(26)
よく眠れなかったけど、翌朝目覚めたときにはもう誰も部屋にいなかった。
かなり早い時間なのに。
二人とも今日は忙しいと言っていたっけ。
夏帆さんは日帰り出張、土屋君は早朝トレーニングとか言ってたっけ?
食卓の上に朝食が乗っていて、『しっかり食べること』という土屋君の手紙が残されていた。
せっかくなのでちゃんと食べて、食器を洗った。
それから自分の服に着替えて、出かける準備をする。一度家に帰るために。
そのまま家に帰るかどうかは、まだ決められない。
とりあえず着替えと仕事へ行く準備とお財布くらいは持って出たい。
この時間、入江くんは家にまだいるかな。
それとももう出勤したかな。
昨夜が当直だったかどうか覚えていなかった。
たいていはスケジュール通りだけど、時々呼び出されたりするし。
あたしは決心のつかないまま部屋を出た。
朝の空気は少し肌寒い気さえした。
このまま入江くんに会いたいのか、それとも会いたくないのか、よくわからない。
会いたいけど、会いたくない。
…本当は凄く会いたい。
一足ごとに会う、会わない、と占うように歩き出した。
駅に着くと、人はまだまばらな感じだった。
その割りに電車から吐き出された人は結構多くて、あたしはぼんやりと人が降りるのを待っていた。
もしも入江くんに会ったら…。会ったら、最初に何て言おう?
ぼんやりとしすぎて、電車に乗りそびれた。
電車の中から何で乗らなかったのかという奇異な目。
あたしは恥ずかしくなって、後ろにあったベンチに座った。
それから、何も考えずに何本もの電車を見送る羽目になった。
(27)
時計を見る。
いくらなんでも入江くんはもう病院へ行っている頃だろう。
通勤の人たちで駅は混んでいる。
その中に混じってあたしは家に帰ることにした。
駅から外に出ると、雨が降っていた。
天気予報なんて気にしていなかったので全く気づかなかった。
入江くんは雨にぬれただろうか。
雨を見るといつも思い出す。
泣きながら家路に着こうとした日のこと。
もう入江くんをあきらめることさえできないと思った日のこと。
…あたしはどうして今こんな風に離れているのだろう。
繰り返し、繰り返し、あたしはいつも入江くんのことばかり考えている。
入江くんはあきれる。
でも知ってる。
半分は…そう、半分くらいはうれしく思ってること。
それくらいならわかる。でも、わかるのはそれだけ。
傘がなくて、しばらく駅で雨宿りしてみた。
細かい雨は、あの時降っていた雨に比べたら、全然たいしたことない。
思い切って歩き出し、近くのカフェへ入る。
ポケットには、土屋君から借りたお金。
モトちゃんから借りたお金の残り。
今度家を飛び出すときは、せめてお財布を持って出よう。
そんなことを決意する。
…今度って、またあたし家を出るつもりなんだろうか。
自分の考えに少しだけ笑う。
いい匂いにつられて、あたしのお腹はまたもや空腹を訴える。
なけなしのお金でホットサンドを食べる。
ここでランチをしようと入江くんを誘ったのは、半月前くらいのことだったかな。
結局入江くんは用事ができて行けなかった。
話したいことはたくさんあるのに、いつもうまく話せない。
おまえの話は要領が悪いっていつも言われる。
カフェの片隅に電話を見つけた。
いつもは携帯を持っているので気づかなかった。
まさかとは思うけど、入江くんがいるかどうか確かめてみよう。
家に電話をかけると、お義母さんが電話口で泣いている。
とりあえず入江くんはいないらしい。
当然だよね。
あたしとけんかしたからって、仕事を休む入江くんじゃない。
でも、お義母さんは早く帰ってきてと涙声で言う。
あたしはいたたまれなくなって、すぐに帰るからと電話を切った。
受話器を置いて、再びホットサンドを食べると、少しだけ元気が出た。
うん、やっぱりお腹が空いてるときって、悲しいことばかり考えちゃう。
再びあたしは雨の中を歩き始めた。
とは言ってもすぐ家の近くだから、べたべたになる前に着くだろう。
家に着くと、お義母さんが飛び出すようにして玄関に出てきた。
あたしの顔を見て泣いている。…凄く心配をかけたみたい。
友だちの家に行くと言ったきり、あたしは二日も家を出ていたのだから。
「お兄ちゃんには散々捜すように言ったのよ」
うん、わかってるよ、お義母さん。
でも、きっとわからなかったんだと思う。
「お義母さん、ごめんなさい。その…あたしもきちんと連絡しなくて…」
「いいのよ、琴子ちゃん。お兄ちゃんがなんか言ったんでしょ?」
「え…と」
むしろ、何にも言ってくれないんだけど。
「夕方から仕事なんで、ちょっと準備してきますね」
「あ、琴子ちゃん、お兄ちゃんが…」
お義母さんの声を振り切るように部屋へ戻った。
(28)
着替えてほっとする。
部屋に入った途端、自分が土屋くんの家で違和感を感じていた原因がわかってしまった。
入江くんの、匂いだ。
寝室を見渡した。
何も匂いのするものは置いていないのに、なんだかわからないけど。
仕事に行く準備なんてホントは何もない。
携帯電話は置きっぱなしで、着信が何件も。
メールもたくさん。
理美にじんこ、モトちゃん。
きっと心配したに違いない。
入江くんから連絡があったって?!
あたしは今更ながら青ざめる。
…入江くん、心配するどころか怒ってるような気がする。
やばい。
あたしは荷物を持ってすぐに下に駆け下りる。
お義母さんは下であたしを待ち構えたように言う。
「琴子ちゃん、お兄ちゃんが帰ってくるまで待ってて」
あたしは顔が引きつる思いで荷物を抱える。
とりあえず、逃げよう。
「あ、あの、お義母さん、あたし、お世話になった人にお礼も言いたいし、仕事もあるから、もう行きますね」
「ちょ、ちょっと待ってちょうだい。
誰なの、そのお世話になった人って?!」
「そ、それは…」
「琴子ちゃん、待ってちょうだい!」
あたしは靴を履きながら慌てていた。
入江くんには黙っててくださいっ…というつもりだった。
…だったけど、無理だった。
ドアを開けたら、何かにぶつかった。
「入江くんにばっ!!だったたた…」
鼻を打って、目もちかちかして、前がよく見えなかった。
「い、入江くん…!あの、えーと、何で今ここに…」
何でいるのっ!
「いつまで逃げるつもりだ?」
「逃げようなんて、そんな…」
…つもりだったけど。
あたしは二日ぶりの入江くんにどぎまぎしていた。
もう、バカみたい。
「まあ、いい。やっと会えたんだから、話がある」
入江くんはそう言うと、あたしの腕をつかんだ。
そのまま玄関から階段の方へ連れられる。
逃がさないぞというその雰囲気に、あたしは生きた心地がしない。
何を言われるんだろう。
階段では後ろからせっつかれて、寝室へと追いやられる。
どうしよう。バカとか言っちゃったし。
でも、あたしばかりが悪いわけじゃない…よね?!
入江くんが仕事の途中で帰ってくるなんて、あたしそんなに怒らせちゃったのかな。
それとも今日は元から半勤だったっけ?
いろんなことが頭の中に渦巻いて、あたしは入江くんの顔さえまともに見られなかった。
(29)
寝室に再び戻る。でも背後には入江くん。
「琴子」
声をかけられて、つい肩をすくませる。
「土屋の家にいたのか」
そう聞かれて、あたしは入江くんの様子を見ながらうなずいた。
「で、でもね、別に二人っきりだったわけじゃないよ」
「当たり前だ」
…でも、何で土屋君の家にいたこと知ってるんだろう。
それに、やっぱり入江くん怒ってるし。
元はと言えば入江くんが何も話してくれないから…。
あたしの知らないことがいっぱいだ。
だからあたしは少しだけ反論する。
「だって、入江くん、何も言ってくれないんだもん」
「説明しようとしたよ」
…本当に?
あたしが何も聞かなくても?
あたしが知りたいこと、ちゃんと話してくれるの?
「あたしは、入江くんのこと、嫌なことも好きなことも知りたい。
一人でいつも考えてること、本当はもっと知りたい。
あたしが知ったところで何もできないかもしれないけど。
でも、また同じことで嫌なことがあったら、あたしが入江くんを守ってあげられるのにって。
いつも一人で考えて、いつも一人で何でもできちゃうから、疲れてても何にも言わないし、周りも何も言わないけど、本当はもっと入江くんのこと助けてあげたいって思ってる」
一人で抱え込まないで。
あたしにも頼って欲しい。
頼りにならないかもしれないけど。
入江くんは大きく息を吐いてから何かを決意したようにあたしを見る。
どうしよう、離婚だーとかなったら。
でも、入江くんの口から出たのは意外な言葉だった。
「悪かったよ」
その言葉の意味を忘れてしまったか、まちがえて言ったんじゃないかと思ってしまった。
入江くんに限ってそんなことはないだろうと思ったけど。
「入江くん?」
自然と尋ねる口調になった。
入江くんの表情から、入江くんが本心からそう思って言ったんだってことがわかった。
入江くんはベッドに座ってあたしにおいでおいでをする。
そのしぐさも珍しいけど。
あたしが近寄ると、入江くんはあたしを膝の間に立たせて抱きしめた。
そしてもう一度耳元で言った。
「俺が悪かった。…ごめん」
驚いてもう一度入江くんの顔を見る。
「俺は人に頼ることに慣れていないから、多分この先もまた同じことをするかもしれない。でも、頼むから俺の前から消えるようなことはしないでくれ」
「…うん」
「琴子には一番に話すから」
あたしはそれだけで十分だと思った。
あの入江くんが、あたしに謝ってくれただけでも驚いたのに、これからはあたしにちゃんと話してくれるって約束してくれた。
入江くんは意地悪だけど、約束はちゃんと守ってくれるから。
「…あたしも、ごめんね」
うれしくて笑ったけど、うれしくて涙が出た。
入江くんはそんなあたしの涙を掬うようにしてキスをしてくれた。
少ししょっぱい味がした。
(30)
「俺の話、聞いてくれるだろ」
「うん」
あたしがうなずくと、入江くんはゆっくり話し出した。
幼稚園のときの女装の話。
少しお義母さんには聞いていたけど、入江くんの口から話されることは、また少し違っていた。
女装自体が嫌だったんじゃなくて、女装だったとわかったときとやめたときのみんなの反応が、入江くんの心を傷つけたのだということ。
もちろんずっとそればかりを気にしていたわけじゃないのだろうけど、人間不信になるくらいの影響はあったのだから、入江くんには思い出したくない出来事になるんだろう。
そして、今入院している患者さんが、幼稚園のときの入江くんをからかった一人だったらしい。
あのときのことを思い出して、嫌になるときがあるのだと。
ゆっくりあたしにもわかるように話してくれたことで、あたしは入江くんの気持ちを知ることができた。
いつもあたしに向かってバカ正直と言う入江くんだけど、入江くんのほうこそ正直すぎると思う。
入江くんほど頭がよければ誤魔化すことだってできるのに、それをしないで黙ってしまう。
最初にキスをした時だって、お義母さんにいくらだっていいわけ出来たのに。
そんな入江くんが愛しくて、あたしは入江くんの額にそっとキスをした。
でも、入江くんの話は一転、今度はその厳しいまなざしがあたしに向けられた。
「…さて、お前の話も聞こうか…」
「え?」
…声音が違っている。
「確か土屋の家に泊まったんだよな」
「そう、だけど」
確認するようにそう聞く。
だから何で知ってるのかなって。
「どんなに楽しかったのか、聞かせてもらおうか」
「た、楽しかったって…?!」
あたし、そんなことひとことも言ってない!
でも、そんなこと言える雰囲気じゃなくて。
そんなことはとっくに調べがついてるんだぞと言うような入江くんの顔。
あたしは思わず後ずさりした。
To be continued.