大江戸夢見草




それは突然のお解き放ちだった。
世間の話題に饅頭毒死事件が口に上らなくなった頃、ひっそりとおすみは市井に戻された。罪状は証拠不十分であり、決して無罪放免ではない。
お解き放ちはされたものの、同じ商売はさすがに続けられない。
なる坊は母であるおすみが戻って大いに喜んだが、その幼い身ながら母を助けるべく御使いなどで小銭を稼ぐつもりのようだ。
せっかく商売を始めた店は人手に渡り、おすみは伝手を頼った長屋に移り住んだ。
元は長屋暮らしであるので、これには問題ない。問題は生活の糧である。
飲み食いの店では雇ってもらえない。何しろ毒盛りと疑われた女人だからだ。
ひっそりと仕立物を引き受け、何とか日々の糧を得ている状態だ。
お解き放ちを聞いたお琴は、子どもが喜びそうなものを抱えて長屋を訪れることにした。
ほとんどはお琴からというより、佐賀屋の女将であるお紀からの差し入れでもあった。

「ごめんくださいまし」
長屋の入口からそう声をかけると、長屋に住んでいる気の良さそうな女が出てきた。
「誰に用事だい?」
「あの、おすみさんに…」
「…ああ、そこの奥だね」
「ありがとうございます」
「…ところで、おすみさんは、その、本当にやったのかい?」
「は?」
「ほら、あれだよ、あれ」
「ええっと」
「察しの悪い子だね。毒盛ったのかいってこと」
「あ、ああ!いえ、とんでもないです!おすみさんは、そんな人ではありません!それに、なる坊もいて、そんなことするわけないです」
それまで懐疑的な顔をしていた女は、ようやくほっと息を吐いて「そうだよねぇ、何かの間違いだよねぇ」とつぶやいた。
「そうですよ。あれは、きっとおすみさんを…」
陥れようと、と言おうとして、お琴はさすがに言葉を止めた。いつもなら不用心に口にしていたであろう言葉だったが、出てくる前に直樹に念を押されたことがあった。
くれぐれも、外では不穏なことは言うな、と。
何も知らないふりをしておけ、それが一番お琴の身を守ってくれるだろう、と。
お琴はその言葉の意味を知らないわけではなかったが、それでもなお、何故、という言葉が渦巻いた。
長屋の女がお琴に対する詮索をする前に、おすみが長屋の一部屋から顔を出した。
「あ、おすみさん」
「…お琴さん?」
お琴はそのやつれ気味の姿に心を痛めながら駆け寄った。
どうせ長屋なので声は筒抜けになるだろうが、それでも一応は中に入り、戸を閉めたのだった。

 * * *

「何故解き放った」
まるでそれが不満であるかのように同じ眼鏡を付けた顔をぐいと寄せてきた。
同じような眼鏡だというのに、人によってこんなにも印象は違うものなのかと親分はにやりと笑った。
違う管轄であるはずのその眼鏡の主は、やや冷たそうな目の奥からぎろりと笑った親分を見咎めた。
おっと、とばっちりが来そうだと顔を引き締め、親分は自分の主である同心の渡辺を見た。
にこやかに笑う同心渡辺は、「いやあ、証拠不十分というやつで」と頭をかいた。
「それに」
渡辺は同じように冷静に答えた。
「船津さまもこれ以上攻めようがないと思われていたでしょう?」
「…う、うむ、まあ」
言われたもう一人の眼鏡の主、同心の船津は仕方なくそっぽを向いて答えた。
「どちらにしてもこの事件は、いずれ有耶無耶で手の届かないことになりそうですしね、残念ながら」
「だからそういう…」
「長い物には巻かれろ、はあなたが好きそうなことだと思っておりましたが」
船津の隣で黙って立っている部下であろう手下の者は、少しだけ唇の端を上げた。
ここで笑っては船津の機嫌を損ねることは必至。しかし、正直者であるらしい手下の者は隠しきれない笑みを浮かべたのだ。
同じく親からの基盤を受け継いだ同心であろうから、きっと子どもの頃からいろいろ知っているに違いない。
同じく同心渡辺の手下である平吉親分はそう感じて、同心船津の手下の者を見た。
平吉親分よりずっと若い。それだけに日々若く突っ走りがちな同心船津を諫めたりするのにも苦労している様子だ。
聞くところによると同心船津は癇癪もちであるらしいので、それをなだめるのが手下の者の役目だという。
若い割に落ち着いている同心渡辺は、平吉親分にとっては恵まれた上司であるらしかった。
女人に弱いのが玉に瑕というところかと。
「あまり首を突っ込むと、消されるかもしれないしなぁ」
ぼそりと不穏なことを同心渡辺はつぶやいた。
「だからそういうことを」
同心船津は興奮しかけて隣の手下の者に「船津さま、帰りますよ」と促された。
「何かわかったら、某にも知らせてくれ」
それだけ言って不満そうにしながら同心船津は帰っていった。
「もちろん知らせるよ」
同心渡辺は相変わらずにこやかに応じて手を振った。
同心船津が帰っていくと平吉親分を振り返った。
「で、どう思う、親分」
「どうって、心配なのはまだこれからって気もしますがね」
「そうだよねぇ。直樹殿はきっとわかってるだろうけども」
「いまだわしらには手が出ませんやね」
「うん、お上勤めも案外不便だよね」
「渡辺さまにそれを言われちゃあ、困りますな」
「困るかな」
「悪人はとっ捕まえる。これしかありやせん」
「お上が悪人だったら、どうしようかね」
さり気なくそう言ったので、平吉親分は飲もうと用意しかけたお茶を思わずこぼしそうになった。
「いやぁ、どうしようかねぇ」
そういう飄々とした面構えで不穏なことを口走る癖は、先代同心とよく似ている、と平吉親分は思った。
「渡辺さま、できることをしましょうや」
「うん。ところで、お琴さんには誰か付いてる?」
「へい。じっとはしませんや。それに、あの医者の旦那、何か力借りてるようで」
「へぇ、やっぱりね」
「どういうお方ですか」
「どうって、豪商の嫡男で、この上なく冷静で切れる男で、どうやらお琴さんにはべた惚れの嫉妬深い男って感じかな」
「見たまんまですやね」
「知らない間にあれこれ助けてくれる人が増えたんじゃないかな。見たところ、全部お琴さんのお陰って気がするけど」
「はあ、言いますね」
「それに、あいつ自身、道場一の剣の使い手」
「ほう」
「怒らせるとうんと怖いやつ」
「そりゃ、まあ」
平吉親分は黙々と診療をする医師としての直樹と、お琴に対する男としての直樹を思い出した。
見たままの人物で間違いなさそうだが、それでいて腕も達者なら確かに怖い男だろう。
「誰が手助けしているにしろ、直樹殿には手を出さない方が無難だよ」
「それはそうでしょうが」
「豪商と言うのは、我々武士たちよりもはるかにお金を持っていて」
「はい、その通りでやすね」
「裏ではあれこれつながりがあるものなんだよ。それをないがしろにするやつは」
渡辺の温和な顔に眼鏡がきらりと光る。
「長生きできない」
平吉親分はゆっくりとうなずいた。
武士は時々勘違いをする。
確かに権力は持っている。
だが、このご時勢に武士の力は弱まっているのだ。
何よりも金がない。
金を持っているのは商売人だ。
どこの藩も実は借金を背負っている。
余裕がある藩など皆無に等しい。
金を持っている藩は、おそらく幕府の中でもろくでもない連中に違いない。
市井の者にはそれくらいしかわからないが、一目瞭然でもある。
このたびの件を仕掛けたのは、いったいどこの誰なのか。
待っていればいずれ尻尾を出すに違いない。
平吉親分はすっかり冷めたお茶をすすって、横目で同じくのん気そうにお茶を飲んでいる主を見たのだった。

 * * *

主からの許しを得て、おもとは団子屋に立ち寄った。
そろそろ団子が食べたいわねと言う主の言葉にお使いに出たわけだが、その団子屋を知り合いの店にと願い出て、許しを得たのだった。
「それで、お琴さんには何も話していないわけ?」
「話したって聞くようなお琴さんじゃないわよ。おまけに余計なことしそうで。
直樹さまがもう何も言うなって言うから」
団子屋で働くお智がおもとに茶を差し出しながら「まあ、そうね」とうなずいた。
「猪突猛進とはまさにお琴さんのことね。素直で思い込んだら一直線。後先も考えずに突っ走るから」
「その尻ぬぐいをさせていただくのは、光栄なんだか不幸なんだか」
「それと知って添い遂げようって言うんだから、直樹先生は大物ねぇ」
「幼い頃からの知り合いらしいから、気心も知れてるのかしらね。その辺のことを聞こうとすると、お琴さんは固まるし、直樹さまが怒るし、女将さんは笑ったままちょっと困った顔をするしで、詳しくは聞けないのよねぇ」
「それはともかく、お琴さんは大丈夫でしょ、多分」
「そうね、あれでいて最強の運の持ち主だわ。
それにしても、啓太さんは気の毒なことよね」
お琴を守りたい一心でつい直樹の言う通りに頼みごとを聞いた大工の啓太は、もはやただの道化だ。
お琴は人妻で、しかも最強の夫を持っていると言っても過言ではない。
頭の中身もその冷静さも剣の腕すらも持ち合わせ、いざとなれば金にも困っていないと思われるその夫は、元はおもとの主である佐賀屋の嫡男だった。
医師になるためにあれこれと婚約破棄騒動があったりで勘当されてはいるが、嫁のお琴は主夫婦のお気に入りだ。
羽振りの良い大工とはいえ、ただの啓太には敵うわけがない。
あれで威勢がよくいなせな若者なのだから、引く手あまただろうに、なんて不幸な恋煩いをしたものか。
「あら、啓太さんなんて喜んで恋の下僕になっているんだとばかり思っていたわ。昔からあんなことばかり繰り返してるから」
お智の言葉におもとはため息をついた。
「はあ、そうなの」
さすが幼馴染でもあるお智だ。
「お琴さんの行動で、誰が出てくるかってところね」
「あの同心さまも同じこと考えていそうよ。お琴さんにはいまだ手下の者をつけているみたいだから」
おもとはうなずいた。
「多分近いうちに我らの出番かも、ね」

 * * *

おすみの部屋に入って座ると、お琴は心底ほっとしたように言った。
「でもお解き放ちされて本当によかった」
「お琴さんにまでご心配をおかけして」
「いえ、あたしは何も。落ち着いたらいつか酒饅頭を食べさせてくださいね」
「…ええ」
「それから、これ、なる坊にでも」
そう言ってお菓子や着物などを手渡した。着物はおそらく佐賀屋の息子たちに着せていたものだろう。お紀から手渡された物だ。多少の寸法直しなら、仕立物で生計を立てているおすみなら簡単に直せるだろうと比較的安価なものを選んで持ってきたのだ。それでもなる坊の普段からすれば、良い生地ではあるはずだ。
「まあ!こんな良いものを…ありがとうございます」
おすみ自身への差し入れはきっと受け取らないだろうと思い、お紀とお琴は相談してなる坊のために選んだのだが、どうやら正解だったようだ。
お琴はにっこり笑った後、顔を引き締めた。
「それで、あたしがお聞きしたいのは」
そこでお琴は声を潜めた。狭い長屋の一室だ。普通の声では隣で聞き耳でも立てていれば丸聞こえになってしまう。
「こんなふうにおすみさんを陥れた者に心当たりはあるんですか」
おすみの顔が強張った。
「なる坊の父親、の…?」
おすみはうなずいた。
ここまではお琴にでもわかる。
なんとなく、なる坊の父親は武士で、しかも身分が明かせないほどのお方なのだろうと。そして、実はなる坊を引き取りたがっているのではないかと。
「どこのお方、とはお聞きしてはいけないんでしょうね」
「お琴さんまで巻き込まれてしまいます」
そんなこと言われても最初から巻き込まれているのだけど、とお琴は困ったように笑った。これ以上にもっと首を突っ込めば、きっと直樹に怒られるだろうとは思った。
「このままなる坊を諦めてくれるかしら」
お琴は首を傾げた。もしもなる坊を引き取りたいと願う事情は、お家の後継ぎ問題かもしれない。そう簡単に諦めるだろうか、と。
武家の跡取りとしての実子がなければ、適当な親戚などから養子をもらえばよいのだが、それすらも難しい状況なのかもしれない。
とすれば、まだ幼いなる坊は、今のうちに引き取って教育してしまえば、立派な跡取りとなり得るだろうと考えるのは必至だ。
「そう言えば、なる坊はどこへ?」
お琴の言葉にはっとして二人は顔を見合わせた。
「…なる坊…!」
お琴が来てからそこそこの時間が過ぎていたが、なる坊は一度も姿を見せていなかった。
そして今、ここになる坊はいない。
二人は揃って長屋の部屋を飛び出したのだった。

(2018/06/04)



To be continued.