大江戸夢見草



14


呉服問屋大泉屋のご隠居から託された紹介の文を薬種問屋柴丹屋に差し出した後は、直樹を値踏みするように見た後で、手代に奥座敷に通された。
座敷に座ったところで、すぐに茶が出てきた。
直樹は茶の香りを嗅ぎつつ、飲んだ振りで口にはしなかった。もちろん混ぜ物がされているのかどうか、香りだけではわからなかったせいだ。
お茶を置いたところで襖≪ふすま≫が開き、店主と思われる男が入ってきた。
細面で、ひょろりとした、店主には少々物足りない体格と言えようか。
「これはようこそお越しいただきました」
直樹は黙って頭を下げた。
「お名前もうかがわず、失礼いたしましたが、文によると高畑様の件でお使いに参られたとか」
そう言う自分も店主だと名乗りはしない。
あくまで秘密裏に証拠もなきように取り扱うためかもしれない。
「はい。思いあぐねていたところ、こちらを紹介されましてございます」
「さようでございますか」
店主はちらりと後ろを見た。
すると、するりと襖が開き、盆に薬袋を乗せた先ほどの手代が入ってきた。
「こちらの品はいかがでしょう」
「どうぞ」
手代が盆を目の前に置き、直樹に勧めた。
「失礼いたします」
直樹は断りを入れて薬袋を開き、中の生薬を嗅いだ。
「これは、母子ともに入っておりませんね」
直樹の言葉に細面の顔がぴくりと動いた。
「おや、異なことを言いなさりますな」
「私が知らないとお思いでしょうが、匂いが違います」
事実、独特の烏頭の匂いがしなかった。
もちろん他の生薬の匂いと混ざり合い、ちょっと嗅いだだけではわかりにくい。直樹にしても一か八かの賭け問答だった。
母が烏頭の根の本体部分、子がいわゆる附子と言われる子根の部分だ。
直樹が顔を上げて細面の顔を見つめると、手代と顔を見合わせてうなずいた。
「ようございます」
野太い声がして、細面の男が脇へ寄ると、更に襖の向こうからもう一人の男が現れた。
先ほど細面の男が座っていた場に現れた貫禄のある男が座った。
これぞ店主だろう。
「お客様を試すようなことをいたしまして、失礼いたしました。柴丹屋店主惣佐衛門≪そうざえもん≫でございます。この無礼はお品でお返しいたしましょう」
やはり、と直樹が思った通り、この細面の男は店主の振りをして客を品定めしていたのだ。
「お客様のお名前をうかがいたく思いますが、ここは高畑様の手前、やめておきましょう」
「そうしていただけると助かります」
「ところで、この生薬も決してお望みの処方に引けを取らないものでございます。もののわからない者は、これを持ってお帰りになっても、よく効いたとおっしゃるほどでございますから」
「ええ。これならば私が今まで処方したものとほぼ変わらないのです。これではもう効かないゆえにこちらに参ったのですから」
「そうでしょうとも。あなた様はかなりの目利きでいらっしゃいますが、その目利きはどちらで身につけられたのでしょう」
「長崎に遊学する前にあちこちの漢方医を訪ねました。高畑様には、長崎遊学時にお世話になりましたゆえ…」
その後は言葉を濁し、暗にそれ以上追及するなと店主を見据えた。
「さようでございましたか。お若いのに託されたことに少々疑念を感じましたもので…。なかなかに優秀な御仁でいらっしゃいますな」
「まだまだ修行の身でございます」
細面の顔の男が一度奥へ下がると、再び別の盆に乗せた薬袋を運んできた。
目の前に出され、先ほどと同じように薬袋を開けて中の匂いを嗅ぎ、そのうえで中身を懐から出した懐紙の上に出してみた。
「これは子根の部ですね」
「さようでございます」
「まずはお試しというわけですか」
「いきなり使うには母根では強すぎますでしょう。もちろん扱いに長けたお方なら問題はないでしょうが」
「わかりました」
直樹は丁寧にものを薬袋の中に戻した。
「これで救われましょう」
「いえ、お役に立ててこちらもうれしゅうございます」
直樹は頭を下げながら考えていた。
これだけならまっとうな商売のように思える。
たとえ烏頭が法外な金額だとしても、生薬として使えるようになるまでは多大なる苦労があるのだ。扱い方にしても同じく一筋縄ではいかないのだから。
「ところで、こちらの金額は」
笑みを浮かべたまま、柴丹屋店主は答えた。
「文にありましたとおりに処理いたします」
「そうですか。私はただの使いゆえに詳しいことは聞かされておりません。ただの目利き役でございますので」
「それも文にありましたので、ご心配はいりません。私どもは公明正大に商いをしておりますゆえ」
そう言うと、受け取ったという一筆だけいただきたいという。
正体を明らかにしない、という割には一筆を要求するのはどういうことだと思いながら、直樹は言われるがままに筆をとった。
今ここで正直に本名を書く必要はないと判断し、さらさらとさもそれが本当の名のように偽名を書いておいた。
長崎で代わりの文を書く代筆屋の真似事が役にたった。
何せ長崎では日々の生活を支えるために、金を稼ぐ必要があったのだ。
肝心の高畑様の屋敷には、一介の医師の弟子のことなど知らないとなるだろう。
既に紹介の文については既に薬問屋には問い合わせがいっているのかもしれないと直樹は思っている。待たされているその間にある程度の調べはつけてあるのだろう。
大泉のご隠居からのお願いとあれば、高畑様を診ている医師の弟子に紹介の文を書くことなどたやすいことだ。それが直樹のことだと言わなければそれで済む。
ご隠居の付き合いというものは、そういう類のものだということを直樹は知りつつあった。
また、生家の佐賀屋という今ではそこそこ大店で、日本橋の小間物問屋と言えば名が挙がるくらいの直樹の父も、おそらくそういう類の付き合いは少なからずあるのだろうと付き合いのある顔ぶれを見ればよくわかった。
直樹の偽名が果たしてこのまま通じるのかどうかはわからなかったが、少なくとも今ここで変に拘束されたり、人知れず葬られることはなさそうだと安堵した。
帰り道ももちろん油断はできないが、ここで人知れず葬られるよりはずっと安心できるくらいだ。
「それでは、用事も済みましたので、失礼いたします。このたびは私どものためにありがとうございました」
一通り挨拶を済ませ、薬袋を懐に忍ばせ、店表へと案内されて出ることになった。
表へ出ると何者かの視線を感じたが、それには気づいていない振りをして過ごすと、通りには行きにはいなかったご隠居が手配した駕籠がすでに待っており、直樹は駕籠に乗り込んで「お願い申します」と告げた。
駕籠はさすがに揺れるが歩きよりもずっと早くにいつもの薬問屋に運んでくれた。
打ち合わせ通りに薬問屋で薬袋の中身について薬問屋の主人と扱いについて相談すると、再び待たせてあった駕籠に乗り込んだ。
もちろん直樹が騙った名前も告げておくのを忘れなかった。
再び駕籠で運ばれた場所は、高畑様の屋敷の裏口だった。
ご隠居は、やるとなったら徹底的に工作をせねば意味がないと、本当に痛みで苦しんでいる高畑様を利用する形ではあるが、巻き込んだ。
もちろん高畑様方は難色を示したものの、直樹の処方で痛みが治まるかもしれないとなると、別に主治医がいても頼る気になったのだろう。
薬種問屋柴丹屋では、あくまでお使いであり、修業中の弟子であると印象付けたが、実質持ち帰った薬を与えるのは直樹の役目だった。
偽りの名前で通すために、あくまで裏口はただいま戻りましたとばかりにさっと通してもらった。これにはもちろんご隠居からの工作が効いているので、裏口の番人も暗黙の了解で直樹を通した。
そこまで見届けたのか、直樹をつけていた気配は消え、屋敷の敷地内に入ってようやく直樹も安堵したのだった。

 * * *

日が暮れる頃になっても直樹はなかなか戻ってこなかった。
これではとてもお琴を置いていけないと、おもとは思案した末にお琴に言った。
「お琴さん、気を悪くしないでほしいのですけども」
「なあに?」
「直樹さんが連絡もなく遅くまでお戻りにならないことはありましたか?」
「そうねぇ、患者さんの具合によっては」
「そうですか。今日は何となく直樹さんも遅くなりそうな気がしませんか?」
「そうかしら」
うーんと琴子はうなった。
薬種問屋に出かけると言ったが、その後に患者さんのところに寄るとは聞いていない。
「お琴さんをこちらで一人にしておくのは心配です。私と一緒に佐賀屋に行くか、私をこちらに泊めていただくか、選んでください」
有無を言わさず選択しろと言われ、お琴は目を丸くした。
「えっと、こういうときもあるから、大丈夫よ」
「でもですね、お琴さんはもうお忘れかもしれませんが、お琴さんは狙われてるかもしれないんですよ?」
お琴はおもとの言葉に思わず「そう言えばそうだったかしら」と思いだした。
なる坊のことや、おすみの失踪など、あれこれとありすぎて、根本的にお琴が目撃したことによって事態はお琴を中心にややこしくなっていることをすっかり忘れていたようだ。
「えーと、ごめんね、おもとさん」
おもとは呑気なお琴に自分のことは棚に上げて他人の心配ばかりをする癖をどうにかしてほしいと思っていたが、それもお琴の良い所なのだとおもとは息を吐いた。
「いえ、いいんですよ、お琴さん。でもね、心配しているのは私だけではないということを覚えていてくださいましね」
お琴はうなずいて「よくわかったわ、おもとさん」としおらしく言ったが、直後に訪れた患者らしき訪問者に気軽に戸を開けてしまっているのだから、本当にわかったのかどうか怪しいところだ。
それにしても、直樹が帰ってこないということは、何か不測の事態が起こったのかもしれないとおもとは思案した。
どちらにしてもこのままにしてはおけないので、おもとは早速文を一通書くと、ちょうどやってきたその患者に(患者でよかったとおもとはそっと胸をなでおろしていた)文を託し、佐賀屋に届くように手配した。確かに飛脚屋に急いで頼んでおくと請け負ってくれたので、おもとはほっとする。
患者自身も急患ではなくて幸いだった。
「こういう時、直樹さんがいないと困るのよね。あたしじゃお役に立てないこともたくさんあって。本当はお薬くらいお渡しできるといいんだけど」
そう言うお琴は、真剣にそう思っている様子だが、普段のお琴の様子を考えるとおもとは苦笑いしながら言った。
「そうは言っても、直樹さんが調合したお薬をお渡しするだけなら何とかなりそうですが、それも複数ある場合には間違えて渡したら大変なことですし」
「あら、これでもあたしも少しは…」
そこまで言って、何事か思いだしたのか、お琴は「まあ、そ、そうよね」と意気消沈した。
おもとはお琴の気を取りなすように言った。
「今夜はどうやら直樹さん遅くなりそうですし、食事の支度も先にしてしまいましょう」
「そうね」
二人して仲良く食事の支度をしていると、長崎での日々が思い出された。
「まだ長崎から帰ってきて一年もたっていないんですねぇ」
しみじみとおもとがつぶやいて、お琴はこの懐かしいような感じは佐賀屋でのことかと思っていたが、おもとの言葉に「そうか、長崎だ」と思い出したのだった。
「おもとさんと二人、こうやって直樹さんを待っていたわね」
「そうですねぇ」
「かすていら、おいしかったわよね」
「ええ。でも食べたのは一度きりでしたけど」
南蛮渡来のかすていらという菓子は、有名な長崎の名物でもあったが、さすがにおもととお琴の賃金では、そう食べるわけにもいかず、長崎から江戸に帰る前に一度だけでもと食べたのが最初で最後だった。
もちろん佐賀屋なら伝手をたどればかすていらも手に入るかもしれないが、やはりおもとにとってはお琴と食べたことが大事な思い出だった。
「そうそう、それからあのお総菜屋さん」
「ええ、毎日のように通いましたしね」
「おいしいものがたくさんあって助かったわ」
「直樹さんもお気に入りでしたね。私も教えてもらった料理は佐賀屋で作りましたよ」
「さすがおもとさん。あたしはいまだに失敗してばかり」
「そう言えばお琴さん、何やら直樹さんにもらっていましたね」
「…え?」
「ほら、この荷だけは自分で持つって言い張った大事なものですよ」
「…あ、ああ。その…それは」
「あら、内緒、ですか」
「途中で誰かに壊されるくらいなら、自分で持って壊れても諦めがつくかなって。でもちゃんと壊れずに持って帰ってこれたし」
「そんなに壊れやすいものだったんですね」
お琴は顔を赤らめて「ええ、まあ」と嬉しそうに微笑んだ。
「またいつか見せてくださいませね」
「…ええ」
おもとは今見せろとは言わなかった。本当はどんなものをもらったのか見てみたい気持ちはあったが、ここで見せろと言えばお琴は否とは言わなかっただろう。
いつもなら自分から見せてくるお琴がそれほど大事にしているものだ。無理に見せてもらおうとは思わなかった。
外は日が暮れてきたが、直樹が帰る気配はない。文も届かない。
本当なら心配で仕方がないだろう。
患者のためとはいえ、お琴はこんな夜をたびたび過ごしていたのだろうかとおもとは思った。
新婚でさえなければ小女(女中の少女)を雇うのも悪くはないかもしれない。
しかし、ただでさえ必要以上に女人に騒がれる直樹なので、生半可な小女ではかえってお琴の気苦労が増えるかもしれないと考えると、当分おもとが様子を見に通う方がよいかもしれないとの結論に落ち着いた。
それくらいなら佐賀屋の女将は決して反対はしないだろうこともおもとにはわかっていた。
「おもとさん、味付けこれでどうかしら」
お琴の言葉にはっとしておもとはお琴が味付けたという煮物を箸で摘まんだ。
「…食べられなくはありませんけど」
「えーっ」
女二人(やや語弊ありだがこの際考えない)、無事に夜を過ごせるか、直樹がちゃんと帰ってくるのか、おもとはあくまで呑気に陽気に過ごすお琴を改めて強くてありがたいお人だと思うのだった。

(2019/10/25)



To be continued.