(16)
家を飛び出したあたしは、少しの間走ってその場を離れた。
もしかしたら入江くんが追いかけてくるかもしれない。
ううん、入江くんは追いかけてこない。
そんな思いで揺れながら、あたしは小さな公園に行き着いた。
公園の中に入ろうとして足が止まる。
もし入江くんが追いかけてきて、入江くんに追いつかれたとして、あたしはどんな顔で入江くんに言えばいいのだろう。
昔を否定するだけの入江くんには会いたくない。
…なんて。
あたしは走り疲れて、ため息をついた。
公園の中に入るのもやめて歩き出す。
二日酔いだった頭は、ずきずきと痛み出す。
入江くんに「バカ」と言ったあたしの方が、もっとバカなのに。
中島先生はそんな風に言う人じゃないって、それだけわかっているのに、どうしてあたしの気持ちわかってくれないのかな。
それとも、そんなの贅沢なのかな。
ポケットの中に手を突っ込むと、何かがあった。
「あ、そうか、定期…」
土屋君に返してもらった定期が入っていた。
あたしはそのまま駅へと向かう。
もう少し憂さ晴らししてから帰ろう。
それくらいしたって大丈夫だよね。
それにバカなんて言っちゃったから、入江くんも怒ってるかもしれないし。
あたしも少し言いすぎたかな。
でも、入江くんには気づいてほしかったの。
そうやって昔を否定する中にいる人たちのこと。
思い出したくない過去の中に沈む人々。
いいことも悪いことも、いい人も悪い人も、全て入江くんを創ってきたひとつだから。
もう、小さな頃の入江くんを許してあげてほしかったの。
また写真を突きつけられたら、かわいいだろとか言えるくらいに。
…無理かな、入江くんには。
駅で電車を待つ。
ずっと向こうまで続く線路を見ていると、あたしは不思議な感じがした。
こんな風にあたしたちは過去から未来へつながっている。
こんなに真っ直ぐじゃないかもしれないけど、たどっていくと、確実に今までのあたしたちが見えるはず。
ホームに電車が入ってきた。
入江くんの声がした気がした。
振り向いたけど、入江くんはいない。
反対側のホームが目に入る。
あたしは乗る電車を間違ってはいないかな。
一つ間違うとなかなか降りられない快速のように、あたしは間違っていないかな。
入江くんに言葉を投げつけたまま、あたしは逃げてきた。
いつもなら反対側のホームに立つのに、わざと違うホームに立ったあたし。
何で逃げちゃったんだろう。
乗り込んだ電車の扉が閉まる。
止まらない。
少なくとも、次の駅までは。
(17)
電車に乗ってしばらくすると、改めてどこへ行ったらいいのか悩んだ。
持っている定期で行けるところは限られている。
それにいつもと反対方向だから、どこかでうまく乗り換えないとどこにも行けない。
入江くんの行くところにどこへでも付いて行きたい。
それは本当。
あたしの定期は入江くんと一緒。
一緒に家を出て、一緒のところへ出勤する。
時々違うところに行くと、入江くんがいたらなと思う。
入江くんがいないとどこか寂しい。
入江くんがいないとあたしはどこにも行けないのかな。
そんなことはないって思いたい、けど。
ホームどころか、乗り換えも間違えてしまったら、行きたいところからどんどん外れてしまう。
あたしは路線図を見ながら考える。
あそこで乗り換えて、あっち行きのに乗って…。
駅から駅へと電車は走る。
無言で乗っていると、電車の音が頭に響く。
休日の昼、あたしは何をやってるんだろう。
大好きな入江くんから逃げて、電車に乗って、家から離れて、どこか違うところに行こうとしている。
やがて乗換駅に着いた。人の波にのって駅に降りる。乗り換えのためにホームを移動する。
もっと違うところに行くつもりだったのに、あたしは結局、戻る方を選んだ。
次の電車を待つ。
それでも少し躊躇する。
このまま戻るの?
入江くんの顔を見たら何を言ったらいいの?
次の電車が来た。
迷った挙句、とりあえず電車に乗り込んだ。
一駅二駅…どんどんもと来た線路を戻っていく。
そして家へ向かう駅。
あたしは降りられなかった。
急に乗り込んできた団体の乗客に押されて、反対側のドアに押し付けられていた。
心のどこかでほっとしていた。これで降りなかった言い訳ができたって。
入江くん、あたしを追いかけてきてくれた?
あたしを見つけられた?
…ずるいな、あたし。
入江くんを試してる。
やっと降りられたのは、病院がある駅。
押し付けられたドアが開いたときだった。
(18)
病院までの道を歩きながら、お店をのぞく。
いつも寄るカフェに本屋さん。
なぜかつまんない。
入江くんとちょっと心がすれ違っただけなのに、何を見てもつまんない。
いつもは一人で入っても平気なのに、よそよそしく感じる。
病院の手前まで来て足を止めた。
…モトちゃんに頼ったら、すぐに入江くんのところへ戻されそうだな。
そ、それも今はちょっと困る。
でも、お金もなくてどこにも行けないし、憂さ晴らし仕様がないじゃない。
でもモトちゃんならお金貸してくれるかな。
あたしは結局病院の中へ。
* * *
「日曜に来た挙句にお金を貸せですって?」
日曜勤務のモトちゃんに恐る恐るお金を貸してほしいって言った。
理由は急いでいてお財布を忘れたけど、取りに行く暇がないってことだけ。
モトちゃんはしばらく考えたのち、千円だけ貸してくれた。
「いいわ。貸しは高いわよ。これだけあれば足りるのね?」
「うん。ありがとう」
「お財布くらいちゃんと確認しなさい」
「えへへ…」
「…あんたって子は、もう…」
モトちゃんは何か言いたそうだったけど、そのまま仕事に戻っていった。
とにかく千円あれば違う路線に乗れるし、ご飯も食べられる。
それでも一人ではどうにもつまらなくて、あたしは理美の家へ行くことにした。
(19)
日曜の昼下がり、理美の家では夕希ちゃんがお昼寝中だった。
突然訪れたあたしを理美は驚きながらも家に招いてくれた。
本当は入江くんとのことで愚痴ろうかと思ったけど、よく考えたら何をどう愚痴ったらいいのかすらわからなかった。
入江くんが話してくれないことなんて、いつものことじゃないの。
きっと話せないこともあるに違いない。
もしかして、バカって言って飛び出したあたしがわがままだったの?
理美とは結局あたりさわりのない話をして終わった。
じんこのところにも顔を出してみようかなと思ったけど、今出張中だとかでいないはずだって。
理美はあたしの様子に心配して、泊まっていけばと誘ってくれた。
でも、入江くんとのことをうまく話せなくて、あたしは笑顔で大丈夫と言って出てきてしまった。
素直に泊まらせてもらえば良かったのに。
あたしは理美の家を出て歩き出す。
そろそろ日が暮れる。
家に帰るなら、覚悟を決めなきゃ。
謝らなきゃ、ダメ、だよね…。
謝りたくないわけじゃない。
そういうわけじゃないけど、あたしのこの気持ちはどこへ行くんだろう。
入江くんは、何を思ってる?
あたしを探してる?
見つけたら、どうする?
もう一度病院のある駅に戻ってきた。
病院なら泊まれるところがある。
そんな風に思うのって、少しずるいかな。
昨日飲んだ居酒屋の前を通り過ぎたとき、驚いた声で彼は言った。
「琴子ちゃん?!」
それは、飛び出した家にいたはずの土屋君だった。
(20)
「こんなところにいたの」
土屋君はまるであたしを捜していたような口ぶりだった。
「こんなところって?」
普通の繁華街。
それに夕方だから、まだ喧騒には程遠い。
「だんなさん、心配して家を飛び出していったけど」
ズキッと胸が痛んだ。
あたしはそれを望んでいたんじゃないの?
あたしを追いかけてきてくれる入江くん。あたしを心配して捜し回ってくれる入江くん。
それなのに、それは凄く哀しかった。
「心配して…たかな」
あたしは土屋君の顔も見ずに言う。
非難される目を見るのはつらい。
「心配してたよ、きっと」
「でもね」
あたしは土屋君を見た。
土屋君は、非難するでもなく、あたしを見て笑っていた。
「…何で笑ってるの」
「いや、だって、後先考えずに行動する癖、直ってないんだなぁと思って。いや、変わらないって言うべきか」
あたしは土屋くんの笑いに素直に答えられなかった。
だって、結局いつもそれで失敗するんだものね。
「帰らないの?」
「帰らなきゃって思うんだけど、帰りづらいの」
「んー、まあ、そうだろうねぇ」
土屋君は少し思案顔であたしの後ろの看板を眺めている。
「頭を冷やすってんなら、一晩泊まっていく?」
後ろには、『お泊り9000円』の文字が…。
「ええっ、そ、それは…」
「…いやだなぁ、何で琴子ちゃんとそこに泊まらなきゃいけないの」
「いやって、いやって、じゃ、じゃあ、何?!」
「だから、うちに泊まるかって聞いてんだけど」
「で、でも、土屋君のところなんて、そ、そんなっ」
「ああ、ごめん。説明不足だったね。えーと、うちには同棲中の彼女もおりますが…」
「ああ、そう」
あたしはやっとほっとした。
…土屋君だって、何でも面倒がって省略する癖、直ってないじゃない。
あたしは幼稚園時代の土屋君を思い出した。
いつも説明するのを省くから、あたしはよく混乱して勘違いしていろいろ振り回されたわ。
「それでね、もうすぐその彼女の仕事も終わるはずなんだけど」
「どこで仕事してるの?」
「そこのビル」
それは、例の看板の後ろにある大きなビルだった。
「彼女、その会社のOLさん。
今日は休日出勤で、買い物ついでにお迎えなんだ」
…そのビルの名は『北英社』だった。
まさか、沙穂子さんとかじゃないわよね…?
あたしはどきどきしてその彼女とやらを待つことになった。
To be continued.