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琴子が家に帰り着くと、既に患者が何人か診察を待っていた。
慌てて中に入り、直樹の様子を見ると、直樹は全く琴子の方を見ようともせずに熱心に患者を診察している。
「ただいま戻りました」
琴子が声をかけると、ちらりとこちらを見たがすぐに患者に視線が戻る。
もしかしてやはり怒っているのだろうかと琴子は首をすくめて茶の用意をすることにした。
帰りに佐賀屋にも寄ってきたので、佐賀屋で持たされた数々の品を台所で広げた。
一つは甘味だ。さすがにどこの饅頭も買おうと思わず、いつもの団子屋のものだ。団子屋のおやじさんは急に繁盛し始めたことに首をかしげていたが、お琴にはなんとなくわかった。
川向う、日本橋付近でも饅頭殺しの話は大きな話題ではあったが、まさか自分の身に降りかかるとは誰も思っていない。
それでも饅頭を敬遠するのだから、商売はどう転がるのかなかなか難しい。
同じく商売人である佐賀屋でも饅頭殺しの一件はかなりの衝撃だった。
おもとは同じように庭の片隅に饅頭を埋めたのだが、その饅頭に毒が含まれているとは思っていない。むしろもったいないとさえ思っていた。
もしも本当に毒が含まれていたら、こんなところに埋めていいのだろうかと悩むに違いない。
誰かが毒味をするわけにもいかないし、何かに毒味をさせるのも大変なことだ。
たかが饅頭、されど饅頭だ。
今度は団子に毒がとなったら、何を食べたらよいのだろうと悩むくらいのものだろう。
それでも、お琴が話したおすみの話となる坊の話を聞いた佐賀屋の女将とおもとは、ひどく同情して何かあったら助けになるとお琴に請け負ったのだった。
お琴は一通り二人に話をして、ようやく少しだけ胸のつかえが下りた。
何かあればなる坊を引き受けるつもりはもちろんある。
それでも、まだ自分たちの子どももいないお琴だ。おまけにその話はまだ直樹にもしていない。むしろ安請け合いするなと怒られる可能性さえある。
そんな中で佐賀屋の協力が得られるとなれば、かなり心強いことに違いない。
それをどう話すかが問題だった。
他に佐賀屋で分けてもらったお菜を片付けて、お湯を沸かした。
鉄瓶がしゅんしゅんと音を立てるにつれて、診察を待つ患者は減っていくようだった。直樹が手際よく患者の診察を済ませているのだろうとお琴は思った。
ようやくお茶の用意ができて直樹の元へ行った。
診察場に入ると一息ついていて、最後の患者が帰っていくところだった。
「お疲れ様です」
そう言ってお茶を出すと、直樹は首を回してからお茶を受け取った。
直樹はお琴の入れるお茶が好きなようで、これは佐賀屋にいる頃からお茶だけは文句を言わずに飲んでいたのだ。
「あの、直樹さん」
「佐賀屋に行ってきたのか」
「え、ええ、はい」
「それで?」
「その、おすみさんにお子さんがいるのはご存知ですよね」
「ああ、そうだったな」
「そのなる坊…なる坊と呼ばれている坊やがお向かいの酒屋に預けられていて、様子を見に行ったんです。それから、その、番所にも顔を出して…。もう直樹さんはいなかったけど」
「あいつがいただろう」
「あいつ…?」
「眼鏡の小うるさい役人」
「あ、ああ!船津さまという同心ですね。直樹さんにいつも負けていたとかいう」
そこで直樹はお琴を見た。
さらりとひどいことを言ったのだが、お琴は気づいていない。
「何か言っていたか、あいつ」
直樹も役人である船津に対してかなり尊大な言い方なのだが、それもお琴は気にしていない。
「それが…おすみさんを疑うばかりで全くきちんと調べようとしないの。いくら言っても聞く耳持たないって、だから二番なんだわ!」
お琴の憤りに直樹は少し噴き出した。
お琴は番所で言い募ったことを直樹に話した。すっかり怒られるかもということなど忘れている。
「役人だからこそしっかりとした証拠がなければ釈放もできないんだろう」
「そうかもしれないけど。最後はだから直樹さんに負けるんだって言ったら」
お琴はばつが悪そうに首をすくめた。
「なんだかちょっと大声でわめきだしちゃったから、さっさと帰ってきちゃった」
直樹にはその様子が容易に想像できたのだが、それもただ苦笑するにとどめた。
次の瞬間、お琴は直樹の空気が変わったのがわかった。
苦笑していたはずの直樹がすっと笑みを消したのだ。
「ところでお琴。黙って一人で番所へ行ったな」
「す、すみません」
「あんな変態野郎のところに一人で行くなど、危ないだろ」
「へ、変態野郎…」
「ちょっと本当のことを言っただけで喚き散らす輩など、変態で十分だ」
そ、そりゃそうかもしれないけどぉとお琴は小さくつぶやいた。
二人とも同心に対してかなりの言い草だ。
「そ、それでね、おすみさんの番所留めが長くなった時には、なる坊をお義母さまたちと一緒に面倒を見ようって」
直樹は一つため息をついて「おまえのおせっかいは度を越している」とだけ言った。
「でも、やっぱり心配で。それにあたしの目の前で人が死んだって言うのに、何にも役に立たないんだもの。お願い、直樹さん、あたしも何かの役に立ちたいの」
直樹はもう一度ため息をついた。
「あまり一人でうろうろしてくれるな」
「はい」
「心配で仕方がない。今後番所に行くときには誰かと一緒に行ってくれ」
「はい、心得ます」
お琴の返事を聞いて、直樹は「茶をもう一杯くれ」とだけ言った。
これでこの話は終わり、というわけだ。
お琴は満面の笑顔で「はい」と元気よく答えたのだった。
* * *
数日が過ぎた。
あれから饅頭による死人はない。
親分も同心も聞き込みに躍起だが、有力な話はつかめていないようだ。
そんな日々の中で直樹には往診の依頼があった。
「では行ってくる」
正直今回の往診先は非常に気まずい。
しかし、直々に頼まれたとなれば、いつもの医師ではまずい内容なのだろうと直樹は考え直し、依頼に来た使いの者に一人で行きますと応えたのだった。
お琴にはどこに、とは言わなかった。
身分を隠したい人らしい、とだけ伝えた。
「行ってらっしゃいまし」
お琴はいつものように直樹を見送った。
風呂敷包みを抱えて歩き出すと、往診先とされた方向とは逆の方向に歩き始めたのだった。
静寂で瀟洒≪しょうしゃ≫な屋敷の前に立った直樹は、黙ってその門をくぐった。
門は開かれていて、直樹が訪れるのを待っていたかのようだった。
奥に進むにつれて風流な庭の風景が見えたが、立ち止まって見たりはしない。
前方の玄関口にはすでに男衆が立っていて、直樹が入り口をくぐるのを待っていたからだ。
直樹が屋敷の入り口をくぐると、背後の方で屋敷の門が閉まったのが聞こえた。誰もいないように見えたが、さりげなく誰かが待機していたらしい。
「こちらへ」
短い言葉に誘われて、直樹は草履を脱いで上がる。
お琴に用意してもらった一番まともな着物に足袋を用意してもらったが、それでもこのきれいに磨かれた廊下を汚すのではないか、整えられた部屋に土足で踏み込むようで気が引けた。
かつては自分も同じように磨かれた廊下と部屋を持つ屋敷に暮らしていたにもかかわらず、だ。
寝ているはずの主は起き上がって、しっかりと座って直樹を迎えた。もちろん寝床などない。
「ようおいでくだされた」
「ご無沙汰しております」
丁寧に頭を下げた直樹は、しっかりと主の顔を見た。
そのしわすらも威厳を持った人物は、呉服問屋の大御所・大泉屋のご隠居だった。
何で呼ばれたのか、この時点では直樹にはわからなかった。
ただ、以前配下の者と一緒にお琴も巻き込まれた大店の娘ばかりを狙った陰謀に関わったことがあった。
あれっきり、と約束したはずだった。
何せ直樹は一介の市井の者であり、お琴が巻き込まれたために一時協力しただけのことだ。
しかし、今日の往診の願い出に直樹は粛々と従い、悟った。
ただの往診願いではないと。
それでも大泉屋には借りがある。
かつての婚約破棄の件でもそうだが、お琴の救出に無理に願い出た所業のこともある。
ご隠居からは「沙穂の件は関係がない。むしろお琴さんの危機に関してそちらに伝えたいことがある」と内々に伝言があったのだ。
お琴の危機と聞いて直樹が動かないわけはない。
それすらも計算のうちだったのか、本当にお琴の身を案じてのことなのか。
お琴は大泉屋のご隠居の顔を知ってはいるが、ご隠居だとは知らない。いずれそれもまた知るのだろうが、今は知らないままでいてほしい。
「お琴さんは元気かな」
「はい、人一倍」
「それはよかった。長崎まで追いかける気概は、うちの孫娘にはないな。さすがお琴さんだ」
「その節は大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」
「いや、そのことはもう過ぎたことだ。それよりも、そのお琴さんにいらぬ手が伸びようとしている」
「はい」
その話を聞いたので、気が乗らないままここまで来たのだ。
「先日から世間を騒がせておる饅頭毒死の件は十分承知しておろう」
「検視もいたしました身でありますから」
「お琴さんは、何を見たかね」
「多分、何も」
「…そうだろう。しかし、そうは思わぬのが悪人。疑心暗鬼に今頃は狂っておろう」
「もしかして、何かを見たかもしれない、と」
「おすみさんとやらにも会いに行ったそうな」
「はい、お節介が過ぎまして」
「それはお琴さんの良い所であり、悪人にとっては痛い腹を探られることになろう」
「おすみさんの店が狙われた理由は」
「坊やがいるのを知っているかね」
「はい。お琴が会ったそうです」
「よくある話だ。坊やの出自が」
「ああ、そうですか」
「お琴さんが狙われるのはただのとばっちりじゃが、直樹殿にとってはそれでは済まないだろうて。もちろんその話を聞いたわしにとっても」
「もちろんです」
「わしの配下の者を使ってくれて構わない」
「でもそれでは目立ちます」
「お琴さんに知られるのはまずいかね」
「あれはそのままでいてほしいのです」
「それではどうする」
「知り合いをあたってみます」
「西垣殿かね」
「それ以外でも、お琴のためならば骨を折ってくれる有能な者たちがいます」
「それは信用できそうなのかね」
「俺のことは信用していないでしょうが、お琴のことは信用しています。そして、お琴のために動くならば、協力してくれるでしょう」
「お琴さんは、恵まれたお人じゃな」
「違います。お琴自身が作り上げた信用と人望です」
直樹はふと笑った。
自分自身のお陰とはとても言えない。何せ家族すらも直樹よりお琴をより信頼しているのだ。
直樹は昔から近寄りがたい、何か裏があるように思われるのが常だったからだ。
「何か不都合があれば遠慮なく。こちらもそのように対処しよう」
「手前勝手ですが、そうであればありがたいことです」
「お琴さんとの子は」
「…まだですよ」
「そうか。楽しみなんじゃが。年をとると次の世代だけが楽しみの糧で」
「沙穂さんがいるではないですか」
「いずれどこかからか見つけなければならないじゃろうが、沙穂自身がうんと言わねば難しいことでな。あれでも意外に頑固者で」
さすがに沙穂とは添い遂げることはなかったが、これはこれで直樹にとっては耳の痛い話だ。
「それでは、ご隠居様。少し失礼して診察を行います」
「なに?診察していくと」
「はい。これではお琴に顔向けできません。それに、医師となった私の腕をお試しくださるものと思っておりました」
「わしはこれで結構元気だと」
「それはわかりますが、いざとなった時に口の堅い医師がもう一人いるのも悪くはないでしょう。それに、私の専門は外科手術です」
「確かにわしの主治医は本道(内科)じゃな」
大泉屋のご隠居は、望めば御典医(将軍を診る医師)すらも呼べる豪商の一人だ。医師になりたての直樹など足下にも及ばない。
それでも、孫娘である沙穂との見合い話を蹴ってまで賭けた医師への道を進んだ直樹としては、一年間とはいえ長崎まで修行に行った成果を見せるべきなのだろうと思ったのだ。
そんな直樹をご隠居は、目を細めて見るのだった。
* * *
「いよいよきな臭い話だな」
団子屋で西垣は通りを眺めながらそうつぶやいた。
「そうよね。本当にその通りだわ」
同じく団子を頬張って、艶やかなる奉公人のおもとはそう答えた。
「何だって俺まで呼ばれるんだ」
団子には手を付けずにそう息巻いたのは、大工の啓太だった。
「いいじゃないの。お琴さんのためよ」
おもとはほら食べなさいよと団子を勧める。 「捕まったら」
「打ち首獄門の末…とかかしらねぇ」
「や、やめろよ」
勧めに従って団子を頬張ったが、打ち首獄門と聞いては団子ものどを通らない。「み、水…」とのどに詰まらせた啓太に水を持ってきたのは、団子屋で働く茶屋娘だった。
「やあね、啓太さん、はいどうぞ。それにしても何かとっても楽しそうなお話ね」
にっこりと笑った顔はお釈迦様のように神々しいが、おもとの目にはうちからにじみ出る何か得体のしれない怖さが見え、目を見張った。
「お智、今の話は…」
「大丈夫、わたしにも何か手伝わせて」
「おや、お智ちゃん、こういうの興味あるの?」
「西垣さま、ごひいきにありがとうございます。こういうのというより、打ち首獄門、市中引き回しとかよりも後世のために解剖とか…素敵よね」
かわいらしい顔から出てくるとんでもない言葉に、一同は思わず団子を飲み込んだ。
「こ、こいつは、昔からちょっと変わっていてだな…、協力してはくれるだろうが、報酬は容赦ないぞ」
「へー、啓太さんの幼馴染なのね」
「智と申します」
にっこりと笑う。
「口は堅い?裏切ると即これよ」
おもとが首を切る真似をすると「承知のうえで、楽しいことなら」とお智は請け負った。
「じゃあ、決まりね」
おもとはそう言うと、お茶をすすった。
これで仲間は確保した。
何者かに狙われているお琴のために。
またあの事件にお琴が首を突っ込みすぎていかないように見張り、さっさと解決するのだ。それがたとえ非合法なことでも。
おもとは茶をすすりながらこの時だけだと思っていたが、案外このちぐはぐな仲間たちはその後の事件でも首を突っ込むお琴を抑制するために働く羽目になるのだった。
(2017/09/25)
To be continued.