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すみやは佐賀屋からすれば間口の狭い裏通りに匹敵する小さな店だ。
しかし江戸においてはそういう小さな店が少なくない。
それでもそこに居を構えて店を切り盛りするのは並大抵のことではない。
店を買い取る資金もさることながら、材料の調達にも金子≪きんす≫は必要だ。
すみやの通りは賑やかでないものの、人通りは少なくない。小さな通りなので、早朝や日が暮れればもちろん人通りは途絶えるだろうが。
やっとのことで構えた店、という気がした。
お琴はすみやの戸口前に立ちながら、小さいながらもそれなりに整えられた店構えの前でそう考えた。
「ごめんくださいませ」
戸口の前でそう声をかけたが、返事はない。
これだけ騒がれればそう素直に出てくる方が珍しいだろう。
裏に回ろうにも裏口は見当たらない。庭があるような家ではないからだ。
「ごめんください、どなたかおられませんか」
もう一度そう声をかけた時、隣から人が出てきた。
「おすみさんは留守だよ」
「そうですか。子どもさんはどうされてますか」
「なる坊だね。それなら、向かいの店に預けられているようだよ」
「なる坊…。男の子なんですね。あの、おすみさんは…」
「…ああ、番所だよ」
ああ、やはり、とお琴は心配していたことが当たって心が痛んだ。
まずはそのなる坊とかいう子どもに会うことにした。きっとおすみさんは心配しているだろうから、と。
向かいの店は酒屋だった。
もしかするとすみやの酒蒸し饅頭の酒はここで仕入れているのかもしれないとお琴はようやく気が付いた。
「ごめんくださいませ」
今度は向かいの店でそう声をかけると「はい」と涼やかな声がした。前掛けをした若い女衆が出てきた。
「すみやのなる坊はこちらでお世話になっているとお聞きしました」
「あ、はい。どちら様で」
「これからおすみさんに会いに行くのですが、なる坊の様子をお知らせしようかと思いまして。あ、申し遅れました。私、本所で医者をしております入江堂の者でございます」
「はあ」
おすみとどういう関係があるのかやはり訝しげだ。
「ちょうど私の連れ合いが番所に伺っております。私も行くついでになる坊の様子を、と」
「あ、ああ、そうでございましたか。少しお待ちくださいませ」
納得した様子はないが、奥に主を呼びに行ってくれたようだ。
しばらくするとやや赤ら顔の主がやってきた。
「おすみさんに会いにとお聞きしましたが」
「ええ。私は直接なる坊に会ったことはございませんが、おすみさんはきっとなる坊の様子が知りたいだろうと。よろしければなる坊に会わせていただけませんか」
「入江堂の、と申されましたか」
「はい。まだ居を構えたばかりでご存知ではないかと思いますが」
「いえ。あの日本橋の佐賀屋のご嫡男でいらっしゃったという方ですね」
「…はい、そうです」
「若いのにたいそう腕がいいとか」
「腕は確かです。長崎帰りで外科技術も備えております」
思わず直樹の宣伝には力が入った。
それを感じたのか、酒屋の主人はちょっと微笑むと決心したようにうなずいた。
「噂では、その入江堂の医者が検分を行ったとか」
「それもご存知で」
「ええ。もちろんです。他らならぬおすみさんの関わりですから」
「実は、倒れた男を見ていたのは私なのです」
「そうでございましたか…」
「私には、確かに饅頭を口にしたように見えましたが、すみやの饅頭を買っている姿は見ておりません。私、かなり朝早くから並んでおりましたが、男の姿を見かけていないように思うのです」
「それなのに偶然饅頭を口に」
「ええ。変です。なので、気になって気になって…。
それだけでも告げたいと番所へ行こうと」
「わかりました。ようございます。上がってくださいませ」
お琴は酒屋の奥座敷へと案内された。
座敷でしばらく待っていると、そこにきりっとした坊やがやってきた。
もっと幼くて、突然母親が番所に連れていかれるという事態に泣いていたのではないかと思っていた。
「まあ。賢そうな坊や」
思わずそうつぶやくと、なる坊は突然現れたお琴を睨むようにして言った。
「おかあちゃんにあいにいくなら、いっしょにいく」
「…残念だけど、それはできないわ」
「どうして」
「番所には、面会に子どもを受け入れてくれないの。それに、おすみさん…なる坊のお母さんは、きっとすぐに出てくるようにあたしがきっちり話してくるから、ここでお利口にして待っていてほしいの」
「うそだ」
「嘘でも何でも、今は待っていて。ちゃんと待っていてくれないと、おすみさんも心配してしまうわ」
お琴が重ねてそう言うと、なる坊はようやくうなずいた。
やっと安堵してお琴はなる坊をしっかりと見た。
いずれは自分も直樹との子どもを産むかもしれない。
そう思うと、自然と顔がほころぶ。
つい妄想があらぬ方向に行きそうになったとき、からりとふすまが開いて姿勢を正した。
お茶をごちそうになり、見ただけではわからなかったなる坊の様子を聞いて、お琴はおすみに必ず伝えると約束した。
お礼を言って酒屋を出たが、その番所には直樹が岡っ引の親分と一緒に行っているはずであった。
思い立ったが即行動のお琴は、入江堂を空にして出てきたことをとがめられるかもしれないだとか、来るなと言われるかもしれないことも忘れて意気揚々と番所に向かったのだった。
* * *
途中で差し入れも買い、番所に着く直前になってようやく直樹と岡っ引の親分のことを思い出した。叱られたらどうしようと思ったが、来てしまったものは仕方がない。
度胸だけはあるお琴は、意を決して番所の門をくぐった。
早速すみやとの関係を聞かれて困ってしまった。
「直接の関係はございませんが、うちの者が医者をしているので」とあいまいに答えると、勝手に解釈したのか面会を許された。
もちろんおすみは琴子を見ても首をかしげるばかりだ。
「…あの日、一度買いに来てくださった方ですね」
「はい。よくぞ憶えていてくださいました。あたし、あの日倒れた男のそばにいました」
お琴は少し安堵して答えた。
「それで、その饅頭はうちの物でしたか」
「いえ、はっきりとは。袋はもしかしたらすみやのものかもしれませんし、似せた別のものかもしれません。すみやの袋はそれほど特別なものではなかったと思いますが」
「ええ。そこまではさすがにお金をかけることは出来なくて」
「饅頭にしても、確かに白いもの、だったように思いますが、あれが酒蒸し饅頭かどうか、ましてやすみやの饅頭かどうかなどわかりません。現物がないのですから」
「そのようですね。口の中に残ったものは饅頭だったとうかがっております。ただ、それだけなのですが…」
「大丈夫、きっと釈放されます。気をしっかりお持ちください」
ここでようやくお琴は本来の目的であるなる坊の様子を話すことになった。
お琴が話すなる坊の様子を少し涙ぐんで聞いた後、おすみはお琴に向かって深々と頭を下げた。
「いざとなればうちか、もしくは佐賀屋でお引き受けするとお約束します」
「まあ、あの佐賀屋の…。見ず知らずの私のために…ありがとうございます…」
「あたし、まだ饅頭を食べていないのです。ぜひ一度、いえ、一度と言わずすみやで売られている他のものも食べたいんです。そのためには早くこんなところから出してもらわないと。
それに、どう考えたって確かな証拠もないのに引っ張られるなんて間違っています」
「…私を、信じてくださるのですね」
「最初から、何かおかしいんですよ。きっとそれには調べている方もわかってくださっています。渡辺さまはうちの旦那さまの友人です。決して無茶なことはしないはずです」
「あら、でも、ここの同心は…」
「面会が来ているって?」
そう言って顔を出したのは、やや冷たそうな印象を受ける眼鏡をかけた痩せ型の同心だった。
お琴は慌てて頭を下げた。
「渡辺がどうとか…」
「お世話様です」
「渡辺殿の知り合いか」
「恐れ入ります、うちの旦那さまが手習い所と道場での知り合いなのです」
「見たところ武家ではないようだが」
「は、はい。商家の出でございますれば」
「商家…。もしや…」
「もしや?」
「いや、まさか、あの朴念仁が」
「まさか、同心さまも旦那さまをご存知だとか…?」
「確か佐賀屋の…」
「あ、そうです、佐賀屋の嫡男でございました」
「旦那さまということは」
「…あ、はい、その、私、嫁でございます」
ここで頬を赤らめてそう答えたお琴は多分悪くない。
「なんだとー!嫁が!あいつが嫁を!あんなに愛想の欠片もない欠陥人間のようなあいつに嫁が!」
お琴はその驚きようにちょっとだけ引いた。
しかも大事な旦那さまを欠陥人間とまで言われて、むっとしていた。
「同心様、うちの旦那さまは長崎まで留学に行ったほどの医師でございます。さすがに欠陥人間とは…」
「あいつは庶民の出のくせしていつもいつも俺の前を…」
この辺りで鈍いお琴も少しわかってきた。
庶民の出の直樹に武家のこの同心は負けていたのだと。
そりゃそうかもしれない。直樹は手習い所でも道場でも並ぶ者などないほどの出来の良さだったのだ。
あまりその辺りは突っ込まない方がよいだろうと悟った。
既に話がどんどんそれている。
おすみも目を丸くしてお琴と同心の会話を聞いていた。
隣から同心について来たらしい目下の者がさりげなく同心をなだめている。
どうやらこんなことは初めてではないらしい。
「船津様、それよりもおすみの関係者となれば話を聞かなくてもよろしいので?」
「…おお、そうだった」
船津と呼ばれた同心は立ち直った。
「それで、どのような関係なのだ、このおすみと」
「関係と申されましても、渡辺さまにはお話ししましたが、ちょうどすみやの前で並んで買い終えたところで目の前で男が一人何かを口にして倒れたところを見た、としか言えませんが」
「それで、それだけのためにこちらへ?」
「だって、きっとおすみさんは関係がない、と思いましたから。それなのに番所で責められるなんて」
「仕方がなかろう、二人も死人が出たのだ」
「でもそれもただ、饅頭を口にしていた、というだけで、すみやの饅頭とは限らないと思いませんか」
「わざわざ別の饅頭屋の前で別の饅頭を食べて?」
「それがおかしいのですよ。普通は店の前で倒れたら、疑いは必至です。いっそ他の場所で倒れてくれればすみやの饅頭とはわからずに済んで嫌疑がかけられないと思いませんか。あたしなら絶対そうします」
「絶対、とな」
「はい。疑いがかからないようにするのはそれが一番でございましょう」
「もしくはそう言われるのをわかっていて偽装したかもしれないぞ」
「そんな裏を書くような真似をして、いったいその男とおすみさんとの関係は?」
「身元はまだわからぬ」
「だいたいおすみさんにその方の顔さえ見せていないのでしょう?今ようやく繁盛してきたところで無差別に毒を入れますか?それとも無差別を装ってその男を狙っていたとか?そうであれば今すぐおすみさんに見てもらうべきです」
「おっしゃる通りで」
思わず口走ったとというように隣にいた同心の目下の者が言った。
言ってからはっとして船津の顔を見た。
「よかろう。一人はこの番所に運び込んである。検視も一通り済んだ。身元がわかるようなものは一つもつけていなかった。逆に怪しいとも言えるが」
おすみはうなずいた。決心してその男を見るつもりだろう。
「あ、あたしは遠慮します」
ちょっとだけ後ずさりしながらお琴は言った。
正直すでに毒殺された遺骸、というのは苦手だ。目の前で患者が亡くなるのとはわけが違う。
「まあ、そう言わずに」
そう言って背中を押されるようにしてその遺骸の元へ。先ほどの意趣返しとも思われる。
「おお、そう言えば、佐賀屋の直樹殿は先ほど死体検めに来ておった」
「あ、そう言えば、もう先に帰ってしまわれたのね」
「何やら熱心に見てはおったが、口から饅頭を取り出したくらいで何をするということでもなく帰っていったぞ」
「それが目的でございましょうに」
「何か言ったか」
「いえ」
「医者はともかくその奥までもが冷やかしに参るとは」
「冷やかしで参ったわけではございません。それで、何かおっしゃっていましたか」
「いや、何も」
「…何も?もう帰ったとおっしゃいましたね」
船津は神経質そうに眼鏡をいじってお琴を見た。
「久々に会ったというのに、何も話さずに帰っていったぞ」
「今はお武家様で同心でいらっしゃるので、きっと遠慮してものを申すことをしなかったのでございましょう」
「そうか?あまりそのようには見えなかったが。相変わらず無愛想だった」
「直樹さんはもう一人の死に人も検分しておいでです。きっと何か見つけておすみさんの無実を証明してくださいますよ」
お琴は自分のことのように胸を張った。
船津は一つ障子戸を開け放つと、おすみとお琴に言った。
「その方ら、この死人の顔を見たことはないか」
予期せぬいきなりの遺骸の登場にお琴は「ひ〜」と息をのんだ。
おすみはしっかりと遺骸を見つめた後、「…存じ上げません」と答えた。
「そうか。ならば戻れ」
「そんな。まだ釈放されないんですか」
「ならん。調べが済むまでは」
「何よ!直樹さんに敵わないくせに!」
勢い込んで言ってしまってから、お琴ははっとした。
…言い過ぎた。それもとんでもなく怒りに触れることを、しかも武家に向かって。
言われた船津はぶるぶると体を震わせている。
「畜生!いつもいつもいつも…」
手打ちになったりしたらどうしようとお琴は思わず青ざめた。
ちょっと後退りながら「え、えっと、し、失礼いたしました」あいさつもそこそこにお琴は番所を慌てて飛び出した。
ここは逃げるが勝ちかもしれない。幸い誰にもとがめられなかった。
番所から「俺は二番だけじゃないぞー!」と叫び声が聞こえ、思わずあの苦労していそうな目下の者に同情したのだった。
(2017/08/29)
To be continued.