大江戸夢見草




行きつけの船宿の一室で、女将がそそと部屋に入ってきた。
「西垣さま、急ぎの文が」
「…ん?あ、そう?」
「残念ながら女の方の文ではないようですよ」
そう言って艶やかに笑う女将を眺めながら、窓辺から手を伸ばして文をもらった。
旗本の三男坊であり、お気楽太平でそこそこ遊び人な西垣は、どこから金を調達しているのかとささやかれつつも今日も船宿の片隅でのんびりとしていた。
お琴が危機的状況なのはもちろん知っているが、先日の件から少し間が空いて、しばらく船宿でのんびりしてくるよと伝言していたのだ。
どうせ武家のことであれば、またかなりの苦労をすることになるからだ。
今ようやく男からの文、ということでなんとなく察しはついた。
「女将、世話になった。また寄らせてもらうよ」
「あら、お出かけ?それともどこかまた別のお方の所に?」
「お出かけ、お出かけ。女将ほどのいい女はなかなかいないからね。用事が済んだらまたお願いするよ」
「まあ、その用事も女絡みでないと?」
「さあ、どうかな。どちらかというと殺伐とした用事だけどなぁ」
「気を付けていってらっしゃいませ」
「ああ、また何かあったら頼むよ。女将だけが頼りだからさ」
「調子のいいこと。ええ、お待ちしておりますわ」
女将は微笑んで西垣を見送る。
無事であればまた飄々と気が向いたときにやって来るのだろうと思いながら。


西垣は文を読んだ後で「そう来たか」と独り思案した。
なる坊は、某武家の殿様の落とし胤≪だね≫であることを西垣は薄々ながら知っていた。
今まで見向きもされなかったはずだったのだが、先日その武家一族での跡取りが病で亡くなったらしい、というのは聞いた。
水面下でおすみに交渉して断られていたらしいが、それでもまだほかにも候補がいたので見逃されていたのだろう。それがここにきて強引な手段に訴えてきた。
おすみの生活の糧を奪い、困窮させ、なる坊を手放させようというのだ。
いや、むしろなる坊そのものをさらってしまえば話は早い、という決断に至る可能性もあった。
今までもその可能性はもちろん考えてはいたが、跡取りが決まらなくていよいよ切羽詰ってきたらしい。
望む者と望まない者がいる。
跡取りは先代がしっかりと決めていれば問題はなかった。
いや、決まってはいたのだろうが、決まっていた跡取りが次々とこの世を去ればさすがに気が気ではなくなったのだろう。
どこからか血の繋がった誰か、もしくは誰かを養子にしなければお取り潰しの憂き目にあうのだ。
そして、遠縁しかいないとなれば武家の間でも対立は起こる。
自分が推している者が上に立てば仕事はやりやすい。
むしろ自分が後援する立場となればなおよい。幼子であればあるほど権力はほしいままだ。
西垣とて、三男坊とはいえ、万が一家を継ぐ長男が亡くなれば次兄が、もしくはその次兄すらも亡くなれば自分にその役目が回ってくるのだ。
西垣の家は殿様稼業ではないのでなる坊の立場よりも気は楽だが、この時代いつ何が起こるかわかったものではない。
なる坊のところも放っておかれるはずが、次々と起こる不幸にそうならざるを得なかったわけだ。
なる坊は賢い子どもだと聞いている。
そうであれば後継に推されてもおかしくはない。
なる坊にその意思があれば跡取りとなってみるのも悪くはないだろう。
しかし、おすみはとうの昔に断ち切ったはずの縁を望みはしないだろう。自ら市井に紛れたのだから。
なる坊が望めば話は別だ。
今までそんな話がされていたのかどうか。
おすみ一人の胸の中で考え、手放したくないがゆえになる坊に話を通さずに断っていたかもしれない。
道すがら、西垣はそんなことを考えながら対策を考えていた。

 * * *

「それで、西垣さまは」
「剣術指南に行ってくる、と」
「…剣術指南…」
おもとは目を丸くしてつぶやいた。
啓太は茶を飲みながら連絡を待っているところだ。
「なんでも、どうやら有名な道場の師範の腕を持っているらしい」
「直樹様の剣術もすごくて、長崎からの帰りの道中何度助かったことか」
「お武家様だったらと道場主が嘆いていたのを聞いたことはあるな」
「それで刃物を扱うのもうまいのね」
「大きさが違うだろ」
「あら、直樹様なら鰻すらもきっと上手にさばいてみせるでしょうよ」
「あー、はいはい」
啓太は耳をほじって適当に返事をし、茶をすすった。
「西垣さまだけに任せて大丈夫なのかしらね」
おもとは不満そうに鼻を鳴らした後、心配そうに言う。
「髪結の…誰だっけ、あの女も屋敷に行ってる」
「ああ、お真里ね」
「まずはなる坊がどうなってるか知るのも大事だろ。いきなり連れ帰るのはよくない」
「それはわかってますよ」
「なる坊が大事にされてるのなら様子を見てもいいだろし、ひどい目に遭ってるなら早く助け出せばいいだろうし」
「ひどい目ってのは、あまり考えられないわね。跡取り候補でしょ」
「奥方の子どもがだめになってるからなぁ。おまけに他の跡目狙いが違う候補を連れて来たら…」
「…武家って面倒ね」
「そりゃそうだろ。おれたちとは違う世界で生きてんだ」
想像でしかない武家のことを考え、おもとと啓太はため息をついた。

 * * *

「こちらです」と案内された屋敷の中は、意外に閑散としていて、人の気配があまりなかった。人の目を忍んでいるのだろう。
「それで、某はどなたのお世話をすればよろしいのか」
かしこまって、いつもより身なりもそれなりに整えてやってきた西垣は、案内役にそう尋ねた。
「まもなくこちらに主が参りますゆえ」
それだけ言って部屋を立ち去ってからどれくらいの時が経ったのか。
足も崩して手入れもいまいちな庭を眺めながら、これなら自分がやった方が格好がつくのじゃないかとか、剣術指南なんてことにせず、押しかけ庭師の方がよかったんじゃないかと思い始めたころ、ようやく部屋の戸が開いた。
「…お待たせ申した」
やや年配の男がそろりと入ってきた。
「これは東馬殿、お久しぶりですな」
西垣はその顔を見て納得した。
殿様お付きの者が直々に現れたのだ。用事の合間を見て屋敷を抜け、こちらに駆けつけるだけでも大変だっただろう。今はお家騒動真っ最中だ。
「お父上は息災で」
「…お久しぶりにございます。いつぞやのときかは忘れましたが、まだ私が幼き日のことは憶えております。我が家も残念ながら皆ぴんぴんしております」
「またそんなことを」
確かにこの男なら会ったことがある、とは思ったが、それが西垣自身も幾つのときか覚えがないくらいの幼き日の縁で、まさか覚えているとは思ってもいなかったくらいだ。
「時間が惜しいので本題に。東馬殿の剣術の腕前を見込んで、幼き子の剣筋だけでも見てもらえないかと打診したことは飲み込んでおるかと」
「承知しております。ですが、しがなき三男坊の身であり、剣を極めたわけでもない某ですが、よろしいので?」
「まだ公には表に出せぬお子でな。噂は聞いておろうが、主の妾腹の子でな」
「候補としてあれこれ見極めている段階であると」
「ここで一つ願いたいのは、剣術はあくまでも身を守る術であって、上手い下手はこの際どうでも」
「それだと最初の話と違ってくるかと」
「なにぶんあれこれと事情が事情なので」
そんな話を終えた後、しばらく待っていると戸が開き、幼子が入ってきた。しかし、幼子とはいえしっかりとした瞳と意志を感じさせる口をさせ、こちらをじっと睨みつけるようにして見ている。
「こちらへ」
促されてにじり寄った子に「こちらは今日から其方に剣術指南をしてくれるお方だ」と西垣を紹介した。
「西垣東馬にございます」
一応子どもとは言え、殿様の隠し子となれば頭を下げるしかない。
子はちらりと屋敷の主を見た後、何か言いたい言葉を飲み込んだようにぐっと唇を引き締めた後、「…成正と申します。よろしくお願いいたします」と頭を下げた。
西垣は、そう言えばなる坊と呼んでいたなと思い出した。
「今からでよろしいので?」
改めて屋敷の主に問うと、「時間がないのだ」と返されたので、そのまま西垣は「承知いたしました」と早速庭で剣術指南とやらをすることにした。
西垣はさっと立ち上がると「お頼みしたものは用意していただきましたか」と庭への戸を開けて聞いた。
「今お持ちしよう」
女衆を呼ぶと、西垣の元に木刀二振りが届けられた。
「では成正殿、こちらへ」
「履物は?」
「裸足で結構」
西垣の言葉に素直にそのまま縁側から庭に降り立ち、西垣から木刀を受け取った。
「いきなり振り回すのはよくありませんが、時間もないとのことなので、とりあえず構え方から振り方までを一通り教えることにします。明日から、早速時間のある時に気が済むまで振りなさい」
「はい」
そうして少し木刀を振らせているうちにお目付け役の屋敷の主は去っていった。そりゃ忙しいだろうと西垣はやれやれと肩を回す。
おそらく女衆は誰か聞き耳を立てているかもしれないが、当たり障りのない話をしてみることにした。
「なる坊、急にこんなところに連れてこられて、出自を聞かされて、驚いたか」
なる坊と呼びかけられ、なる坊はびくりと西垣を恐る恐る見た。
「ああ、いい、返事をしなくともわかっているよ」
そして小さい声で続ける。
「そのまま振っていたまえ」
西垣はさも指導をしているように握りなどを直しながらなる坊にささやいた。
「おすみさんは心配しているが、無事ならばそのうち会える」
なる坊はこくりとうなずく。
「短気を起こさず、今はしっかりと食べて寝て、いつかこちら側の人間が助け出すまで耐えろ」
少なくとも跡目争いのあれこれはあるだろうが、殿様付きの者が直々に私的な屋敷を用意してまで匿っているのだ。ひどい扱いにはなるまい。
「しょ、承知、しました」
なる坊は泣きたい気分だろうが、ぐっと我慢したように唇を引き締めた。
それでいい、と西垣はうなずいて、「しばらく通ってくるゆえ、何か伝言があれば」と見れば、なる坊はゆるりと首を横に振った。
「偉い子だ」
西垣はなる坊の市井の子らしいまだ丸刈りの頭をなでながら言ったのだった。

 * * *

おすみは団子屋の店先でほっと息を吐いた。
「それでは、無事で過ごせているのですね」
お智はお茶を差し出しながら「ええ」と微笑んだ。
西垣は変わらず屋敷に出入りしてなる坊の様子を知らせる。啓太は文を受け取ってお智に託し、それはおすみに伝えられる。
お琴は全く蚊帳の外だが、お智からおもとへ、更には直樹に伝わっているので、お琴にも伝わっているはず、だ。
少なくとも跡目をお上に届けることも近々しなければいけない状況で、いつまでもぐずぐずはしていられないのが本当だ。
「その方が幸せなんでしょうかね」
「それを選ぶのは私たちではありませんわ」
おすみはお智を見上げた。
「その藩のことを考えればそれが良いのかもしれません。おすみさんとてちらりとも考えたことはなかったわけではないでしょう。少なくともなる坊が生まれた時には預けることも考えたはずです」
「…ええ。でもとてもそのような状況ではなかったのですけれど」
「今状況は変わったとて、なる坊はまだ五歳です。まだまだ母が恋しい年でしょう。母と一緒に過ごすことを選ぶか、なる坊は賢いお子でしょうから跡目を継ぐと考えて、離れることを選ぶこともありましょう」
「そうなったら私は…快く送り出してあげられるか…」
「それに、そんなにすんなりと跡目が決まるかどうか、でしょうね」
お智の言葉に顔を曇らせて団子を見つめるばかりのおすみに、元気な声が呼びかけた。
「おすみさーん」
「あら、お琴さん。まあ、直樹先生まで」
お智はほら、とおすみに促す。
駆けだしそうな勢いでやってきたお琴の後ろを心配そうに歩いてきた直樹は、控えめにおすみに頭を下げた。
お智の言葉に振り返ったおすみは、笑顔でやってきたお琴を見てようやく笑顔を見せた。
「こんにちは、お琴さん、直樹先生」
「お加減はいかがですか。伏せっていたと先生からお聞きしました」
そういうことにしてあるのかとおすみはうなずいた。
実際なる坊がいなくなったことで気落ちしていたので嘘ではない。
「ありがとうございます、お琴さん。ようやく気が落ち着きましたので、こうして団子などをいただこうと寄らせていただきましたの」
「なる坊は、きっと戻ってきますから、おすみさんも元気で待っていてくださいね」
「ええ。私が寝込んでしまってはなる坊も安心して帰って来てくれないでしょうから」
「直樹さん、あたしもお団子一つ食べてもいいかしら」
そっと頼んだお琴に直樹は息を吐いてそう来るだろうと思ったとつぶやいた。
「どうせ土産に佐賀屋へも持っていくつもりだろう」
「ありがとう!」
お琴と直樹のやり取りを眺め、かつて自分もそんな無邪気なやり取りがあったことをおすみは思い出した。いや、ここまで無邪気ではなかっただろうことは承知だ。
そもそも身分の違う男とのやり取りは、もっと遠慮がちではあったが、少なくとも今ほどに身分が離れていたわけではない。
「おすみさんがその…身分違いとは言え、側室に入ることはないのかしら」
お琴は直樹ほど詳しい事情を知らない。
ただ、相手が武家で身分の高い者だろうと察しただけで、おすみの元の姿も知らない。
おすみは微笑んで言った。
「そういう話もなかったわけではありませんが、今は武家でも何でもない私がお家に入るのでは、その家に到底ふさわしくないという反対が大きくて」
何よりも、正妻からの仕打ちがひどく、このままではなる坊すらもどうにかされるのではないかという危機感に身を引いたのだ。
いつか、こういう話も出てくるのではないかとも思ったが、なる坊の上には二人も男児がいたので、それほど大げさに考えてもいなかったのが現状だ。
「私は、なる坊が幸せになれるのであれば、それでいいのです」
おすみの言葉にお琴も直樹もしんみりと空を見上げた。
春早い空は澄み渡り、どこからともなく桃の香りがしたのだった。

(2019/02/11)



To be continued.