大江戸夢見草




「なる坊!」
二人して長屋を飛び出して来たものだから、気になって井戸端で話をしていた長屋のおかみさんたちは驚いて止めるのが一瞬遅れた。
「ちょいと、ちょいと」
我に返った先ほど顔を出したおかみさんが、追いかけるようにしてお琴に声をかけた。
「なる坊を見ませんでしたか」
血相を変えて尋ねるお琴におかみさんは「え?なる坊?」と首をかしげる。
「なる坊ならまた酒屋のほうに」
「ありがとうございます」
おかみさんの言葉にお琴は通りへ駆け出して行ったおすみの後を追った。
おすみは通りで辺りを見渡して、なる坊と同じ年頃の子どもを見かけては「なる坊を見なかった?」と問いかけていた。
「おすみさん!なる坊は、酒屋の方に」
その言葉を聞いて、おすみは通りを走り出した。もちろんお琴も後を追いかける。
お琴は知らないが、お琴を見守っていた者たちも慌てて追いかけていく。
一人は何かを知らせに走っていった。
こうして長屋のある通りは一瞬の騒がしさの後、砂埃だけが残り、長屋のおかみさんたちも、子どもたちも、おすみとお琴が走り去った後を呆然と見送ったのだった。


息が切れながらもおすみとお琴は以前住んでいた酒屋のある通りにやってきた。
なる坊が酒屋に来た理由は、使い走りをして小遣い稼ぎをするためだろうとわかっていたが、いつも酒屋とてなる坊に頼む用事はない。ましてや酒屋にも小僧はいて、なる坊よりもずっと年上で、幼いながらもきちんと奉公人として雇われているのだ。
突然に罪を問われて仕事を失くした母を想うなる坊はかわいそうだと思うし、できるだけなる坊でもこなせる仕事を与えたいと思いつつ、今日は仕事はないのだと断ったと酒屋の主人は答えた。
なる坊は落胆しながらもきちんと頭を下げて酒屋を去っていったという。
「本当にねぇ、小さいのにえらいよ。うちに余裕があったら大きくなったなる坊を奉公人として雇うのも悪かないね」
おすみは「その言葉だけでも十分です、ありがとうございます。お世話かけましてすみません」とお礼を言って酒屋から出てきた。
「なる坊はどこへ」
お琴の言葉におすみは心当たりのありそうな場所を考えた。
なる坊の知恵と度胸なら、付近の顔見知りの店に顔を出してもおかしくはない。
そうは思っても、やはりおすみもお琴もとある懸念が頭から離れない。
「まさか誘拐されたんじゃ」
口に出したくなかったが、言わずにはいられなかった。
お琴の言葉にいよいよおすみは青ざめる。
誘拐される理由はあるし、誘拐する輩にも心当たりはある。大いにあるのだ。
しかし、心当たりがあるというだけで、まさか武家の屋敷になる坊はいるかと乗り込むこともできない。
「ゆ、誘拐されたとして、おすみさん、払う金子≪きんす≫なんてないわよね」
お琴は念のため聞いてみた。
もちろん金子目的だとは思っていない。
「子どもを誘拐して、次の日から、はい、これが跡取り、なんてできるの?武家は何でもあり?」
「いえ、武家だからこそお上に跡目としての届け出をして、承諾の意をもらわなければならないかと」
「そうよね、そのはずよね」
お琴は青ざめたままうんうんとうなずく。
「なのに、勝手にさらっていいわけないじゃない」
まだ誘拐と決まっていたわけではないが、お琴の中では既になる坊は誘拐されたと脳内妄想が始まっていた。
「こういう場合、誰に言ったらいいの?」
お琴はすでに涙目だ。

「お琴さん、どうした?」

そこへ声をかけてきたのは、なんと大工の啓太だった。
お琴は驚きながらも「け、啓太さん」と思わず走り寄った。
もちろん啓太が現れたのは偶然ではないが、そんなことお琴は知らない。
見張りをしていた者がすぐに駆け付けられる啓太に知らせたに過ぎない。
涙目で走り寄ってきたお琴に見つめられ、啓太の秘めた心がぐらりと揺らぐ。
この一年余り、お琴を諦めようと努力してきたが、まだごくたまに心が揺らぐ。
誰にも迷惑はかけていないつもりだが、お琴の夫である直樹がいる場ではそんな想いは微塵も見せられない、どころか何故か引っ込む。
軟弱と言われれば反論のしようがないが、独占欲の強い直樹に冷たく睨まれれば誰だってこうなるだろうというのが啓太の言い分である。
とにかく、お琴の頼りは今ここで啓太だけだった。
「あのね、なる坊が、なる坊がいなくなって、誘拐かもしれなくて、誘拐された先がお武家様かもしれないの」
だいたいの事情は聞いていたのでわかっているが、お琴に害を加えられるよりも先になる坊が行方不明であることが問題となったことをようやく悟った。
「落ち着いてくれよ。本当になる坊はどこにもいないのか?」
「なる坊はまだ五歳よ。いったいどこへ行くというの」
「そうかもしれないが、使いっぱしりをするくらいにはしっかりしていただろう」
「だからこそよ。こんなにもおすみさんに黙っていなくなるなんてありえないわ」
「まずは番所に届けよう。俺たち庶民ができるのはそれしかない」
「それで見つかるの?」
「迷子なら」
「迷子じゃなかったら?」
「さらわれたなら、難しい」
「そんな」
江戸での迷子は非常に多い。江戸は広く、大人でも慣れないと迷い込んでしまう。子どもは大切にされるので、保護された先で養子となって大事に育てられてそのまま大人になることもある。
さらわれることも事故に巻き込まれることも多い。
人目の多い江戸とはいえ、神隠しのようにいなくなってしまう子どもは多かったのだ。
それに、子どもが一人で木戸番(町ごとの区切りの門)を越えて行くことは滅多にない。ないが、人通りが多い時間帯では気づかずに通り過ぎてしまうことも大いにあり得るのだ。
「まずは番所に届けることが大事だ」
そう言いながら、啓太は西垣に連絡を取ることを考えていた。
おすみとお琴と三人で番所に行き、男の子がいなくなったと届けられたことで、町を行く岡っ引や下っ引、その上司である同心に伝えられるのだ。
おすみは大家にも告げてくると戻り、お琴は啓太とともに木戸番の横で岡っ引が到着するのを待った。
本来なら迷子ごときで岡っ引がやってくることはない。しかし、番所に届けた時点でお琴の顔見知りである平吉親分の下っ引がお琴に声をかけた。
今からひとっ走り、平吉親分に知らせてくるのでうかつに動くなと言われたのだ。
啓太はお琴に見張りが付いていたのを知っているので、そう来るだろうと思っていた。
啓太自身も直樹と西垣に連絡を取ることにして、文を託した。
これで最初に打てる手は打った。
「啓太さんがいて良かったわ」
「お、おう」
お琴の言葉に啓太は首を突っ込んだことに対する後悔が吹き飛んだ。
「ところで啓太さんはこちらに用事で?」
不意を突かれて、啓太はう、と言葉に詰まった。
他の連中はこういう時ぺらぺらとうまく誤魔化す術を知っているが、正直すぎるほどに正直な啓太は不意を突かれると誤魔化すことも容易ではない。
「ま、まあな」
あえてどんな用事とは聞いてこないので、あいまいに答えた。…が、何を思ったのかお琴は明後日の方向に考えを巡らせたらしい。
「啓太さんにもいい人が…?」
「なんでそうなる」
「違うの?」
「違う、違う。これは仕事で…」
そう、お琴を守るのも仕事の一つに違いない。啓太はそう言い聞かせた。
「それに俺は…」
「俺は?」
何気なくつぶやきかけた言葉にお琴が反応する。
「俺はまだ…」
お琴は首をかしげて啓太の次の言葉を待っている(ふうに見えた)。
潤んだ目で両手を組んで啓太を見つめている(ように見えた)。
しばしの沈黙の後、啓太が顔を上げると、「啓太さん!」とお琴が顔を輝かせた。
これはもう一度打ち明けるべきじゃないか。いや、そうしろと天からの思し召しに違いない、と勢い込んだ時、後ろから冷ややかな声がした。
「で、その手は?」
手を伸ばしかけた啓太をどかすようにしてお琴が狭い木戸番を走り抜けた。もちろんその行く先は冷ややかな声の主の元だ。
「た、ただの運動だ。最近肩が凝って」
どうでもいい言い訳をとっさに思いついたのは、啓太にしては上出来の部類だろう。
直樹は顔を輝かせて走り込んできたお琴を受け止めながら、一度啓太に鋭い視線を向けると、後は何事もなかったかのように淡々と事を進めた。
「なんでそんなに早いんだ」
文を送ったのはつい先ほどのことだ。先に伝えに行ったはずの岡っ引よりも到着が早いとはどういうことだと連絡をした啓太自身が驚いた。
「この近くの薬問屋に用があったんだ。連絡はまだもらってない」
ではすれ違いになっていることだろうと察したが、結局はお琴が気になって寄り道をした結果だということがわかり、啓太は先ほど自分が何を考えていたのかもすっかり忘れることにした。
「それにしても都合よく…。俺たちが見張る意味あるか…?」
そんなつぶやきを聞いたのか、直樹はさらりと言った。
「ただの勘だ」
お琴が一人で出かけると何かをやらかす。
それをわかっていて出かけさせる度量はたいしたものだが、結局心配になるなら自ら連れ歩けよと啓太は思ってしまった。
そうこうしているうちに息を切らした岡っ引の平吉親分がたどり着いた。
「年をとるとどうも遅くて申し訳ねぇ」
「いえ、お役目ご苦労様です」
皆が労った後、そこにおすみとおすみの長屋の大家がやってきた。
「それで、そのなる坊ってのは見つからないのかい」
平吉親分はお琴とおすみを見て聞いた。
「全部をまだ捜したわけじゃないんですが」
お琴の言葉におすみが付け足した。
「長屋のおかみさんたちが付近を捜してくれています。思い当たりそうなところは捜しましたが、見つからないんです」
「なる坊は何歳だい」
「なる坊は五歳です」
「まだ手習いにも行ってないくらいの歳かい」
「そうなんです」
お琴は勢い込んで言ったが、落ち着けと直樹に止められる。
「実は先ほど聞いたところによると、かなり前にこの木戸番を駕籠屋が通り過ぎたらしい」
木戸番から聞いた直樹の言葉に大家以外の皆が顔を青ざめさせた。
無言でそれ以上決定的な言葉を言わないが、皆が危惧している事が現実になったということだ。
平吉親分は直樹とおすみを隅に呼び寄せると、何事か小声で話した。そして一堂に向き直る。
「とりあえず届けは受けた。子どもは結構あちこち親の知らないところに入り込むことも多い。まずは様子を見ながら捜してみることだな」
平吉親分の言葉に大家は「ではまた見つかったら知らせてください」とだけ言って帰っていく。何と言ってもまだ日も高い。当然のことだろう。
「さて、籠の話は聞かなかったことにする」
平吉親分が目をそらして言った。
「そんな」
お琴の言葉に直樹が首を振る。
「おすみさんも家でなる坊を待つといい」
平吉親分はそう言って傍にいた手下に「帰るぞ」と木戸番を出ていった。
おすみは直樹と顔を見合わせてうなずいた。
「…お任せしてよろしいんですね」
「…ああ。今からすぐに手配する」
「では、私は家で待っております」
おすみは今一度お琴を見て、お琴の手を両手で包み込むようにして握った。
「あなたのお陰です。ありがとう」
お琴は訳がわからないまでも「ありがとうはなる坊が見つかってからですよ」と握り返した。
「ええ。でも、いつかはこんなことになるんじゃないかと思っていたんです。私が商売なぞ始めなければ…」
「そんな…」
おすみは頭を下げながら戻っていく。
お琴は握られた手を見つめ、「おすみさんが悪いわけじゃないのに」とつぶやいた。
直樹もさっさと木戸番を出ていきながら言う。
「お琴、武家のことは武家に任せた方がいい」
「でも」
「市井の者がうかつに手を出したら、俺たちも商売できないぞ」
「では、誰が」
「いるだろ、いつも暇な侍が」
お琴はしばし考え、「ああ!」と叫んだ。
「えーと、西村さま!」
啓太も木戸番を出ようとして、お琴の言葉に転びそうになる。
「西垣さまだよ」
思わず訂正する。
「え、ああ、そう、西垣さまね」
お琴はあわてて訂正したが、次に聞いても多分間違えるだろうなと啓太は思う。
女に関してはまめな西垣も、お琴にかかれば名前すらまともに覚えてもらえないどうでもいい存在になり果てることに啓太は笑った。
まだ名前を覚えてもらっている啓太の方がましなことになんとなく安堵したのだった。
「西垣さまにつなぎを」
直樹が啓太にさも当然のように言う。
つなぎをつけることなど先に思いついて、文も行きつけに託してある。
手伝うとは言ったが、直樹の意のままに従うのはやはりどうにもしゃくだが、お琴のすがるような目を見て「…承知した」と答えざるを得なかった啓太だった。

(2018/07/19)



To be continued.