幼なじみ琴子編3



(11)




夢の中であたしはもがいていた。
実際の入江くんはちゃんと泳げるのに、入江くんは海でおぼれていた。
あたしは一所懸命手を伸ばすのに、入江くんは手を握らない。一緒におぼれるのを心配している。
入江くんを助けられないくらいなら、あたしは一緒におぼれたってかまわないのに。
「琴子、……」
海に沈んでいく入江くんの声が聞こえない。
「入江くん!」
あたしの声も届かない…。



(12)




目が覚めると、あたしは布団の海の中で丸まっていた。
入江くんは海の外からあたしを呼んでいた。

「…もう、朝?」
「朝どころか、昼近いぜ」
「え?!じゃ、じゃあ、起きなきゃ…つっ」

起き上がろうとしたら、頭ががんがんに痛かった。
入江くんじゃなく、あたしが布団の海におぼれる。

「イタタタタタ…」

入江くんを見たら、少しあきれている。

顔を上に上げたせいで、気持ちが悪くなった。
そのまま姿勢を崩して、布団からずり落ちる格好になった。

「ぎぼぢわるい…」

口元を押さえたままうなる。

「飲みすぎるからだ」
「だっ…!」

だって、飲みたかったんだもん!と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
そのまま洗面所へ走る。
トイレにこもって、少しだけほっとした。入江くんの顔を見ないで済んだことに。それじゃいけないってわかってるけど。
流れる水を見ながら、あたしはおぼれていく入江くんを思い出した。
今はあたしがおぼれそうだよ。
トイレの床に座ったまま少し息をついてから、洗面所で顔をざぶざぶと洗う。
鏡に映った顔色は、自分で見ても青白い。
あたしってバカだな。自分でもそう思う。
よしっ!
両手で頬を叩いてから洗面所を出る。少しは血色よく見えるといいなと思いながら。


洗面所から出てきて1階へ下りると、お母さんが心配そうに二日酔いに効く薬を渡してくれた。
何か言いたげな入江くんの様子が気になって、入江くんの顔を眺めたときだった。

「琴子、この間…」
「え?」

入江くんが話し始めた途端に鳴り響くインターフォン。もしかしたら中島先生が来たのかもしれない。
あたしは自分の格好を見た。
起きぬけのよれよれ。いくらなんでもこんな格好で他の人に会いたくない。
あたしは慌てて着替えに部屋に戻った。
階段を駆け上がりながら、入江くんが何を話そうとしていたのか考えていた。
この間って、いつのこと?
本当は続きを聞きたかったけど、中島先生が入ってくる玄関先で話せるわけがない。
あたしは急いで着替えた。頭痛は少しましになっていた。
部屋を出ようとすると、やっぱり中島先生の声がした。
すっきりとした落ち着いた声。
きっと頭のいい人なんだろう。
思い切ってリビングに入ると、中島先生はあたしの方を見てうれしそうに笑った。

「はじめまして、琴子です」

あたしは努めて笑って挨拶した。
こんな人に嫉妬するなんてどうかしてる。

「あ、はじめまして。中島です。…直樹さんの、奥様ですね?お会いできてうれしいです」
「あはは、お、奥様…」

何もやましいことのないきれいな笑顔。
勝手に嫉妬していたあたしがバカみたいだ。
でもよかった。
入江くんの幼なじみが中島先生のような人で。

「琴子、話があるんだ」

中島先生の挨拶が終わったのを見計らったように、入江くんが間に入る。
本当に何か大事な話をするつもりなんだろうか。

「いり…」
「さあ、琴子ちゃん、できたわ〜」

あたしたちの間に漂っていた空気を吹き飛ばすように、お義母さんが声をかけた。

「ちょっと来いよ、琴子」

怒ったように入江くんが言う。

「何やってるの、お兄ちゃん」

お義母さんはその入江くんの怒りを感じ取ったのか、少し戸惑っていた。

「あのね、入江くん、あたしね」

もう気にしてないよ、と言うつもりだった。
でもその瞬間にまたインターフォンが鳴った。

「あらあら、誰かしらね」

お義母さんはインターフォンを取った。
インターフォンの画面はあたしからは見えなかったけど、聞こえてきた言葉に驚いた。

『あ、土屋と申しますが、琴子さんはご在宅でしょうか』

「土屋君?!」

思わず大きな声で叫んでしまった。
入江くんがあたしの方を見る。
気まずさ二倍。
不機嫌そうに見えた入江くんの様子が、今度は明らかに不機嫌になった。



(13)




入江くんの視線から逃げるように、あたしは玄関へと急いだ。
ドアの外では小さく身体を縮こませながら、土屋君がたたずんでいた。

「どうしたの、土屋君。よく家がわかったね〜」
「ああ、うん、これ…」

そう言ってあたしに何かを差し出した。

「あ〜〜!定期!」
「昨日の店に忘れていったから、困るだろうと思って」

そうか酔っていたから気がつかなかったな。

「ありがとう」
「…パンダイの社長の家って言ったら、すぐにわかったよ。…凄いね」

玄関周りを見渡して、土屋君は感心したように言った。
足音がして振り向くと、お義母さんがうれしそうな顔をして出てくるところだった。

「琴子ちゃん、こちら、どなた?」
「あ、土屋君は、昨日偶然会って…。お店で迷惑かけちゃって、おまけに定期まで届けてもらって、それから…、そ、そう、幼なじみなんです」
「幼稚園が一緒だったんですよ」

土屋君がフォローを入れる。

「まあぁぁ、琴子ちゃん、立ち話もなんだから、中へ入ってもらったらどうかしら?わざわざ届け物をしてくださったみたいですし。
ちょうどホームパーティをしようかというところなんですよ」

ホームパーティと聞いて、土屋君は思いっきり顔をぶんぶんと振った。

「あ、いえ、すぐに帰りますので。それにそんなときならお邪魔になりますから」

心なしか顔が引きつっている。

「いいえ〜、人数は多いほうが楽しいですし。さあ、どうぞ〜」

お義母さんは今にも腕を取らんばかりだ。
お義母さんがあまりにもうれしそうなので、あたしも一応誘ってみる。

「う、うん、土屋君、せっかく来たんだし…。昨日言ってた入江くん紹介するね」

リビングに入ると、入江くんの目が怖かった。
これは事情を説明しなきゃ、と思って、あたしは一所懸命に思い出しながら説明した。もちろん土屋君も横からフォローを入れてくれる。
でも、それがまた入江くんの気に触ったみたいで…。

「どうも、はじめまして。えーと、土屋吾朗です。」

土屋君がそうやって自己紹介したときも、黙って座っていた。
そう、まるで品定めする感じ。
…なんで?

「はじめまして。入江直樹です。昨夜は妻がご迷惑をおかけしました」

入江くんも立ち上がって自己紹介をした。
あたしはやっとほっとした。

「中島映子と申します。はじめまして」

中島先生はタイミングよく立ち上がって言った。
土屋君は中島先生を見て微笑んだ。
うん、きれいな人だもんね。

お義母さんはサンドイッチを勧めながら、土屋君に今日のホームパーティの事情について話している。

「あら、琴子ちゃんの小さなころの話聞きたいわぁ」
「ああ、それなら…」

土屋君はチラッと入江くんのほう見て、あたしの話をしだしたのだった。



(14)




「そうだなぁ、僕がよく覚えてることと言ったら、あれかな」

土屋君は笑ってあたしを見た。

「幼稚園のお遊戯会で、お姫様は誰がやるって争ったときかな。
琴子ちゃんは当然自分がやるもんだと思って、お姫様になりきっていたんだけど、あの時クラスの女の子の半分以上は自分がお姫様だと信じてたから…」

そ、そんなことあったかな。

「凄い争いになっちゃって、結局全く違う演目にしたんだっけ。
そのとき琴子ちゃん、周り巻き込んで大騒ぎだったな」

…もう覚えていないけど。

「僕はよく相手役の練習をやらされましたよ」
「まあ、相手役?」
「いえ、みんなやらされてたんですが、そのうちみんな飽きちゃって、最後までつき合わされていたのが僕、と言うだけで」

あたしの記憶と言えば、あれよね。
劇でやった役といえば、後ろの木だったり。

入江くんは黙ってソファに座っているけど、なんとなくオーラが怖い。
その場をうまくごまかす手はないかとあたしはきょろきょろする。

それなのに、お義母さんは火に油を注ぐ感じで、入江くんのアルバムを持ってきた。
入江くんの引きつった顔といったら…。
幸い幼稚園後のもので、ほっと胸をなでおろした。
中島先生も興味深そうに見ている。
中島先生も土屋君も途中で引越ししたためか、そのときの友達作りの苦労なんかを話している。
意外な顔合わせだったけど、思ったよりも和やかに話が弾んでいた。
…ただ一人を除いて…。



(15)




「琴子、ちょっと来いよ」

入江くんが話を遮ってまで口にした。くいっと顔を上げて、二階へ行くよう示す。
あたしはそんなに入江くんが話したがっていることが何なのか、よくわからなかった。

「お前が何を気にしてるか知らないが、中島先生とは今日会ってわかったように、昔はともかく今は仕事上での付き合いだけなんだ」

あたしが中島先生とのことで嫉妬してると思ってるのね。
そりゃ、嫉妬していたけど…。今お客様が来ているときに言わなきゃいけないことなのかな。

「…そんなこと、わかってる」
「わかってるなら、何をそんなに気にしてるんだ」

あたしは中島先生の話を聞きながら考えていた。
入江くんが小さな頃に受けた傷は大きかったかもしれない。
それは目に見える傷じゃなくて、心の奥深くについた傷だから、誰にも見えなくて、誰にも気づかれなくて。
入江くんはそれを隠し続けて、誰にも触れさせないできたから、余計に傷は治りが遅くて。
それだけに入江くんは大きく変わったんだろう。
じゃあ、もしも入江くんが普通の男の子として育っていたら?
普通の素直な子で、頭のよい子で、格好良くて、きっと誰にでも好かれて、友達も周りにたくさんいたら。

「…入江くんは、いつも小さかったときのことを嫌がってるけど、もしも入江くんが普通に男の子として育っていたらって考えたら…」

そんなもしもの話、あたしは意味がないとわかっている。
わかっているけど、時々考える。

「あたしと入江くん、こんな風になっていなかったかもしれないって」

そう言った。言ってしまった…。

「いや、結局はこうなってたよ」

入江くんはあっさり否定する。

「そうかな」

今日のあたし変だ。
そんな返事されたら、いつもならうれしくて抱きついてもおかしくないのに、何かが引っかかってる。

入江くんはため息をついた。
あたしの返事にあきれてるんだろう。

「俺にとっては確かにあの頃のことは思い出したくもないくらいだ」
「それもわかってる」
「じゃあ、何がだめなんだ」

思い出したくない過去なんて、あたしだって山ほど持ってる。
でも、入江くんにとってその過去は、とっても大事なことだってわかっていないのかな。

「だめとかじゃなくて」
「それならどうしてほしいんだ」

あたしはうまく説明できないので、入江くんにあたしの気持ちが伝わらない。
忘れてしまいたい過去。
そんなの誰でも持ってる。
でもその過去は、今の自分を創ったはずだから。

「…入江くんって、頭がいいのに、どうして人の気持ちわからないの?」

ううん、本当はいつもあたしの気持ちを察してくれるし、他の人の気持ちもうまく動かすくらいだから、きっと他の人の気持ちに敏感なんだろうと思う。
でも、自分の気持ちがかかわると、途端に何も見えなくなるみたい。

「だから、それは俺が…」
「思い出したくもない頃の思い出の中にいる人の気持ちは?もしあたしが中島先生だったら、すごく哀しい」

あの頃の自分を否定する入江くんは、あの頃に出会った全ての人を避けている。

「中島先生はそんなこと言ってないだろう。第一そんな風に言う人じゃない」
「…そうかもしれない、けど」
「それに、今はそんな話は関係ないだろ」

何で関係ないの?
わざわざ中島先生が来てくれているこのときに?

「…入江くんの、バカ!」

あたしは気づいたらそう叫んでいた。
叫んだ手前、入江くんの顔が見られなくて、部屋を勢いよく飛び出した。
いつもならリビングにいるけど、リビングにはお客様。
行き所がなくて、あたしは家を飛び出した。
あたしも少し頭を冷やそう。
そう、思って。


To be continued.