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渡辺は岡っ引の親分の報告を聞いてその番所に駆けつけた。
確かに先ほどの遺骸を運ぶ際にもう一つの遺骸があるからと自身番に運んだのだった。
管轄外であるそのもう一つの遺骸の詳細を聞いていなかったので、まさか同じく饅頭を口にしての死亡とは知らなかったのだ。
岡っ引の親分と下っ引きに聞き込みに回らせて判明したのが、すみやより少し西、つまり大川(隅田川)を渡ったところで男が一人死んでいたという。
この男が饅頭を口にしたと知れたのは、番所に運び込んで口の中をのぞき込んでようやく知れたことで、誰も饅頭を口にしたところを見ていない。
そう思えば、お琴が見ていたすみやの袋というのは重大な証言になる。しかも現場からその袋自体は消えている。物がない、のだ。
少なくともすみやのお咎めは免れないだろう。
番所では渡辺の同僚であり、同じくらいに親から受け継いだ同心がいた。
本来同心は世襲ではないが、やはり同じようにその道に精通した者のほうがやりやすいということで、ほとんど世襲は黙認されていたのだ。
何せ町方同心と呼ばれて罪人や死人を扱う仕事であったので、不浄役人とも言われ人気はいまいちだったのだ。
「おお、これは渡辺殿ではないか」
分厚い丸眼鏡をかけた船津だった。
同じように眼鏡をかけた渡辺だったが、船津とは印象がかなり違う。
やや痩せ気味で、正直言えば剣の腕はからっきしと聞いている。その代わり頭はよく回るようで、手習い所でも学問所でもかなり成績は上位だったはずだ。
とはいえ、必ず上には上がいるもので、どうしても一番をとれないことがかなりの憂いだったと聞いている。
ちなみにその一番があの直樹だったのだ。
「久しぶり。どうやら同じらしいね」
「まったく。こんなことをしでかす輩の顔が見たいものだ」
「まあ、そうだね。早く捕まえないと何かとんでもないことになりそうで」
「とんでもないこと…」
「あ、ああ、すまない。ちょっと、うーん、どうかな、いや、まあ」
「全く話が見えませんぞ」
渡辺は直樹の名前を出すのを躊躇した。
これを鳥兜だと診たてたのは他でもないあの直樹だ。
直樹は実は面倒なことが嫌いだ。
自分の嫁が巻き込まれたことも腹立たしいに違いないだろうが、これから繰り返し話を聞く羽目になるかと思うと、早く解決せねばと思うのだ。
そしてその事情をこの船津に説明するのも気が引けるのは、いつも勝てなかった直樹に対する劣等感が半端ないものだからだ。
「ところでそちらでは確かに饅頭を口にした女がいるという話だが」
「ああ、やっぱりそういう話になるか」
「は?」
「あ、いや、そう、うん、いる、にはいるけれども」
「先ほどから随分と歯切れが悪いようだが、何か特別な事情が?」
「…実はそうなんだよ」
渡辺は開き直った。
悩んでも仕方がない。なるようになるだろう。
元々渡辺はいろいろ悩むには悩むが、最終的にはどうとでもなれという思い切りがよいほうだ。だからこそあの直樹と友人関係を築くことができたともいえよう。
「どこかやんごとない奥方とか?」
「まあ、そうとも言えるか」
「もしくは身分を隠した武家の奥方だったか」
そんな奥方が市井新興の饅頭屋に並ぶか?という突っ込みはかろうじて口にしなかった。
「それが偶然医師の奥方だったんだ。毒と診たてた医師の」
「ほお。それはかなり正確な話が聞けそうですね」
「…いや…それはどうかな…」
ごにょごにょと渡辺はその辺りをうまく誤魔化した。
「そのうち会う機会もあるだろうと思うよ」
そう言って笑った。
事情を知ったとき、どんなふうになるのかそれも楽しみだが。
少なくともこの番所に運ばれた遺骸は、外から見た時に多分毒だろうと言うくらいしかわからない。
口の中をこじ開けて初めて何か食べ物による死と判明したのだ。
そこからさらに饅頭であると判明したのは、診たてた医師が橋のこちら側での事件を知っていたからに他ならない。
どこか別の場所で全く別の医師が何も知らずに診たてたとしたら、もしかしたらわからなかったのかもしれない。
同じような遺骸がないかどうか、やはりもう一度探らせる必要があると渡辺と船津は確認し合い別れた。
* * *
店先で手に入れたばかりの読み売りを手に、日本橋は小間物問屋・佐賀屋の女将が奥を仕切っているおもとの元へやってきた。
「女将さん、そんなに走っては他の奉公人に示しがつきません」
「あら、おもと、今はそんなこと言ってる場合じゃないわ」
そう言いながら刷りたての匂いも新鮮な読み売りを見せた。
「ほら、ここに川のこちら側でも男が一人倒れていたって。もう亡くなったみたいだし、どうやら口の中から饅頭が出てきたって」
「まあ、そんなことまで?読み売りってそんなに早くできるんですか」
「さあ、そんなことは知らないけれど、一件目がお琴ちゃんとあなたが遭遇した事件だとすれば、やはりこれは二件目ということになるのかしらね」
「でもすみやの事件も確かに朝早くでしたけれど、読み売りでそれほど早く刷れるものなのでしょうかね」
「そこにこだわるのねぇ」
「だっておかしいですよ。親分さんたちだって走り回ってようやくつかんだ話でしょうに」
「…そう言われてみればそうなのかしらね」
「それに、饅頭と言ったって、証拠も何もない状態で、まだすみやのものと決まったわけではないですし、すみやも災難でしょう」
「女手一つで苦労したでしょうにね」
「ええ、本当に」
そう答えながらおもとは何かわざと読み売りに話を流している者がいるのではないかと疑っていた。
お琴とおもとが遭遇した事件の時間からさほど経っていない。
あらかじめまさか事件が起きることを誰か知っていた?
それでは読み売りすらも共犯ということになってしまう。そんなことあるだろうか。
おもとはぶるっと身を震わせて「ああ、いやだ。変なこと考えちゃったわ。余計なことに首を突っ込むのもほどほどにしなくっちゃ」とつぶやいたのだった。
* * *
饅頭毒殺の事件で患者の噂は持ちきりだった。
診療を一通り終えて一息入れる頃、入江堂に岡っ引の親分がやってきた。
「ごめんよ、先生」
下っ引きを一人従えて、のっそりと入ってきた。
「あら、先ほどの親分さん」
「ちょっといいかな、おかみさん」
「ま、おかみさんだなんて」
「こりゃまた初々しいこって」
「うふふ」
「…親分」
「お、こりゃ失礼。先生は今時間いただけるかね」
「はい、ちょうど患者さんたちも途切れましたので。伝えてきますのでお待ちください」
そう言ってお琴は直樹に声をかけに行った。
「先生、親分さんがお見えです。少しお話がしたいようで」
「聞こえていた。上がってもらいなさい。しばらく表に札出して」
「はい、先生」
お琴は言われた通りに入口表に『急患につきしばらく診療止め』との札を置いた。
そして岡っ引と下っ引きの二人を案内して奥へ通した。
お琴はお茶を用意するために台所に向かったが、話が気になって仕方がない。
そっと診療部屋をうかがった。
「先生、手間かけさせて悪いね」
「いえ、お役目お疲れ様です」
「…渡辺の旦那は、先代の頃から知ってるんですがね、そりゃもう温厚で、こんななりで同心なんか務まるのかと思っていやしたが、案外うまくいくもんですね。
その旦那にちくりと言われやした。嫌になるほど冷静で、博識で、他人にも厳しいが自分にも厳しい御仁が先生だと。話さないことはたくさんあるが、信用は出来るのだと。
おっと、先ほどは名乗らず失礼いたしやした。あっしは深川で、うちのかみさんが惣菜屋を商ってる平吉でございやす。
こっちは下っ引きの箕吉。同心にはよくきちきちとまとめて呼ばれたりもしやす」
ここまで岡っ引の平吉親分が話したところでお琴がお茶を運んだ。
「ありがたいことで、いただきやす」
そう言って親分はお茶を飲んだ。下っ引きの箕吉は頭を下げただけで手は付けない。
「それで、御用は」
平吉親分がのどを潤したのを見計らって直樹は言った。
「二人目の殺しが出たことは承知ですかい」
平吉親分の目の色が変わった。
「先ほど患者が話していた。二人目も饅頭が原因だったとか」
「その通りで。おかげでそこら中の饅頭屋が迷惑してるかと。特にすみやは」
「他の饅頭屋にはない特徴がすみやにはあるのですか」
「すみやの一番の売れ筋は酒蒸し饅頭だった。これは承知でしたね」
「お琴が買ったとかいう」
「もちろん他の饅頭屋にも酒蒸し饅頭は置いてありやす。
おすみが…あ、すみやの女将ですが、自分の所の品かどうかは見ればわかると言い張りまして」
「それで、すみやのものだったんですか」
「残っているものが少なすぎやすね。袋に入っていたはずの饅頭もない。怪しいことこの上ない」
「まるでどこかの誰かがすみやを陥れようとしていると」
「それも考えやした。おそらく旦那もそう考えているかと」
「しかし、すみやが陥れられる訳は」
「はい、それは表向き妬みかと」
「表向き」
「それで終われば苦労はねえんで」
「誰でも考えることですね」
「ええ」
「それでわざわざうちへ来たわけは」
「朝の非礼を詫びにです。
それと旦那がお知恵を拝借してこいと」
「たった一人の遺骸を見ただけだ」
「ええ。ですから、もう一人も同じ手口かどうか見てもらいたいんで」
「今から見に行けと」
「いけませんか」
「ありがたいことにそう暇ではないし、検視医でもないんだが」
「それは承知の上でお願いに上がりやした。どうか旦那の顔を立ててやってください」
「先生、行ってあげてください。渡辺さまのお願いですよ。数少ないご友人ではないですか」
部屋の中が見えるとはいえ、余計な口を出してはと外から様子をうかがっていたお琴だったのだが、つい口を出してしまった。
直樹は特別嫌がる素振りもせずにちょっとだけため息をついて言った。
「数少ないは余計だ、お琴」
「はぁい」
お琴は首をすくめて失言を誤魔化した。
「行ってくれるんで?」
「お琴、急な患者がいたら言伝を頼む。場所は?」
直樹の言葉に平吉親分はにやっと笑った。
「新大橋を越えたところの番所になりやす。ご案内いたしやすよ」
「両国橋ではなかったのか」
思わず直樹はつぶやいた。川向うだとは聞いていたのだが、すみやの位置からすれば大川を超えるには両国橋の方がより近いからだ。
「それはどういう了見で」
「新大橋を越えると、武家屋敷を越えねば町民は足早に通り過ぎるしかない。そんなところで粗相をすればそれこそ何を言われるかわかったもんじゃないからな」
「さようで」
「何も遠回りして新大橋に回らねばならない理由なんて何かある、としか言えないが、倒れていた時間が違って遅かったのは、口にした時間が違っていたからだろうか」
「おそらく」
「それから食べた量にもよるだろう。どちらにしても死んでしまえば一緒だ。やはり毒性の強いものを口にしたとしか思えない」
「それを先生に診てもらいたいんですよ」
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
念のため往診のための包みを持って出かけていくのをお琴は見送ったのだった。
「おーい、お琴ちゃん、先生、まだかい」
札を別のものに替えておくのを忘れたと気付いたお琴は、慌てて表へと向かった。
「ごめんなさい。先生、たった今往診に行かれたのよ。戻ってくるのにちょっと時間がかかるかもしれないの。もしも急な症状でなかったら、もう一度出直していただけますか」
「そうか、ちょいと間が悪かったな。いつもの薬をもらいに来ただけだし、また出直してくるか」
「ごめんなさいね」
そう謝りながら、お琴は急患の札から往診の札に替えた。
庭の奥にある梅はきれいに咲いた。
桃の花は見かけないが、そろそろ咲きそろうだろう。
桜はどうだろうか。
春になったら直樹と二人、少しくらいはのんびりと桜を眺める時間もできるだろうと思っていた。
庭の片隅に埋めた饅頭を思うと気分は複雑だ。
本当なら今頃おいしくいただいていたかもしれないのに、と。
埋め戻した場所は少しだけこの陽気に似つかわしくなく湿っている。
饅頭も残念だが、あの店はこのままでは商いをやっていけないだろうとお琴は心配になった。
食べ物屋は信用が大事だ。
お琴の父も大きくはないがそれなりの料理屋を営んでいる。
同じことが父の店でも起こったら。
お琴は頭を振るった。
ありえない話ではない。
たとえ父がどんなに善良で誠実に商いを行っていても、誰かの悪意がそこに絡む限り。
すみやには子がいたという。
どうやって養っていくのだろう。
お節介と言われるかもしれないが、一度様子を見に行ってみようとお琴は考えた。
たすき掛けの紐を解くと、戸締りをして、お琴は出かけることにしたのだった。
(2017/07/06)
To be continued.