大江戸夢見草




饅頭毒死事件は、世間の人々から少しずつ忘れ去られようとしていた。
人々は続報がなければすぐに忘れてしまう。
お琴に対する危険もそれで薄まるかと思われたが、かえって怪しいことになりそうだった。
注目されなければそれだけお琴に対する注意も逸れることになるからだ。
お琴は直樹とおもとから毒死事件の真の罪人は探るのを良しとしていないので、決してそれ以上深入りするなとくぎを刺されていた。
お琴にもその理屈はわかっていたが、真相がわからないままではおすみは元の生活に戻ることはできない。
なる坊はお向かいの酒屋で丁稚奉公のようにして暮らしていたが、時折ぼんやりと閉められたすみやを眺めているという。
あれから同心渡辺の訪れもなかった。
もちろん忙しい身であるので、わざわざ直樹に会いに来ることなどできないであろうことはお琴にもわかっていた。その代わりと言っては何だが、総菜屋の岡っ引平吉親分がこのところ顔を見せに訪れていたのだった。
今日も今日とて「ごめんよ」と言いながら入江堂の入口をくぐってくる。
下っ引きは戸口の外で待つ間、つかの間の訪れだ。
何か変わったことはないか、思い出したことはないか、似たような症状の患者は聞いていないかなど、一通り聞いてからまた去っていく。それが日課のようにして三日を開けずして訪れるのだ。
お琴はいつも同じように答えた。
これと言って生活に変化はない。
ただ、直樹とおもとにも注意されたように、あまり一人きりで出かけるのはやめにしていた。目撃した内容はともかく、世間に広まっている事実はお琴が唯一の目撃者なのだ。
「解決するまでは油断せず身辺に気をつけなせぇ」
それだけ言って平吉親分は帰っていく。
その平吉親分が入江堂から帰ろうと戸口をくぐり、下っ引き箕吉とともに歩き出した時だった。
かろうじて入江堂が見える辺りに人影を見た。
男か女かははっきりとはしないが、体格からすると男だろう。
隠れるようにして入江堂を見張っている様子なのが気になった。
入江堂から平吉親分と箕吉が出てくると、塀の陰に隠れたのが目の端に見えた。あえて平吉親分はそちらの方を見ない。もちろん箕吉もだ。
入江堂が見えるか見えないかの辺りまで振り向かずに歩き、ようやく振り向いてみた。
何者かの視線を感じてはいたが、平吉親分が見えなくなったのを確認するかのように気配は消えた。
「箕吉」
「へい」
「手下を手配しろ」
「へい。見張りやすか」
「とりあえず消えた方向に追いかけてみろ」
「わかりやした」
「深追いするな。わからなければすぐに引き返せ。武家屋敷には近づきすぎるな」
「…へい。ついでに召集かけておきやす」
「渡辺さまに話してくる」
「行きやす」
「気をつけろ」
箕吉が音も静かに走り去ると、平吉親分は早足でこの時間同心渡辺がいるであろう八丁堀へと急ぐ。
先ほどの隠れ者が川を渡り、八丁堀とはいかないまでも武家屋敷の方へ戻っていくのではないかとは平吉親分の勘だ。
もちろん箕吉が見つけられればの話で、既にまかれてしまったかもしれない。
箕吉は足が速いので、近場にいれば追いつくはずだ。
すぐに連絡をつけたいことも多い平吉親分は、好んで箕吉を傍に置く。もちろん箕吉自身がよく気の付く頭の回転の速さで使い勝手が良いというのも理由だ。
先代の同心から引き続いて信頼厚い平吉親分はまとめ役として、許可をいただいている下っ引きは何人かいるが、箕吉自身の伝手もそこそこいる。
箕吉自身は岡っ引や下っ引きに多いいわゆる罪人だったが、許されて市井に戻ったくちだ。そんな経歴すらも飲み込んで信じて使っていくのも岡っ引としての腕であるし、そういう岡っ引を使うのが同心の格というものだ。
同心渡辺と話していたことが本当になりそうだった。
おそらく、一度動きを止めた黒幕がようやく動き出したということで、気を引き締めていくことだと自ら言い聞かせたのだった。

この様子を上から眺めていた者がいた。
屋根の上に乗っていたせいか、入江堂を見張る者も岡っ引の親分も下っ引きも気づいていないようだった。
もちろん気付かれないように息をひそめていたのもあるが。
「あー、そろそろここも限界だな」
よっこらしょと梯子を下りながらそうつぶやいた。
「直りましたか?」
手を拭きながら下女が尋ねた。
「これで雨漏りも大丈夫」
そう答えたのは大工の啓太だった。
「まあ、あちこち直していただいてありがとうございました。お真里さんに紹介していただいて助かりましたわ」
「いや、たまたま手が空いてただけのことで。またごひいきに。
ところで、上から見てたらちょっと気になることが」
「まあ、何でございましょう」
「植木が随分と伸びたり枯れたりしてるように見えましたがね」
「ああ、そうなんです。いつもの植木屋さんがちょっと手が離せないようで」
「良ければ知り合いの植木屋を紹介しますよ」
「あら、でもいつもの方に悪いわ」
「小川屋さんでしたね。親方にも話を通しておきやしょう」
「まあ、それなら」
「明日にでも伺うように話してきますよ。若いが腕はいいやつですよ」
「そうですか。ではお願いします」
「ではまた」
そう言って大工道具を担いでまだ日の高い道を歩いていく。
行き先はいつもの団子屋。
そこにはすでに西垣が座っていて、一緒にお真里もお茶を飲んでいる。
お真里は佐賀屋出入りの女髪結だ。もちろん直樹と奉公人であるおもととも懇意で、時々佐賀屋の女将の計らいで入江堂にも訪れることがある。
なんと言っても新妻らしくお琴の髪の乱れはかなり頻繁だからだ。
それはともかく、あちこちの武家屋敷にも出入りすることもあるし、髪結同士のつながりもあってかなりの情報屋であることは間違いない。
「西垣さま、小川屋へのつなぎはどうなりました?」
「もちろん大丈夫」
「いったいどういうつながりで」
「もちろんうちに出入りの庭師だけど」
「…ああ、そうでしたか」
「親方にさ、一度弟子入りしたくて出入りしていたんだよね」
「それで?」
「筋はいいって褒められて、一通り習ったところで親父様に植木屋はやめろと言われておしまい」
西垣は肩をすくめた。
大工の啓太からすればかなり謎な旗本の三男坊だ。
普段はふらふらと町を歩き回り、女子に声をかけ、どこから金が出てくるのかそれなりに豊かな懐を持っている。
金のない武家が増えてきた昨今、旗本家の三男坊でありながら家は豊か(これも西垣に言わせればどうやって得た金かはわかったものではない、という辛辣なものだ)、どこかに婿入りするのが普通だが、いまだふらふらとしても許されるくらいだ。
その実情はだれも知らない。
「明日、植木屋として行っていただけますか」
「承知した」
「その言葉遣い、気を付けてくださいよ」
「構わないよ。武士上がりの植木屋で通すから」
「はあ、まあ、それなら構いませんが」
「今どきまともに武士をやっているほうが大変ですものね」
髪結のお真里がしみじみと言った。
「明日はこちらに寄ってちょうだい。いくら武士上がりとはいえ、その御髪となりではいかにも嘘っぽいわ」
「着物の調達は任せてくれ。古着屋に伝手があるから」
お茶を飲み干すと、西垣は立ち上がった。
「それじゃ、明日」
それだけ言って立ち去って行く。
その後ろ姿を見てお真里がため息をつく。
「西垣さまも酔狂な方だわ」
「それを言うなら、皆酔狂だろう」
「お琴さんのために、って?」
「打ち首獄門かもしれないのに」
「あら、啓太さんは抜けてもいいのよ」
「今さら抜けねーよ。それにお琴さんがかわいそうだろ、あんなやつの嫁になったばっかりに」
「あら、どちらかというと騒動はいつもお琴さんの方が」
「お真里さん、啓太さん、お替わりはいかが」
「お智さん、もう結構よ。お腹がお茶でいっぱいになっちゃうわ」
「まあ、そう」
「ねえ、お智さんはどうして関わることにしたの?」
お真里の言葉にお智はふふふと笑った。
「金子≪きんす≫はずむからって」
「…あ、そう」
お智が去るとお真里は啓太にささやいた。
「あの子、茶屋以外にも魚屋で働いてたりするのよ。そんなに金子に困ってるのかしら」
「あー、魚屋は趣味」
「はい?」
「魚さばくのが趣味なんだ。さばくのがというより、内臓がぐっちゃぐちゃのどろっどろを触るのが好きというか、見るのが好きというか」
啓太の話にお真里はお智を振り返った。
「うわー、ひとは見かけによらないってこのことね。ひとさまに手を出さないだけって感じ?」
「どうだかな」
「やーめーてーよー」
「そう言えば」
気を取り直すように啓太が言った。
「直樹先生は総髪にしねーのな」
「そのうちするんじゃないかしら。長崎滞在中は月代を剃る金子と暇もないくらいでほぼ総髪だったらしいし」
「へー」
「それがそれを勧めたのが…えーと、何だったかしらね。もみあげが気持ち悪い変態医者がいたとかで、その医者と同じ髪型を勧められていたのをお琴さんが嫌って強固に反対したっていう話。おもとの話じゃ男色じゃないかってことだけど」
「…おもとがそれ言うとなんか不思議なんだけどな」
「まあね」
「いっそのその変態趣味野郎にやられちまえばよかったのに」
「まあ啓太さんったら、そんな不遜なことを言うと…」
「言うと?」
「罰が当たる…」

「まあ、お真里さんと啓太さん!お二人知り合いだったの?」

店前を通りかかったお琴の声に二人はびくりとして振り向いた。
「お、お琴さん」
啓太は汗をかきながらあーうーと何とか誤魔化そうとしている。
まったくもうとお真里はにこやかに答えた。
「職人仲間は何かしらつながりがあるものですよ。今日はお智ちゃんに会いに来たら啓太さんと会ったので話をしていたんです」
「まあ、そうなの。ほら、直樹さん、私たちも少しだけ寄って行きましょうよ」
ひいぃと啓太はさらに冷や汗をかいた。
「お、おれは…これで」
啓太は立ち上がってすでに足は通りに出ようとしている。
「そんな暇はないよ、お琴。玄さんが来るだろう」
「…あ、そうでしたね」
ああ、残念、とお琴は心底残念そうにつぶやいた。
「じゃあ、またね、お真里さん」
「ええ、またごひいきに」
お真里の言葉にお琴はつい「…ま」と頬を赤らめた。
お真里を呼ぶときは、どうにもならないくらい髪が乱れた朝だったりするからだ。
それを思い出して、お琴は一人頬を押さえて「そ、そうね、また」と直樹の腕を取り、そそくさと立ち去ったのだった。
「あらまあ、かわいらしいことでって、啓太さん、いまだ落ち込んでるの?いい加減に諦めなさいよ」
逃げ損ねたらしい啓太が、店先で一人遠い目をしてたたずんでいたという。


「それで、入江堂から去った男は、やはり武家屋敷に入っていったと」
「へい」
八丁堀の屋敷でのんびりとしたふうの同心渡辺は、手下の岡っ引・平吉親分相手に話をしていた。
「…どうしたもんかな」
「渡辺さま、この件はやはりお上から止められるので?」
「…うん、既にお奉行には話が下りてきてる。ただ、いずれ折を見てすみやの女主人は無罪放免になるはずだと」
「それは…荒れますね」
「そうだね。特に船津殿はうるさいだろうなぁ」
良く言えば真っ直ぐで猪突猛進。ちょっと融通が利かない同僚は、この決定にどう出るだろうと少し心配する。
ただ一つの救いは、お上が決めたことには渋々ながらも従うだろうということだ。
そして、あの無表情ながら奥方に振り回されている友人はほっとするだろうが、その肝心の奥方はどうだろうか。果たしてすみやの女主人が無罪放免になってめでたしめでたしで納得するだろうか。
「もし無罪放免になっても、しばらくは注意してくれるかな」
「入江堂の奥方の方ですね」
「…うん」
渡辺はうなずいた。
まだ終わっていない。
殺しまでやった輩が、このまま終わるとは思えない。
ただ、そのとばっちりが、あの夫婦にかぶることなく終えてくれればと思う。
お上から探索止めの指示など今に始まったことではない。それは確かに口惜しいことではあるが、一人で逆らってもどうにもならないのは渡辺の父の代から知っている。
ただ、事件を忘れるわけではない。
いつか意外なところから漏れ出て、解決することもある。
それまで少しの間寝かせておくだけだ。
その間に理不尽なことで裁きを受ける人がいないように気を配ることにしようと、渡辺は同心になってから心がけるようになったのだった。
「平吉親分、しばらくまた飲み込んでおくれよ」
「渡辺さまがそうおっしゃるなら」
「その代わり、おすみさんは放免されて暮らしていけるようにするし、お琴さんにも害がないよう注意するから」
平吉親分は返事の代わりに黙ってうなずいた。
二人にはまだ春先の風は冷たく吹きすさぶのだった。

(2017/11/07)



To be continued.