(21)
30分も待たずに彼女は出てきた。
沙穂子さんとは似ても似つかないキャリアウーマン風の人だった。
ちょっとほっとする。
「吾朗君、お迎えありがとう」
ショートカットの髪で土屋君に笑いかける。
「夏帆(かほ)さん、この子が琴子ちゃん」
「そう、琴子さん、はじめまして。成田夏帆です」
大人っぽい人だなぁ。
意外な組み合わせにあたしはまじまじと見てしまった。
「じゃ、帰りましょ。吾朗君、買い物済んだ?」
「うん、今日はパスタにするんでしょう?」
「アンチョビがないとね。琴子さん、パスタ嫌いじゃないわよね」
「え?あ、は、はい」
何だかすっかり土屋君の家に行くことになってるんだけど。
…いいのかな。
「あの、いいんでしょうか、あたし、お邪魔しても」
「え?だって、吾朗君が言ったのよね?だったらいいわよ。大歓迎!」
「はぁ」
「大丈夫だよ、琴子ちゃん。夏帆さんのパスタ絶品だから」
「えーと、じゃあ、あの、すみません、お邪魔します」
あたしがそう言うと、夏帆さんは楽しそうに笑った。
「いやー、吾朗君の言うとおり、かわいい!」
そのまま大通りから歩いていったところに、土屋君と夏帆さんの住まいはあった。
結構立派なマンションで、思わずあたしは聞いた。
「土屋君て、今何やってるの?」
「劇団員」
「…それって何する人?」
「演じる人。一応役者」
「へぇ〜〜〜〜〜」
「このマンションは夏帆さん所有」
「へ?」
「それが聞きたかったんでしょ?」
吾朗君は屈託なく笑って言う。
「うん。だって、土屋君がこんなきれいな人と…」
思わずポロリと言ってしまった。
「夏帆さん、琴子ちゃんひどいよ〜」
「あはは、悔しかったら早くばんばん稼いでよ」
「…だね」
夏帆さんは着替えるとすぐに夕食を作り始めた。
あたしはすることもなく、リビングできょろきょろと落ち着けない。
「でも琴子ちゃん、だんなさんに連絡しなくていいの?」
「…いいの」
「ふーん、ま、いいけどね。あ、夏帆さーん、手伝うよ」
二人仲良くキッチンに立つ姿を見ると、少しだけ後悔。
何でバカって言っちゃったんだろう。
あたし、帰りたくないのかな。ううん、いつでも本当は入江くんのそばにいたい。
でも、今は帰れない。
だから、少しだけ離れて考えよう。
あたしはちゃんと入江くんの助けになれる?
頼ってばかりじゃなく、頼ってもらえるように。
守られるばかりじゃなく、守ってあげられるように。
(22)
あたしは結局、土屋君と夏帆さんのマンションに泊まることになった。
二人はとても仲がよかった。
二人で暮らし始めてもうすぐ3年になるという。
土屋君は劇団員としてやっといい役がもらえるようになってきたとかで、今は公演の合間で練習の毎日だという。
まさか土屋君が役者やるとは思わなかったなぁ。でも、いつも劇の練習は熱心だったかな。
そんなことをふと思い出す。
「今度役もらえたら、琴子ちゃんも見に来てよ」
「うん」
夏帆さんはあたしと目が合うと、いつもにっこりと微笑む。
「結婚する前からずっと一緒にいたなんて、面白いわね」
「ずっとって言っても、あたしが家を出た時期もあったし、入江くんも独り暮らししたときもあったし、単身赴任してたし」
「まあ、お互い好きすぎて困っちゃうって感じねー」
「え、そんな、あたしはともかく…」
「そうかなぁ」
「夏帆さん、だんなさん素直じゃないから」
「へー、ああ、そう。と言うより、何だか不器用そうようねぇ」
…あたしはまるで他人事のように入江くんのことを聞いていた。
「だって、それだけ一緒にいたのにだんなさんの愛情疑っちゃってるわけでしょ」
「か、夏帆さん」
「え、あら、違うの?あら、言っちゃいけなかった?」
あたしはうっと言葉に詰まって返事もできなかった。
や、やっぱりあたしが悪いのかな。
「琴子ちゃん?そんな顔しちゃダメよ。
言ったでしょ、素直じゃなくて不器用そうなだんなさんだって。
そういうのはね、琴子ちゃんだけじゃなくて、だんなさんも悪いのよ。
だって50対50(フィフティー・フィフティー)でしょ?」
本当に50対50なのかなぁ…。
あたしはいつも入江くんに迷惑かけてるし、いつもフォローしてもらって、あたしの言いたいことや思ってることだって、あたしが言うよりもずっと早くわかってる気がしてたけど。
それに何より、あたしのこの好きって言う気持ち、どう考えても対等とは思えない気がするんだけど。
「うーん、まだダメかぁ。よし、わかるまでこのうちにいなさい。
まだお仕事お休みでしょ?
それから、おうちの方にはちゃんと電話しておいた方がいいわ。何かあっても連絡つかないと困るでしょうから。携帯も持ってないのよね?」
「あ、…はい」
そうしてあたしはお義母さんに電話した。
もちろん入江くんが出ないといいなと思って。
そして夏帆さんはまるで小さな子にするようにあたしの頭を撫でて言った。
「はい、よくできました。って、子どもじゃないから失礼だったわね。
でも、妹ができたみたいで私は凄くうれしいのよ」
「夏帆さん、琴子ちゃんの話聞いてから、一度会わせろってうるさかったから」
「あたしも一人っ子だからお姉さんできたみたいでうれしい」
あたしがそう言うと、夏帆さんは土屋君と顔を見合わせてうれしそうに笑った。
(23)
夏帆さんの作ったおいしいパスタを食べて、お風呂も入らせてもらって、何から何まで貸してもらって、あたしは慣れない眠りに就いた。
何度も寝返りをうつのが自分でわかった。
いつもはどんなに寝相が悪いかを入江くんに言われるけど、あまり気にしたことなかったのに。
入江くんはもう眠っただろうか。
当直でいないときもあるし、出張でいないときもある。いつも隣で眠ってるわけじゃない。
そうじゃないのに、今日ばかりは違うことを思い起こさせる。
いつもと違う天井と寝床。
それでも、いつの間にか眠ったようだった。
だって、目を開けたら、朝だったから。
あたしは飛び起きていい匂いのする台所へ行った。
「あら、おはよう。今日は仕事ないのよね?」
夏帆さんはすっかり会社へ行く支度をしている。
「おはようございます。ない、です」
「おはよう、琴子ちゃん。とりあえず朝ご飯食べちゃって。
夏帆さんも会社行くし、僕も劇団の方に顔を出すから」
エプロンをして土屋君が朝食の用意をしていた。
妙に似合っていて、あたしはちょっとだけ笑う。
「あ、はい。ごめんなさい」
「やあねぇ、謝らなくていいのよ。こういうときに言うのは、いただきます、でしょ?」
「そうそう。さあ、座って。僕のオムレツ食べなよ」
「…いただきます」
食卓について目の前に出されたオムレツは、それはおいしそうな湯気を立てていた。
「…おいしい」
あたしが作るのより多分凄くおいしい。
「でしょ、おいしいでしょ?夏帆さんに仕込まれたから」
「あたし、何も手伝わないで…」
「あら、いいのよ。後で洗い物だけしておいて。ね?」
「じゃ、そうします」
全部平らげて、あたしは自分で驚いた。
入江くんがいないのに、あたしは眠れないとか言って眠っちゃってたし、食欲もある。
「コーヒー飲む?」
「…あ、いいえ」
土屋君の言葉にあたしは少しだけ躊躇した。
「コーヒー嫌い?」
「そうじゃないけど」
「じゃ、他のものにしよう」
そして出された紅茶。
「そういえば琴子ちゃん、財布持ってきてないんだよね」
「うん」
「じゃ、これ貸してあげるから」
渡された千円札。
「後でちゃんと返してね。僕、薄給だから」
ふふふと夏帆さんが笑った。
「それから、お昼ご飯は冷蔵庫に入ってる。
夕方には僕が帰ってくるから、一緒に夕飯作りね」
「う、うん」
「帰りたくなったら書き置きだけ残しておいて。
で、後でちゃんとまた報告に来ること」
「…わかった」
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
夏帆さんと仲良く玄関を出て行った。
あたしは急にがらんとした部屋を見渡す。
リビングにあたしの服がちゃんと置かれている。洗濯も済んでる。
あたしは一人残っている。
親切にしてもらった二人のことよりもあたしは入江くんのことを考えていた。
今日も仕事にちゃんと行っただろうか。もちろんちゃんと行っているに決まっている。
でも、それを思うと、あたしは涙が出そうだった。
(24)
夕方、土屋君が帰ってくるまで、あたしはほとんど何もしなかった。
もちろん洗い物はしたけど、他にしたいこともなくて、気がついたら夕方だったって感じ。
土屋君が夕食の支度をするのを手伝ったのだけど…。
「…琴子ちゃん、相変わらずだなぁ」
そう言って苦笑して、リビングに座らされた。
あたしって、そんなに料理下手なんだ。
今さらながら思い知らされる。
「料理がうまい下手って言うのは、別に手先の器用さだけじゃないんだよ。琴子ちゃん、いつも確認しないでしょ」
今日は中華だからと、大きな中華鍋を振るう土屋君が言った。
「調味料の確認、味の確認、煮えたかどうかの確認。
きっと琴子ちゃんが失敗するのって、慣れてないのに自分の感覚だけで料理してるからじゃないかな」
そ、そうかも。
「器用な人はさ、適当に調味料入れてもちゃんとちょうど良くできるんだよ。
でも、どちらかというと琴子ちゃんは不器用だよね。だから塩と砂糖を確認しないでまちがえるし、味見しないから間違ってることにも気づかないまま人に出すでしょ」
あたしは膝を抱えて聞いていた。
「ほら、できた。さあ、食べる準備をしよう」
「夏帆さんは?」
「ん?もう帰ってくるよ」
そう言って皿に鍋の中身を移した途端、響く音。
「たっだいま〜」
玄関のドアを勢いよく開けて夏帆さんが帰ってきた。
「ほらね。
お帰りなさい、夏帆さん。今日は中華だよ」
夏帆さんが物も言わずにあたしを抱きしめた。
「吾朗君がいじめた?」
「え?ええっ?!」
「ひどいなぁ、夏帆さん」
「吾朗君ははっきり言うからね」
「だって琴子ちゃんに手伝わせたら凄いことに…」
「こら、吾朗君。だって、だんなさんはちゃんと食べるんでしょ」
いつだって、文句をつけて、そしていつだって入江くんは食べてくれた。
どうしてお腹が空くんだろう。どうして眠れたんだろう。
入江くんがいなかったのに。
ほら、あたしこんなに後悔してる。
涙が出てきた。
「琴子ちゃん、お腹空いてるでしょ?ちゃんと食べてから、話しよ?」
夏帆さんの言葉に黙ってうなずく。
「吾朗君の中華食べないと損よ。だって、中華屋さんでのバイト仕込の味よ」
涙を拭いて食卓についた。
この優しい人たちにあたしができること。
ちゃんと食べて、ちゃんと話をすること。
だから、土屋君の作った夕食をしっかり食べた。
(25)
土屋君が言ったこと。
それはそのままあたしと入江くんだった。
入江くんは料理が上手だけど、料理の本の通りに作るからなんだよね。
あたしは料理の本を見てるようで見ていない。
お互い違う方法で料理を作ろうとしてもかみ合わない。
いつでも入江くんはあたしの料理をまずいと言いながらもちゃんと食べてくれる。
きっとどこで間違ったかわかっているのに、必要最低限しか言わない。
入江くんの料理は完璧すぎて、いつもあたしには文句も付けられない。
ねえ、あたしたち、もっとちゃんと話をしなくちゃね。
でも、今はまだ、向き合うのが怖い。
だって、入江くんがまた何も言ってくれなかったら?
あたしの話、聞いてくれなかったら?
今まで何でも言ってきたつもりだったのに、あたしにはまだ入江くんが遠いときがあるんだよ。
大好きなのに。
もっと好きになってほしいのに。
好きなだけじゃダメなときもきっとあるんだね。
夏帆さんは、
「きっとだんなさんも話すのが怖いんだと思うよ。だって今までそれだけ人を寄せ付けないで生きてきたんでしょ。
いくら琴子ちゃんがわかりやすいからって、本当に何を考えてるのかなんて、お互いに話をしないとわからないことだもの」
そう言ってあたしの頭をなでた。
「琴子ちゃんはいい子よ。吾朗君に聞いてた以上にね。
もし吾朗君が同じことしたら、私だったらきっと殴るわよ。
吾朗君てば言葉を省略するでしょ?前に比べたらこれでもマシになったの。
言葉の隙間が知りたいのに、それをわからせてくれないなんて、一緒にいたって面白くないじゃない。
会話するとかしないとかじゃないの。わかり合えていないのにきちんと話さないのは、自分のテリトリーに他人を入れたくないって事ね。
普通の知り合いならそれでも許されるかもしれない。でも、恋人になろうって人にそれはないんじゃない?
黙ってわかってくれなんて、そんな都合のいい言い訳聞いてる場合じゃないのよ」
でも、知られたくないこともある。
「うん、それはあるわよ。全てを理解しようなんて無理。
でも、知られたくないなら、それも意思表示してくれなくっちゃ。本当ならね」
あたしは、入江くんのこともっと知りたい。
同じ家に住んで、なんだかたくさん知ったつもりでいたけど、本当は考えてることの半分も知らない。
知らなくても過ごせるし、知っていたってあたしは今までと同じように過ごすかもしれないけど。
それでも、やっぱり知りたい。
「当たり前じゃない。
恋はね、知らなくても落ちることはできるけど、愛は知らなくちゃ続けていけないもの」
夏帆さんがうらやましい。
あたしは今でも自信がないときがある。
入江くんは嫌いな人をそばに置いておくほど器用じゃない。
だから、そばにいてもいいんだってことはわかるけど。
明日。
そう、明日。
仕事に行ったら多分入江くんに会う。
その前に家にも戻らなくちゃ。
会ったら、何て言おう?
あたしはそんなことを考えながら、浅い眠りに就いた。
To be continued.