大江戸蝉時雨




話が弾み八つ時(午後三時)を過ぎる頃に、とっておきと大泉屋のご隠居の孫娘沙穂が言っていた通りの西瓜が供された。
皆がそれぞれ舌鼓をうっていると、ようやく直樹が現れた。
挨拶を済ませて用意された席に移動する。

「あら、用事はもういいの」

お紀がそう聞くと、「はい、大方は」と短く答えた。
お琴はどことなく疲れた様子の直樹が気になり、隣に来るとそっと尋ねた。
「…大変なお仕事だったの?すごく疲れてるみたい」
「…ああ、まあね」
お琴にだけ微笑みかけたところに声がかかった。
「何か支障が?」
あくまで和やかな雰囲気を保ったまま、直樹を真っ直ぐに見つめた渡辺だった。
「…いや」
そう答え「町方を煩わせるようなことは何も」と付け足した。
「そう、ならいいんだ」
あっさりと直樹にそう言って、「本当においしい西瓜ですね」と沙穂に言った。
お琴は少しだけその様子を眺めていたが、ご隠居がじっと見ていることに気づくと慌てて西瓜を頬張った。
時々、ひどく疲れた様子を見せることがある直樹に、お琴はどうしてあげたらいいのかと思っていた。
そういう時は、気づかない振りをして、美味しいお茶を入れるだとか、直樹があまり好きではないと言っているのを無視してほんの少し甘い物を差し入れたりもする。
ただそれだけしかできず、話を聞くのも躊躇っている。

「よろしければ遅い昼食を」
そう言った沙穂だったが、直樹は周りを見渡して「では、西瓜だけいただきます」と答えた。
「先生、お腹空いていらっしゃらないの?」
お琴はこっそり聞いたが、直樹は「出掛けに西垣様とお会いしたんだ。付き合えと言うものだから」と少しだけ眉根を寄せて答えた。
「はあ、西垣様、ねぇ」
お琴はあの軽そうな西垣と直樹が一緒にいるところを想像したが、あまり上手くいかなかった。
直樹の前に冷やされた西瓜が出てきて、皆と同じように頬張り始めると、お琴はとりあえずその話題はそれ以上出さなかった。

それから、直樹が来たことによって新たな話題ができ、直樹にしてはよく話をしたほうだとお琴は思った。
そのそばで、お栗が窓の外を熱心に見つめていた。
「お栗ちゃん、何か珍しい物でも?」
「いえ、日本は、うつくしい…ですね」
お栗がお琴を見て言った。
「そう?」
「ええ。きれいで、とても…えーと、おだやか?
花も木も。えげれすもきれいです。でも、日本はとくべつなきがします。
…あのおとは、なんというものですか」
お栗は庭木を指差した。
じーじーという音にかなかなかなと音が混じる。
「…蝉のこと?」
「せみ?」
「そうよ。聞いたことない?虫なの」
「…これほど朝から夜までなくのきいたことありません。
あさはうるさいとおもいました。いまは…すこしだけさみしいなきごえです」
お栗がどことなくしんみりとした口調で言った。
「ああ、あれは、ひぐらしね。
日が傾いてくるとまた鳴き出すの。あれが鳴き出すと、もうじき日が暮れるっていうことよ。そりゃ、夏の日は長いから、まだそんなふうに思えないかもしれないけれど」
「そうですか。たくさんないていると、雨のようです」
お栗は目を閉じて音を聞いている。
「うん。蝉時雨って言うみたい。時雨って言うのは…その」
「降ったりやんだりする雨のことだ」
お琴の隣から直樹が口添えした。
「ああ、そう言えば、蝉の鳴き声も鳴いたりやんだりするわね」
自分で言っておきながら、お琴はそう感心した。
「せみしぐれ…」
目を閉じたまま、お栗がつぶやくように言った。
さすがに今はかもじ(つけ毛)を取っているので、その髪はやはり日に当たると黄金色に見える。
目を閉じて座っているその姿は、何かこの世のものではない気がして、お琴は黙って見ていた。
いつの間にか部屋にいる者全てが蝉の鳴き声に耳を傾けていた。
いつもはこれほど鳴き声に耳を傾けることなどない。
暑さの象徴でもあり、鳴き声が聞こえるだけで暑いと感じてしまうくらいだ。
いつの間にか鳴き始めて、涼しくなる頃にはいつの間にか聞こえなくなっている。
蝉の鳴き声というものはそういうものだ。
ただうるさいだけでなく、一人でいる夕暮れ時や、夕焼けに押されるようにして帰宅を急いだ子どもの頃、鳴き始めたひぐらしに心細い思いをしたことをお琴は覚えている。
この鳴き声に耳を澄ませたお栗は、本国に帰った後も思い出してくれるだろうかとお琴は思う。
暑くて流れた汗は、冷やされた西瓜と耳を傾けた蝉の鳴き声のせいか、いつの間にかひいていた。

夕暮れが迫り、佐賀屋の主夫婦は名残惜しそうに帰っていった。
お琴はせめてお栗が船に乗るまでと思っていたが、船が出るのは夜中だと聞いて諦めた。
沙穂は細々と気を配ってくれ、お琴はどうしてこの方と結婚しなかったのかとつい直樹を見た。
偶然、直樹が厠へ、お栗と渡辺は庭へ、沙穂も後片付けに追われている時分に部屋の中でご隠居と二人になった。

「直樹殿は、良いご亭主ですか」

突然そんなふうに話しかけられ、お琴は戸惑いながらも返事をした。

「ええ。あたしにはもったいないくらいです。
そりゃ先生は時々怒ったり、冗談でもひどいことを言ったりもするけれど、本当はずっと優しい方なんです。
怒る時だってあたしのためだったり、患者さんのためだったりするし、ひどいこと言うのもあたしにだけだって思うし…。うん、やっぱり優しいです」

ご隠居はひげを撫でながらうなずいた。

「以前の直樹殿は、そう、なんと言うか近寄りがたいものを感じておりました。
人が言われるような不機嫌な感じというものではなく、もっと深く暗いものを抱えているような」
「…それは…あたしも感じていました」
「そうですか、感じておりましたか」
「でも、それも先生の一部なんです。
きっとお医者さまになる決心をした理由だっていろいろあったんだと思いますし、あたしはそれも含めて先生を支えていこうと思ってます。
もし今先生がどんなひどい人だと言われても、あたしは離れません。先生が心底あたしを嫌いになったら、もちろん悲しいでしょうけれど、あたしは生涯嫌いになることはないと思うんです」

お琴はつい熱を込めて話した。
ご隠居は呆れることもなく、ただうなずく。

「失礼いたしますね」

部屋の外から声がかかった。

「駕籠の用意ができました」

そう言って沙穂が襖を開けた。
帰りは歩いていくから駕籠はいらないと言ったのだが、行きにお栗とお琴を乗せて来た以上、帰りもそのように駕籠に乗って帰るべきだと言われたのだ。
もちろん帰りも渡辺が付き添うと言う。
「渡辺様を歩かせてただの町人風情が駕籠に乗るだなんて…」
お琴は最後まで渋っていたが、帰りはお栗の代わりになんと沙穂が乗るという。
「沙穂さんが我が家へ?」
「ええ。お栗さんを守るためにはこれが良いのです」
「でも、もしかしたら帰りも襲われるかもしれないのに?」
「それなら、お琴さんだって同じじゃないですか」
「襲ってきた者は、ここにお栗ちゃんが残ることは承知かもしれませんよ」
「ええ。でも、どちらかはわからないので、敵は二方に分かれるしかありません」
「あ、あの、その、沙穂さんが我が家へとなると、ちょっと恥ずかしいかも」
「私はちょっと楽しみに思うておりましたが…あの、お嫌でしたか」
「い、いえ、散らかっておりまして…その、大泉屋さんと違ってうちは狭いですから」
「そんなこと。確かに大泉屋は大店と言われるくらいの店ではありますが、良い暮らしをさせていただいているのは私の力ではありませんし、むしろ何も知らない私のほうが恥ずかしゅうございます」
ここまで言われては、さすがのお琴も断る理由が見つからない。
少しだけ困ったように直樹を見た。
「せっかくだから、俺たちがどんな風に暮らしているか、見てもらえば」
直樹は少しだけ意地悪そうな顔をして言った。
「もう、先生ったら、あたしが普段散らかしてばかりだとおっしゃるから…。
わかりました。粗末なところですが、お越しくださいませ」
お琴は笑って沙穂に言った。
かくして、お琴と沙穂の二人は、駕籠に乗って夕暮れの町を直樹とお琴の家に向かうことになった。
お栗には、涙ながらに別れを告げた。
「ぱぱにあったら、日本、わるい人ばかりじゃないといいます」
「お栗ちゃん、元気でね。今度は悪い人に捕まっちゃ駄目よ」
「わかってまんがな」
お栗は胸をどんと叩いて笑った。
こうしてお琴は少し風変わりな異国人、お栗とは大泉屋ご隠居宅で別れたのだった。

 * * *

さて、お琴たちが大泉屋に着いた頃に遡る。
舟で堀を渡って連れ出された佐賀藩江戸家老竹内の御付きの者たちは、姿の見えなくなった主を捜していた。
慌てて人を掻き分けて茶屋の奥へ向かったが、厠には既に竹内はおらず、いるのは少し美形な女が一人いるだけだった。
茶屋娘の姿も見えず、咄嗟に御付きの者たちはまたもや主の悪い癖が出たと考えた。
以前にも同じように料理屋の娘に手を出して、御付きの者の知らないうちに話をまとめて逢引宿に連れ込んだことがあったからだ。
その美形の女にまずは尋ねた。
「そこの女、こちらに我が藩のご家老竹内様を見なかったか」
若侍にそう尋ねられ、美形の女は微笑んで静かに答えた。
「羽振りのよさそうなご家老然とした御方なら、先ほど可愛らしい娘御と裏から出て行きましたよ。ええ、そりゃもう、うれしそうに」
それを聞いた若侍は苦虫を噛み潰したような顔をして唸った。
またしても懸念した通りの出来事だった。
「それで、どちらへ行かれたか、見なかったか」
「ええと、そのお侍様に睨まれたので恐れ多くてそれ以上は」
ちっと舌打ちをして、もう一人の侍と一緒に店を裏から飛び出していった。
その姿を見送りながら、女は舌を出して「あら、まあ、大変ねぇ」とからかうようにつぶやいた。
「おもとちゃん、本当にいいのかい」
店の中ほどに戻ると、この暑い中団子を焼いている茶店の主が女に声をかけた。
「いいんですよ、今日はお店が休みですし、うちの旦那様とおかみさんにもお許しをもらっておりますから」
「そうかい、悪いねぇ」
「ええ。それよりも、勤めだしたばかりなのに、腹しぶりとはお智にも困ったものねぇ」
「具合が悪いんじゃ仕方がない。はいよっと、団子焼けたよ」
「とにかく今日はお任せくださいな」
「頼むよ、おもとちゃん」
主の声におもとはたすきをかけて団子とお茶を忙しそうに運ぶのだった。


大泉屋のご隠居宅の隣では、大工道具を手にした啓太が門をくぐっていた。
そこもかなりの邸宅ではあったが、やはり老夫婦の隠居所という感じだ。
門をくぐってすぐに家の中から気づいてでてきた女中が啓太に声をかけた。
「ああ、お隣の源兵衛様からご紹介の方でいらっしゃいますね」
「はい。大工の啓太と申します。どこぞの具合が悪いと」
「こちらでございます」
女中は啓太を奥へと案内していく。
隣のご隠居宅からは、一時賑やかな笑い声が響いてきた。
その声を珍しそうに女中は聞いたようだ。
「今日はどなたかお客人がお見えになっているようですね。ついぞ笑い声なぞ聞こえたことはございませぬ。きっとよほどの客人なのでしょうね」
女中の言葉に啓太も耳を澄ませた。
無事に隠居宅についてほっとしていたが、帰るまでに何事もなければよいがと思っていた。
さりげなく隣から様子を窺うことができるようにと配慮された今日の仕事だった。
つくづく手回しの良いやつだと、未だこちらに来ているはずのない直樹を啓太は思い浮かべたのだった。

(2012/09/27)