10
その状況が動いたのは、必然だった。
西垣は剣術指南としてとある藩の殿様直属家来の武家屋敷に出入りし、藩の行く末を担うべく捕らわれたままのなる坊の元へ通っていた。
ところが、これがまたきな臭い出来事に絡まれることになった。
なる坊を救うなら闇に紛れる方がよいのだろうが、何せなる坊は五歳。夜になれば普通に寝てしまう幼子だ。
動くならなる坊の協力が得やすい昼の方が断然動きやすかったりする。
しかし、敵方も同じことを考えていないと何故考えなかったのか。
いつものように剣術指南を終えて屋敷を立ち去ろうとした西垣が、ふらふらと通りを歩きながら今日はどこへしけこもうかと考えていた時、何やら油断のならない殺気を伴った武家人の恰好をした男にすれ違った。
西垣はすぐに道を曲がってしまったので、その殺気を伴った男とはすれ違うのはほんの一瞬だった。
多分向こうの男は前だけを真っ直ぐ見つめて歩いていたので、西垣など目に入っていなかったかもしれない。
しかし、西垣はその男が向かった先に何があるのか知っている。
その勘が外れてないといいなと思いながら、すかさず後を追った。
先ほどいた男は、既に屋敷の入口に詰めている門番を切り殺していた。
まずい、と西垣は開け放たれた門から走って入った。
誰も咎める者はいない。咎める者は既に全てきり殺されているからだ。
奥で悲鳴が聞こえた。
もちろんなる坊の身が案じられた。
間に合えよと念じつつ、西垣は走った。
なる坊がいそうな場所の見当はついているが、それよりも悲鳴の続く場所を先に追いかける。
まさかとは思うが、出会う者すべてに剣を振るっているのではないだろうかという危惧があった。
武家人以外の女衆にまで剣を振るっているとなると厄介だ。
悲鳴の続く場所を追って、ようやく追いついたのは、台所だった。
「何をしている」
血に濡れた剣を持ち、興奮した様子で立っている男の背に西垣は声をかけた。
西垣の声には答えない。
余計なことは何もしゃべらないつもりなのだろう。
背を切られた女衆が息も上がる中、「と、突然立ち入ってきたのです」と叫んだ。
この間に逃げてくれと願いつつ、西垣はこちらに向き直った男に剣を抜いた。
西垣は思った。
この男は先ほど感じたように厄介だ、と。
全てを切り捨てる覚悟でやってきている。
邪魔をするもの、ここに生きて存在するもののすべてを、だ。
もちろん本当の目的はなる坊なのだろうが、それも教えられているのかすら不明だ。
武家人の恰好をしているが、ところどころくたびれた様子の姿は、もしかしたら同じ武家でも浪人もどきの下士なのかもしれない、と。
この務めをいくらで請け負ったのか知らないが、一世一代の最後の務めなのかもしれない。
病気の親や妻子がいるのか、それとも破れかぶれの一人身なのか、そんな事情は知らないが、西垣はじりじりと迫る男と向き合いながら死すらも覚悟した。
西垣はいつ死んでもいいと実は思っている。
思ってはいるが、ここで男に切られるのは本望ではない。
女の上で腹上死が一番の望みだが、そんな情けないのはどうかと思うと言われてから少し考えを改めたくらいのものだ。
女に刺されて死ぬのがいいなとか思っていると言えば、いつか本当になるぞとあちこちで言われるくらいの男なのだ。
狭い台所でどれくらいの勝機があるのか知らないが、ここは勝たせてもらうと西垣は心でつぶやいた。
ここでやられてしまっては、剣術指南としてはものすごくみっともない。
知り合い全てに男に切られるなんてと言われるのは我慢ならないからだ。
やや常軌を逸した男が向かってきたときに西垣は剣で対峙しながら言った。
「残念だが、おまえの分の方が悪い」
この男も剣の腕前は悪くない。だからこそ暗殺者に選ばれたのだろう。
実戦で行けば、多分西垣の方が経験豊富だ。
もちろんやたら滅多に剣を振り回すわけではないが、以前お琴を救出するときにも剣を振るった。
むしろ武家人でないあのお琴の旦那の方が腕が上かもしれないという事実にふてくされたものだ。
男の剣が狭い場所での振る舞いで、木の台に邪魔されたのを機に、西垣はためらいなく剣を振るった。
ここで情けをかけるのはそれこそ武士としてしない、と決めている。
役目を全うしようが、しなかろうが、この男はいずれ死ぬ。
西垣ではない誰かに殺されるかもしれない。
切られて虫の息になった男に西垣はささやく。
「最後の望みを言え」
たった一人の暗殺者など、ただ乱心したとされて切り捨てられるだろう。おまけに約束されたことなどなかったことになるかもしれない。
切り捨てる西垣は、切り捨てられる者の望みをできるだけ聞くようにしている。特にこんなふうに理不尽に追いやられてしまう者に対しては。
「妻を…医者に」
力のなくなっていく目を見つめ、西垣は力強くうなずく。
「承知した。いい医者を知っているから任せておけ」
そう言えば、男は血だまりと一緒に息を吐いて絶命した。
西垣は自らの剣を男の粗末な衣で拭うと、剣を鞘に納めた。
背後でかたりと音がしたのでさっと振り向くと、そこには泣きはしないまでも股間を濡らしてへたり込んだなる坊がいたのだった。
「無事だったか」
なる坊は唇をかみしめてうなずいた。
どうやら屋敷の中を逃げまどい、別の女衆にかばわれ、台所の隣で隠れていたらしい。
だから男は台所に足を踏み入れたのだ。
「もう、大丈夫だ」
そう言うと、声もなく、なる坊は泣いた。
なる坊からあふれだした涙が西垣の衣を濡らしたし、なる坊の股間から微かに匂うものに笑いながら、別の屋敷からようやく来た助っ人に声をかけられるまで、西垣は同じく台所の床に座っていたのだった。
* * *
「西垣様も大変ね」
さも他人事のように言ったのは、涼しい顔をしてなかなか怖いことを平気で言うお智だった。
おもともようやくこの娘の性格がわかってきたところだが、どうやら魚屋で魚をさばくのが趣味だという。意味がわからない。
「ああ、私も男だったら剣術を習ったのに」
「…女でよかったわよ」
剣術なんてものを極めてしまったら、辻切りに走らないかと心配だ。
刀の収集なんかで家を傾けたりとかも考えられる。
そう、女でよかったのだ、お智は、とおもとはこっそりため息をついた。
先日の襲撃のため、計画は変更せざるを得なくなった。警備が厳しくなったのだから当然だ。
そして、誰がなる坊を襲撃させたのか、が問題になっている。
嫉妬深い奥方一派か、それに伴う親戚筋か、他の勢力か。
もちろん武家方の内情のことはわからないが、少なくとも今すぐになる坊をおすみの元に戻すのは危険となった。
おすみもこのままなる坊に何か危険が及ぶなら、このまま大切に守られているほうがまだ安心するというものだ。
「それで、その西垣様は」
「襲撃を防いだ功労者として、もしかしたらその藩とやらのお抱え剣術指南におさまるかもよ」
「まあ、大出世じゃなくて?いつも歩き回ってる旗本三男坊が」
「ちょ、ちょっと、お智。いくら西垣様とはいえ、一応あれでもお武家様だから」
「啓太さんもそれくらい甲斐性があれば、今頃嫁の一人や二人」
「う、うーん、甲斐性はあると思うけれど。羽振りのいい大工だし、顔は悪くないし、性格は少々暑苦しい気もするけど、それはそれで一途なところあるし」
「お琴さんにほの字になったのが運の尽き、って感じがするわぁ。我が幼馴染ながら、不憫なことね」
「そう言うなら、あんたが貰ってやんなさいよ」
「私が?」
お智は考えたこともない、というように驚いている。
「でもねぇ、啓太さんじゃ物足りないわぁ」
「どこが?」
「…いろいろと」
「いろいろと…」
おもとはその先を聞きたかったのだが、お智は入ってきた客に気をとられてその先の話はなかった。
「不憫な人ね、啓太さん」
「何が不憫だって?」
ひょいと顔を出したのは、その当の啓太だった。
「あ、あら、ご機嫌よろしゅう」
「誤魔化しても無駄だぞ。俺の何が不憫だって?」
「そ、そうね…その、いろいろと」
「いろいろと?」
「そう、いろいろと」
「俺だってな、いろいろ苦労してるんだぞ」
啓太はよっこらしょっと同じく店先の床几に座った。
「それは見てればわかるわよ。お琴さんのことはきっぱり振り切ってないみたいだし」
「そ、そ、そ、それは関係ないだろ!と言うより、何だよその振り切ってないってのは。あっちは人妻だぞ」
「だから不憫だって言うのよね…。まあいいわ」
「まあいいって、なんだよ。そんな馬鹿なことをあいつの前でも言ってみろよ、どんな報復が来るかわかったもんじゃねぇ」
「はいはい、ところで、そのお琴さんの方はどうなってんのよ」
「どうって…?」
「ちゃんと確認してないわけ?」
「おまえこそ、ここで団子食いに来る暇があったら確認しておけよ」
「ただ食べに来たわけじゃないわよ。お智とも打ち合わせがあったのよ」
「何やら直樹先生とお琴さん、二人とも往診だのなんだのと忙しそうでな」
「まあ、そうなの。最近佐賀屋にもご無沙汰で、女将さんがさみしそうで。やや子でもできたんじゃないかと」
「やや子〜!?」
「あら、おかしくはないでしょ、夫婦なんだから」
「そ、そりゃおかしくはないさ。め、夫婦なんだから」
「でも往診で忙しくしてるってことは、違うわね。心配性の直樹様が出歩かせるわけないから」
「そ、そうだな。ちょ、ちょっと今日は、早仕舞いにするぜ」
そう言いながら、がたんごとんと床几に躓きながら、啓太は帰っていった。
おもとはその後ろ姿を見ながらお茶をすすった。
「…あらあら」
* * *
直樹は竹で入口をふさがれた屋敷の外に立ち、お琴ともにため息をついた。
この屋敷で往診するのもこれが最後となると、ため息もつきたくなる。
この屋敷は先日お取り潰しの目に遭った。
それも、主はあのなる坊を襲った首謀者として、ひっそりと斬り伏せられた。
さらに言えば、その斬り伏せたのがあの西垣と聞けば、余計なことまで考えてしまう。
西垣の判断は正しかったのだろう。
誰が斬ったのか、お琴には言っていない。なる坊を守っていたのだから、薄々は気づくことだろうが、お琴は何も聞かなかった。
この屋敷を追われる妻子は、どこに行くのだろう。
この江戸にいる限り、往診は続けたいと思っているが、それもどうなろうか。
診たところ、治療を託された奥方の病は、今までの無理がたたって回復するのに時間がかかるだろう。もしもひどい環境に置かれれば、命を失うことになってもおかしくはない。
奥方も、自分がこんな病になぞならなければ主が無茶をすることもなかっただろうとさめざめと泣く。
しかも自分にも子がいながら、他人とはいえ子を殺すことに苦しまないはずがない。
西垣の話では、決然とした鬼気迫る様子だったという。
「先生、どうなるんでしょうね、これから」
お琴の言葉は、ここに幽閉されている妻子のことだけではないだろう。
いまだ離れ離れの親子のことも思ってのことだと直樹にはわかった。
何もかもが上手くいくようなら、神頼みでも何でもするだろう。しかし、それは無理というものだ。
「できる限りのことはするさ」
「ええ。もちろんあたしもお手伝いします」
一瞬、いやそれは、と制止しそうになった言葉を飲み込んで、直樹は「帰ろう」とだけ言ったのだった。
思えば、こうやって言葉を選んだり、飲みこんだりする術も、お琴といるようになってからだと直樹は気づいた。
お琴が巻き込まれたこととはいえ、できるだけお琴に関わってほしくない。それが他の者を結果的に巻き込んでも、と思ってしまう。
そんな想いは、ひどく独りよがりで強引で、卑怯なことだと知っていながら。
(2019/03/20)
To be continued.