11
おすみはせっせと布に針を進めながら、かすかな音を聞いた。
誰かが近づいてくる気配がした。
それは密やかな足音ではあったが、殺気は感じられなかった。
夜も更け、明かりの油がもったいないと思いつつの夜なべ仕事であった。
同じ長屋の者たちの朝は早く、既に寝入っていることだろう。
おすみは元は武家の娘であった。
父母を早くに亡くし、家督諸共を親戚筋から追われるようにして取り上げられ、元から貧しかった家屋敷すらも手元には残らなかった。
その前にふとしたはずみで知り合っていた恋仲となっていた男が、実は藩の殿様だったなどという夢物語など信じられなかったのだ。
まだ跡継ぎと目されていただけの男だったが、まさか既に奥方がいる身とは知らずに子ができた。
父母が亡くなり、男が身分あるものと知ったところで、おすみはひっそりと藩を出た。
屋敷にいた奉公人の郷を頼り、なる坊を産むと、その郷にいた男とともに江戸に向かった。
江戸に着いたところで所帯を持ってもよいと思ったが、男の方が逃げた。
自分の子でもない子を持つ女とは無理だったのだろう。
かくしておすみは江戸で心機一転、親子の暮らしを始めた。
幸い最低限の生活ができる糧を近くの店で働いて稼ぎ、そうしてようやく開いたのが、あの店だった。
それすらも何者かによって邪魔をされた。
密かに産んで知られぬようにしたなる坊ですら命を狙われる羽目になった。
今度は自分か。
おすみは聞こえてくる足音に少しだけ身をすくませる。
なる坊には会いたいし、手放したくはない。
しかし、この母がいなければ、なる坊は迷うことなく跡継ぎとして暮らしてけることも承知していた。
思えば、江戸に流れて暮らしてきた年月のなんと短いことか。
長く、苦しい日々だったと思うこともあれど、まだほんの5年ではないか、と。
ようやく親子して生活できる基盤ができたと思ったところだったのに。
おすみは針を持つ手を止めた。
今縫っているものはこれで終わりで、預かったものを汚すわけにはいかない。
衣を大切に柳行李にしまい、おすみは息を吸い込んだ。
ほとほとと表戸が鳴った。
おすみは返事もせずに立ち上がり、表戸に手をかけた。
* * *
お琴が恥ずかしそうに言った。
「あの、直樹さん。あたし、ややこは…」
直樹は朝の支度をしながら思わず手を止めた。
「…は?」
我ながら間抜けな問い返しと顔だっただろう。
「…できたのか?」
お琴は「へ?」とこれまた間抜けな返事をした。
「あの、いえ、その、あたしにはややこができないんでしょうか、とお尋ねしたかったのですが」
そこで脱力して、直樹は帯をもう一度キュッと締めた。
「誰に吹き込まれた?」
「誰ってその、女将さん…じゃなくてお義母さまです」
「ああ、そう」
余計なことを、と思いながらそれはお琴には隠して心配そうな顔を見下ろした。
「ややこは、焦らなくともいつかできる。それより今は二人で過ごすのもいいだろう。万が一できなくとも気に病むことはない。俺は、お琴がいるだけで十分だ」
直樹の言葉にお琴は見る間に顔を赤くして「まあ」と喜んだ。
「もしまた母が何か言ってきたら『神のみぞ知る』だと言っておけ」
「神の味噌汁…どんな意味があるんですか?」
直樹は撫でようと思った手を止めて、思わずお琴の額をぺチリと叩いた。
「いたっ。もう、直樹さん、ひどい」
「おまえはもう一度手習いからやり直せ」
そんなやり取りをしていた矢先に表戸がだんだんだんと強く叩く音がした。
「お願いします!直樹先生!」
お琴は直樹を見上げてから、慌てて「はいはい」と表戸に向かって駆けていった。
* * *
あれから、お呼びもかからない。
功労者ではあったが、反対派のものには邪魔なのだろう。
どうしているだろうか、あの坊は。
西垣はふらりと茶屋に立ち寄って、茶を所望した。
「はあい、お待たせいたしました、西垣様」
そう言ってお智がにこにこと愛想よく茶を運んできた。
「やあ、お智。相変わらずかわいいね」
「そんなこと言ってもお代はいただきますよ」
ちゃっかりしているお智がそう言うと、西垣は袖を探って「お智、ではこれを」と小さな包みを渡した。
「まあ、いいんですか、西垣様」
「いいよ、受け取ってくれたまえ。ここ最近ここへは来れなかったお詫びだ」
「まあ、そうですねぇ。どうせ他の茶屋に浮気しに行っていたんでしょう」
「そう言うな。こうしてお智のいるところに戻ってきたんだから。いやあ、落ち着くなぁ、この茶屋は」
「それはわたしがいるからでしょ」
「はっはっは」
西垣は少し冷めかけた茶を一気に飲むと、「では、またな」とまたどこへともなく歩き去っていった。
お智は手に持った包みをそっと懐に入れると、また訪れた客に向かって愛想を振りまくのだった。
* * *
日も昇りきり、うっすらと雲のかかる春先の空は、日本橋の通りの下で商いをしている佐賀屋で働くおもとにもぼんやりとした空気を運んでいた。
「なんで春ってこうすっきりしないのかしらねぇ」
そんなつぶやきを聞いたのか、すかさず手代が言った。
「おもとさんまでそんな」
「あたしまでって、他に誰か同じこと言ったのかしら」
手代は「あ、ああ、それは」と少し言葉を濁していると、はああと大きなため息をついた女将が通り過ぎた。
「え、まさか女将さん?」
手代はそっと目をそらし、「ああ、忙しい忙しい」ととってつけたような言葉をつぶやきながら店表へ出ていったのだった。
「女将さん、ため息ついてどうしたんです?」
おもとが問うと、女将は今気が付いたというようにおもとを振り返った。
「おもとさん、せっかくの春なのに、どうしてあの息子はああも冷たいのかしらねぇ」
「あー、そう、ですかねぇ。お琴さんには随分と優しいとは思いますけども」
「当たり前よ。お琴ちゃんにまで冷たかったら、この私が許しません」
「それならいったい」
どうして冷たい、などと、と思っていると、女将は言った。
「お琴さんにややこができたんじゃないかと言ったら、しばらくお琴には会わせない、とわざわざ文をよこしたのよ〜。普段は全く文なんてよこしもしないどころか、顔も見せないというのに」
「あ、ああー、それですか」
それならおもとも聞いていると密かにうなずいた。
ややこを催促されていると勘違いしたお琴が、あたしにはできないのかと直樹に詰め寄ったという話だ(あくまで伝聞)。
「でも女将さん、お琴さんに会いに行くのは止められましたけど、お琴さんが勝手に会いにくる分には問題ないですよ。もしくは団子屋でばったり会っちゃったとか。それに、ややこなんて、そんなに心配しなくとも、あの二人ならそのうち、ですよ。たとできなくとも、夫婦仲がよろしいのはよいことですよ」
「まあ、そうよね。たとえどんなに朴念仁だろうとも、お琴ちゃんがいれば大丈夫よね」
「…そ、そうですよ」
おもとは少々引きつりながら応えた。
世間一般基準でいけばかなり出来のいい息子のはずだが、母親からすればこんな評価である。そして、一般的に言えば不出来なはずの嫁びいきも甚だしい。
「それなのに、裕樹さんも何やら兄のようにと似てきてしまって」
「裕樹さまも優秀でいらっしゃいますから、大丈夫ですよ」
「裕樹さんだけは、あんな薄情な男にはしないようにしないと」
薄情どころか十分情に厚い男だとは思う、ただし、嫁限定だけれど、とおもとはすっとぼける。
あちらもあちらながら、こちらの女将も相当なものである。ここは当たらず触らずでいくのが無難なところだろう。その点はここで長年奉公をしていたおもとの叔母に学んだことだ。
おもとにとってもっとすっきりしないのは、やはり饅頭殺しの件だろう。
背景はわかったものの、結局どうすれば解決となり、正解なのか、もはやわからない。
その詳細はさすがに女将には話していない。
お琴ですら細かい事情はわかっていないだろう。
なる坊が襲われて、それで終わりなのか始まりなのか。
そもそも饅頭殺しで殺された者に意味はあるのか。
お上はこの先も動かないのか。
おもとは庭先に揺れる桜草を見た。
いつだったか、女将が桜に似てかわいいのだと買い求めたものだ。
一部は屋敷の中で育て、早々につぼみがついている。
庭先にあるのは既に前に買い求めて直植えにしてあるものだが、まだつぼみすらも見当たらない。
お琴はことさらこの花を愛でた。桜樹ほど豪華に咲くことも、潔く散ることもなく、庭先で、あるいは鉢植えで楽しむことができるが、花の時期は短い。小さく可憐な花を次々に咲かせてはしおれ、元は野花でもあることから素朴で好きなのだと。
まだ寒い春先、事の終わりはまだ見えない。
* * *
どうしたことだ、これは。
直樹はとある長屋のひと部屋で、呆然としつつも目の前に横たわった男の脈を診ていた。
「いつからこんなことに」
「…少し前からだぁ」
「少し前?」
直樹はその職人の妻につい鋭く目線を向けた。
腹の具合が悪いと言っていた、あの職人の玄だった。
「これでは…」
手の施しようがない。
直樹は浅く呼吸する玄の傍らで、首を振る。
「そんな…!」
お琴は玄の手を握って「なんで」と泣く。
「少しずつ体が弱っていたのに、先生にすぐ見せなかったのが悪いんだ」
玄の妻もそう言って泣くばかりだ。
「これではもう、もたない。お琴、話がある」
そう言って長屋から出ると、心配そうに長屋の人々がうかがっていた。
「先生、どんな具合だね」
それには答えず、長屋の外へとお琴を伴った。
「どういうこと?」
お琴の言葉に、直樹は長屋を見て言った。
「玄さんは、確か植木職人だと言っていたね」
「ええ。それが?」
「客先はどこだ」
「さあ。でも腕のいい人だから、あちこち、大店の商家も…」
「武家もか」
お琴は直樹の言葉に目を見開いた。
「まさか」
「…あの症状は、おそらく毒だ。今まで気づかなかった。ゆっくり症状が進むから、一度に盛られた毒ではない。ここ最近、ずっと行っていた屋敷はどこだか知らないか」
「…ほら、最近、玄さんは具合が悪いって言ってからお薬もらって、忙しいからって入江堂には来なかったでしょ」
「ああ」
「本当は忙しかったわけじゃなくて、来られないほどに衰弱していたと…?」
「そうかもしれない」
「お屋敷は、橋を渡ったところだとしか聞いていないわ」
「橋を、渡ったところ…?」
「変、よね。いったい玄さんがどうして」
「それについてはお上に任せた方がいい。このことは誰にも言うな」
「…言わないけど…でも」
「玄さんのおかみさんにもだ」
「言っちゃだめなの?」
「ああ。変なことに巻き込まれないためにも」
「まさか、毒饅頭に関係が…?」
「もうそれ以上、言うな。この件には関わるな。今度こそ命にかかわる」
「先生!」
長屋から人が呼ぶ。
「行くぞ」
急いで戻ると、玄の呼吸は既に止まりそうなほどだ。
「おかみさん、玄さんにお別れを」
お琴は先ほどの動揺を押し隠し、涙も拭いて、玄の妻を促している。
玄の妻は泣きながら、嫌だ、逝くなと泣くばかりだ。
「玄さん、おかみさんは任せて」
「そうだよ、安心して逝きな」
長屋の人々が泣きながら、それでもきっぱりと玄の周りで言う。
最後のひと息を吐いた後、玄の呼吸は止まった。
静かに脈をとり、直樹は「臨終です」と告げた。
わああと玄の妻が泣き叫ぶ。
周りからもすすり泣きが聞こえた。
最期を看取ることができただけ、まだましなのかもしれない。
その死因には納得いかなくとも。
玄の妻が一通り泣いて落ち着いた頃に直樹は言った。
「玄さんの腹には、悪い出来ものがあったのかもしれない」
「それは…先生でもどうにもできないと?」
「腹を開けて切らないことには」
「それだったら助かったか?」
「…たとえ開けたとしても、悪いものが周りに散らばっていれば、やはり助からない。家康公でも助からない病だ」
「…そんな公方≪くぼう≫さまでもだめなら、諦めはつくやね」
そう言って玄の妻は泣き笑いした。
「おかみさん、何か力になれることがあったら、遠慮なく言ってちょうだいね」
お琴は玄の妻の手を握るとそう言った。
玄の妻は黙って頭を下げた。
「それでは、これで」
直樹とお琴は長屋から立ち去った。
その胸に何とも言えないものを抱えながらではあったが。
その帰り道で、直樹は泣きそうなお琴に言った。
「今回の症状は、確かにあれかもしれない。しかし、それがなくとも、玄さんはいずれ本当に胃の腑の病で亡くなったとも思う」
「…本当に?」
「ああ、本当だ。腹を触った時、何かに触れた。あれは、おそらく…」
「じゃあ、もしかしたら、あれのせいじゃないかもしれないのね」
直樹は黙った。
胃の腑の病だけなら、もう少し長生きできたことだろう。
いずれそれで命尽きることはあっても、これほど急激に病み衰えることなどなかったかもしれない。
しかしそれはお琴には言わなかった。
「そっか。そうなのか…」
お琴の中では突然の別れに対する理由に納得がいったようなので、直樹は黙っていることにした。
いずれにしても、これが表沙汰になることはないだろうとも思っていた。
念のため、同心の渡辺くらいには話しておくべきかどうかを迷っていた。
その話を自分たちの中だけで処理するべきか、何かあった時のために渡辺を巻き込んでおくべきか、と。
帰り道を早歩きしながら、直樹は考え続けるのだった。
(2019/05/01)
To be continued.