大江戸夢見草



13


足早に通りを歩く。
武家の上屋敷が並ぶ一角は、ただの髪結には恐れ多い。
周りには十分気をつけること、と念を押されている。
いきなり襲われてはかなわない。
全くの無人ではないが、いるのはそれぞれの上屋敷の門を警護している下級武士だけだ。
「もし…」
誰かに話しかけられた。
立ち止まるべきかどうか瞬時に悩む。
無害そうな男のように見えた。
一瞬足が止まったその時、後ろから聞き慣れた声がした。
「おう、さすがに朝早いな」
大工道具を肩に担いだ啓太だった。
ようやく足を止めて啓太が追い付くのを待った。
無害そうに見えた男は啓太を見て顔をうつ向いて去っていった。
ただの女に声をかける輩に見せかけた刺客だったのか。去っていった今となっては判断ができない。
「あら、そちらも朝早いじゃない」
「まあな。なかなか会わねぇと思ったが、こんなところ歩いてやがったのか」
「あら、お得意様には武家もあるのよ」
そう軽快にやり取りしてさり気なく歩き始めた。
橋を渡り、店を開ける準備を始めた商人たちや振り売り(朝飯の菜になるものを売り歩く者)が帰りかける通りに出ると、ようやくほっとする。
「…あれは、誰だ」
口早に通りの音に紛れて啓太が言った。
「…知らない、見たことない」
記憶を頼りにそう答えたが、こちらは知らなくともあちらは知っているのかもしれない。そもそもこんな朝早くからごろつきがうろつくのはおかしい。
「そうか」
表情を変えずに啓太は答えた。
「まだ他所に寄るのかい」
「いえ、あとは佐賀屋だけね」
「ならそこまで送って行こうか。ちょうど日本橋で仕事頼まれてんだ」
佐賀屋になど頼まれた仕事は今日はない。
ないけれど、啓太と連れだって歩く。
通りはそこそこ人が出てきたが、後をつける者がいたら気づくだろう。
大工の啓太もそこそこ足が速い。せっかちなのだ。
それに遅れまいと歩きながら少しだけ文句を言う。
「ちょっと、女と歩いてるってもう少し気を使いなさいよ」
「お、おう、すまねぇ」
そう申し訳なさそうに言いながらもほんの少し速度を落としたくらいで、歩き続ける。
「…お真里、悪いこた言わねぇ。あの屋敷は明日から辞めちまいな」
「まあ、そのつもりだったけど」
何やら不穏な感じがする。
武家の江戸屋敷というのは、藩主がいる間は活気に満ちているものだ。
それがどうだろう。何やら空気が張り詰めていて、どことなく居心地の悪い感じがする。
藩主がいるからかもしれない。
いや、藩主は見かけない。
もちろんいち髪結いごときに顔を見せる藩主は少ない。
むしろ奥方様の方にお目通りすることの方が多いだろう。
そして、今回お真里を呼び寄せたのは、女髪結いが必要だとうかがったからだ。
既に奥方様は側近の者ですら信じられない様子で、側に寄せる者も昔からの馴染みで親戚筋から連れてきた者だけというありさまだ。
もちろんこれは今も昔も権力ある者なら当然の警戒であり、藩主ですら毒味役を置いて食事にも気を配るくらいだ。
当然やや愚鈍な年若い娘では、奥方様の気に入る髪型にはなかなか結えず、お真里が呼ばれたわけだが、ずっと通うわけでもなく、今後はどうするのだろうという疑問すらある。
無言で歩き続けるうちに日本橋の通りにやってきた。
途端に誰かが近づいてきた。
啓太ともども警戒して横目で見ると、明らかな黒羽織。
「…なんでい、あれは、例の同心かい」
ほっと息を吐いて足が少し緩んだ。
「緩まないで歩き続けて」
焦って啓太を急がせる。
「いや、同心だろ」
「だからよ」
普通に歩き続けているのに、ずんずんと近づいてくる。
ひょろりとした眼鏡の黒羽織と言えば、もう一人渡辺さまもいるのだが、こちらほど図々しくもなければ偉そうでもない。おまけに癇癪もちでもない。
佐賀屋にたどり着く前に難なく追いついてしまった。
どんな足をしているのだ、とお真里は眉根を寄せた。
「お真里さん、おはようございます」
「…おはようございます、船津さま」
朝から構わないでくれと全身で訴えてみたが、そういう雰囲気というか空気はことごとく無視する。
何故か、この事件の始まりから顔を会わせるようになり、会えば近寄ってくる。
その目的は傍目から見れば丸わかりだが、お真里はあえて気づかないふりをしている。
たちの悪い男に絡まれたところを助けてもらった恩もあるし、なんと言っても同心だ。邪険にあしらうことなどできはしない。
「今朝はどちらへ」
目の前にある佐賀屋だが、行く先をできればあまり知られたくない。
ひいき先の一つにしておきたいお真里の予想をはるかに上回る言葉が降ってきた。
「ああ、佐賀屋ですね。佐賀屋の女将と女中のおもととは仲良きことで」
腐っても同心だとお真里は痛感した。
開き直ってお真里は言った。
「ええ、その佐賀屋です。今朝もごひいきにしていただきまして」
先ほども偽ったが、呼ばれていないがそういうことにしておく。
そのうち佐賀屋も表戸を開けて小僧が出てきた。
「あら、早くうかがわないと」
そうつぶやいて「それでは、船津さま、また」と言って足早に佐賀屋に向かった。
後のことはまた考えようと。

啓太はその様子を眺めていたが、お真里が佐賀屋に入ったのを見届けて立ち去ろうとしたとき、船津同心が話しかけてきた。
「今朝は随分と早いんですね」
「…あ?は、はあ、まあ」
突然の問いに思わず失礼な口をきいてしまったと啓太は改めて振り返った。
船津同心は啓太をしっかりと見た後、つぶやいた。
「やれやれ。最近は物騒ですね」
もしかしたら、見ていたのかと啓太は身をすくめた。
お真里ではないが、腐っても同心だと啓太は思わず感服する。
「何にしてもあの場で某が出ていかなくて少々助かりました。あからさまに警戒を見せつけるのもよろしくありませんしね」
「そうでございますね」
そうとだけ言って、啓太は頭を下げて佐賀屋の前を歩き去った。
どうやら船津同心は、お真里に執着しているだけではないようだと。
武家での出来事に手出しできないと聞いていたのだが、何もしないわけではないのだと啓太は少しだけ同心を見直したのだった。

 * * *

おもとは入江堂に駆け込んだ。
「お琴さん」
奥から足音を聞きつけたお琴が慌てて戸口に出てきた。
「なあに、おもとさん、そんなに急いで。もしかして急患?どうしよう、困ったわ。直樹さん、薬問屋に行っていていないのよ」
おもとは、あ…と声を上げてからこほんと息を整えた。
「申し訳ありません。急患ではなく、お知らせしたいことがありまして、急ぎ参りました」
「そうなの?それでも直樹さんがいないと…」
「…ああ、そうでしたね。薬問屋、でしたか」
「ええ。先日往診した患者さんに飲ませるために、いつもとは違ったお薬が必要だとかで、わざわざ紹介までいただいて行くのだと」
「そうでしたか。ではいつもの薬問屋とは違うところに?」
「ええ。どこ、とは教えてくれなかったから、あたしにはちょっとわからないけど。そんな金子≪きんす≫持っていたかしら」
「まあ、紹介の文を持っているならば、きっとその患者からいただいているかもしれませんよ」
「そうかしら」
「そうですよ」
そう言いながら、おもとは少しだけその目的自体に不穏なものを感じて誤魔化した。
わざと薬問屋と言い置いて出かけ、でもその店は明かさない。
お琴さんが万が一にも駆けつけてこないように気を配ったのだろう。
紹介の文とは言うものの、出所は決まっている。
先日、お琴の父の料理屋福吉で食事をしたと西垣に聞いたおもとは、詳しい事情はわからないものの、何か重要な手がかりを求めに出かけたのだろうと考えた。
まさか店ではいきなり命まで狙われはしないだろうが、その帰りはどうだろか。
いくら剣の腕は道場一とはいえ、いきなり襲われては直樹とて勝ち目はないだろう。町人である以上帯刀しているわけでもないのだから。
「ところで、おもとさんのお知らせしたいことって、なあに?」
おもとははっとして「それは、あの、髪結いのお真里なんですが…」と言いにくそうにした。
「お真里さんがどうしたの?」
「ちょっとした病で寝込んでいるので、しばらくこちらには来ることができなくなるので、その…」
お琴はおもとの言葉に最初は「まあ」とか「それは大変ね」と相づちをうっていたが、来ることができない、の意をようやく悟ると、途端に顔を赤らめて「あ、あら、そ、そう…」と言ったまま黙った。
時々どうしようもなくお琴自身で結い上げることができないほどの寝乱れのときには髪結いのお真里を呼ぶのだが、市井の者にはそれすらもぜいたくなものだ。たまたま佐賀屋でひいきにしているお陰だということもお琴はわかっている。
「あ、お真里さんの具合は…?直樹さんに行ってもらった方がよかったかしら」
「いえ、明日でも構いません。しばらく佐賀屋で面倒を見る、ということでしたから」
「あら、そうなの。お真里さんも一人暮らしだものね」
「ええ。そういうことですので…」
そう言っておもとは帰ろうかと思ったのだが、ふと気になった。
「お琴さん、このままお一人で直樹さんが帰るまでお待ちするのですか」
「え?ええ。いつものことよ。それが、何か?」
「…あー、そうですか…」
おもとは少し考えて、「やっぱり直樹さんのお帰りをここで待たせていただいてよろしいですか」とにっこり笑った。
「もちろん」
お琴はおもとの考えなど全く疑うこともなく喜んで、もう一度お茶の準備を始めるためにいそいそと診療部屋を出ていった。

 * * *

直樹は紹介の文を懐に入れたまま薬種問屋にたどり着いた。
いつもの店よりもやや豪奢な造りの店構えは、相当儲けがあるのだろうと思わせる。
直樹の生家の佐賀屋ですら、もう少し簡素な造りだ。
紫に染め上げた暖簾には、柴丹屋と白く抜きだされている。
紫に染め上げるのは、相当高直≪こうじき:値段の高いもの≫であり、それだけの財力があることを示している。また、店の名前もその材料であり、生薬ともなる紫根からつけられたのだろう。
それだけ見てとると、直樹は暖簾をくぐって店の中へと入っていった。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声がかかり、直樹は一通り店の中を見渡した。
いつも寄っている薬種問屋と中は何ら変わりがない。薬の材料が収めてあるのだろう引き出しがいくつか並んだごく普通の店の風景だ。
「お客様は、初めてでいらっしゃいますね」
話しかけてきた店の者にわずかに上方のなまりがあることを感じ取ったが、直樹は黙って懐から文を取り出した。
おや、というように直樹を見定めた後、店の者は「何が入用でしょうか」と続けた。
「さるお方から頼まれ、こちらの店を紹介されました。どうしても必要な薬材があるのですが」
直樹から文を受け取り、「私が見てもよろしいでしょうか。それとも、店主に?」と聞くので、「どちらでも構いません」と答えると、こほんと咳払いをしてから「では、私が先に拝見いたしますがよろしいですね」と再度直樹がうなずくのを確認をしてから文を開いた。
おそらく手代だろうと思うが、この店の者以外に人は出てこない。
静かな限りで、こういった飛び込みの客は少ないのかもしれない。
手代はうなずき、「こちらでは何ですので、どうぞ座敷へお越しくださいませ」と直樹を店奥へと誘った。
「これ、お客様を」
手代の声に出てきた年若い男が直樹を座敷へと案内した。

(2019/08/29)



To be continued.