幼なじみ



10


翌日仕事に行くと、俺の顔を見て中島映子は微笑んだ。

「随分と顔色がよくなりましたね」


琴子が夜勤に出かけた後、俺はかなりよく眠った。
夕方から眠り続けて、夕食も食べず、目覚めるとすでに夜中を過ぎていて、横には安心しきった顔で琴子が眠っていた。
俺は空腹の腹に何かを詰め込もうと、そっと起き出した。
ダイニングテーブルにはおにぎりが残されていて、夜中に起きるであろう俺のためらしかった。
それを食べながら俺は考えた。
眠って、食べて、毎日を過ごすこと。
そんな単純な生活さえも、琴子がいなければ過ごせなくなっている自分に。


「それで、今日、琴子さんは?」
「午後から出勤ですよ」
「…よかったですね」
「でも、まだ…」

まだ、山田弘樹の問題は残っている。
どちらにしても顔を見ないわけにはいかないし。
俺はため息を一つついた。
そんな俺を見て、中島映子は少しだけ首をかしげた。


 * * *


山田弘樹は順調に回復している。
さすがに手術をしたとあっては、もう一度病院を抜け出すことは考えなかったらしい。
まあ、術後でそれどころじゃなかったと思うが。
家族や従業員が交代で見舞いに来ては、抜け出したことについて説教していく。
主治医として何か言おうと思っていたが、すでに言うべき説教のほとんどは言われていた。
もちろん師長からもすでにやんわりと注意がいったはずだ。
担当の看護師にいたってはぼろぼろ泣き出す始末で、さすがに山田も深く反省している様子が伺える。

こいつは夢中になると他が見えないやつなのだ。
そもそも幼稚園での「結婚する」発言もそういった性格から出たものだったし。
思い起こせばいろいろ、幼児期からの性格というのは案外引きずっているものだ。
黙ってガーゼを交換して傷口を確認する俺に、山田は恐る恐る言った。

「…悪かったよ、ほんと」

俺が黙々と作業するのを怒っていると勘違いしたらしく、すでに散々怒られた身を縮こませるようにして謝った。

「…ああ、もういいよ」

交換を終え、俺はそう言った。
それを傷口のことだと思ったのか、俺の顔色を伺うようにして更に言った。

「入江のことは信用してるんだよ」

俺は苦笑しながら答えた。

「わかったよ」

看護師は片づけを終え、カートを押して部屋を出て行く。

「入江、怒るとおっかねーもんな」
「誰だってそうだろ。それに今は別に怒ってないよ」
「はー、やっと安心したよ。入江って、静かに怒るからなぁ。
…あれ?でも、相原にはよく怒鳴ってたよなぁ…」

俺は高校時代を思い出した。
確かに、俺は琴子に怒鳴ってばかりいた。
それまではどちらかと言うと何もかもに冷めていて、何かに対して怒鳴るなんてことなかったように思う。

「入江は変わったよなぁ」

山田は何を思い出しているのか。

「うん、いい方に変わったよ。笑うようになったし、柔らかくなった気がする。
相原のお陰か〜」

琴子と一緒にいて、笑わないやつはいない。
笑顔は自然と他人に移るものかもしれない。

「この間あいつが…。
ああ、そうか、入江は会わなかったかな。えーと、幼稚園のときから一緒だったやつなんだけど、加藤サエってやつ」
「…会ったよ。話はしていないけど」

俺はうまく返事できただろうか。
正直、まだどんな顔をしたらいいのかわからないでいる。

「そいつが、入江が担当でよかったって。
絶対に手術を失敗しないだろうし、最後まできちんと見てくれるだろうからだってさ」

素直にほめ言葉として受け取っておくことにした。

「期待に添えられるように、今度は逃げ出さないでくれよ」
「わかってるよ。会う人みんなに怒られりゃ、さすがの俺でも懲りたよ」
「それなら結構」
「なあ、幼稚園のとき言ったこと覚えてるか」

かなりの不意打ちに、返事すらできなかった。

「昨日相原が言ったことで思い出してさ」

…いったい何を言ったんだ…。
内心動揺しながらも、次の言葉を待つ。

「俺もさ、本当にショックだったんだよ。いわゆる初めて好きになった女の子が女の子じゃなかったことに。家に帰って夢でうなされたくらい。
もちろんそれが入江のせいじゃないってわかってたけどさ。
なんて言ったらいいのかな…。
うーん、うまく言えないけどさ、結局男の格好になっても何でもできるっていうのは変わらなくて、余計にうらやましくなったんだと思う」
「…わかるよ」

理不尽だけど、女だから認められることが、男だと認められない気持ち。
人よりも優れていることに価値を置く世の中だから。

「入江はもう全然相手にしてくれなかったしさ。
何だかんだと言って、入江が好きで、友だちになりたくてまとわりついてたんだろうなぁ」

俺は苦笑した。

「…男に告白されてもうれしくないな」
「え、あ?そ、そうか」

照れたように山田は笑った。

「それに、告白する相手は俺じゃないだろ。心配して真っ先に駆けつけてきてくれるやつに言うべきじゃないか?」
「あー?サ、サエのやつとはべ、別に…」
「ふーん、そうか。やっぱり加藤サエか。俺は別に名前なんて言ってないけどな」
「だ、だから…」

言い訳する山田を笑って見ることができた。
幼い頃の女装のアレは、多分この先も恥ずかしいとは思うだろう。
完全にトラウマがなくなったとは思わないが、少しだけ心の重荷は軽くなった気がする。
もう一度同じことがあっても、今度は琴子がいる。

「俺は多分、変わらないといけなかったんだ」
「なんで?」

独り言のように言った俺に山田は尋ねる。
俺は山田を見返して笑った。

「さあ?お前にいう必要はないかな」
「…本当に変わったのか?相変わらず意地が悪いぞ」
「まあ、せいぜい俺を信用して早く治してくれよ」
「治すのは医者だろ」
「違うね。本当に治すのは患者自身だから」

俺はそう言って病室を出た。
先ほど山田に言わなかったことを思う。
皆に裏切られたと思って女装をやめた日のこと。
いいも悪いも俺はここで一度変わった。
琴子と会ったことで俺はまた変わった。
琴子を好きになって、医者になって、俺は変わっていった。
変わらなければ、琴子を手に入れられなかった。
変わらないことがいいこともある。
変わっていないこともある。
それはとても複雑に絡み合って人を形成していく。
正解なんてない。
昔と変わらないように思えた中島映子自身も、自分で少しだけ変わったと言った。
俺たちは少しずつ変わっていくし、変わらなくてはいけないことも多い。
けれども。
琴子の屈託のない笑顔を思い出す。
琴子は人を変えていく。
それなのに琴子自身は変わらない。
変わってくれと思うことも時々あるにはあるが…。

「入江く〜ん!!」

廊下を後ろからパタパタと駆けてくる音がする。
俺は振り向いて嫌味を一つ。

「…看護師が廊下を走るなよ」
「は〜い」

追いついた琴子が俺の腕をつかんだ。

「ね、入江くん。今日一緒にご飯食べに行こう!」
「早く終わったらな」
「遅くても開いているお店知ってるから。ね?」

じっと見つめられて、ねだられる。

「…ああ」

ついそんな風に返事をする。

「やった〜!」
「入江さん、廊下は走ったり騒いだりしない!」

琴子のはしゃぎっぷりに主任の注意が飛ぶ。
怒られている琴子を横目で見て、俺はそのまま仕事を片付けに行った。
琴子が俺をもう一度呼ぶ声がしたが、俺は無視してさっさと歩いていった。
…なんたって早く仕事を終わらせないとな。


(2006/09/23)


To be continued.