう」
侍と見えた男は、竹内の顔を覗き込んで言い放った。
「それこそいらないね。お上から依頼されたことをやってる者に口利きなんて馬鹿げてる」
竹内は顔色をさっと赤くして、動かない身体を何とかして動かそうともがいた。
「…もういいよね」
侍は刀に手をかけた。
「いや、予定通りで行こう」
「やけにこだわるね」
「刀の錆にするほどでもないだろう」
「まあ、そうは言うけどね。ひと思いにやったほうがすっきりするのに」
残念そうに侍はつぶやいたが、そこで徳利を取り出して竹内に勧めた。
「酒なんだけど、飲む?」
「…いらん」
「そう?少しでも気を紛らわせたほうがいいんじゃないかと思って。
ほら、飲ませてあげるからさ」
そう言って竹内の口に徳利をあてがう。
「あ、上品だからお猪口がないと駄目だとか」
口ではそう言ったが、お構いなしに竹内の口に酒を注ぐ。
思わず竹内も飲み込んでしまった。
かなり上等な酒らしく、口から少々零れたものの、その味わいはなかなかだった。
腹の底に酒が染み渡った気がした。

(2012/09/21)