11
仕事も終わり、待ち合わせたロビーで誰かと話す琴子の姿を見た。
相手は、加藤サエ?なぜ二人が?
俺は黙ってそこに立っていた。
加藤サエは俺のことを覚えているかもしれないが、それがすぐに幼稚園での出来事に結びつくとは限らない。
俺でさえ幼稚園での記憶は曖昧だ。
琴子にいたっては細かい事情などすっ飛ばして、自分に都合のいいことばかり覚えていそうだ。
それでも、気は進まなかった。
「あ、入江くん!」
こういうときほど琴子は妙に気がつく。俺の姿を見つけて手を振る。
加藤サエは俺のほうを見て頭を下げた。そして琴子に何事か話して立ち去った。
まもなく駆け寄ってきた琴子は、俺の腕にぶら下がるようにしてしがみつく。
「重い」
そう言ったのに笑う。
「ねぇ、入江くん。感謝、してたよ?」
俺は何も答えなかった。
「…おまえ、あいつらに何言ったんだ?」
「え?えーとね、えーと…」
「何だよ」
「…怒らない?」
「だから、何だよ」
「入江くんの小さい頃ってかわいかった?って…」
「はぁ?!」
「だ、だって写真でしか見たことないし」
「当たり前だ」
「あ〜あ、小さい頃の入江くんに会いたかったなぁ」
もしも俺が琴子と幼なじみだったら…?
俺は怒ってばかりしていたかもしれない。
ああ、今と変わらないか…。
一人で笑っていると、琴子が言う。
「あ、何?何か面白いこと思いついたの?」
「いや、別に」
「ふーんだ、その代わり、これから行くところは着くまで教えてあげない」
繁華街を進んでいくと、来たことのない通りに入る。
どちらかというとここは飲食店が多く治安は悪くない。
病院の関係者と来るときは大抵居酒屋が多いので、もう一本裏の通りの方が多いかもしれない。
「うーんと、確か、ここ」
派手な店構えのそこは、中華の店だった。
「へぇ、珍しいな」
「あ、琴子ちゃん、いらっしゃい」
奥のほうからそう声がかかる。
「あ、夏帆さん!」
俺の手を引っ張ったまま奥へと進む。
ショートカットの女がうれしそうに微笑む。
琴子はその女に向かって手を振る。
どうやら知り合いらしい。
というより、待ち合わせか?
「あ、ごめんね、入江くん。この間お世話になった人。土屋君の彼女さんなの」
「はじめまして、夏帆です」
「入江直樹です。…先日は、妻がご迷惑をおかけしました」
「いいえ、とっても楽しかったですよ」
土屋と同じことを言う。
ショーとカットのキャリアウーマン風。どうみても年上。
俺を上から下まで一通り眺めてからにっこり笑う。
「琴子ちゃんのだんな様って、頭も顔もいいけど、中身はお子ちゃまかな」
思いっきりそう言った。
ものも言えず、そのまま立ち尽くす。
「か、夏帆さん?!」
「あら。だって話もせずに琴子ちゃん泣かせるなんて、男としてサイテーでしょ」
…なんなんだ、この女は。
初対面でそう言われたのは初めてだった。
実際泣かせたんだから、それについては反論しないが。
「い、入江くん、夏帆さんは本当はいい人でね、あの、その」
「いいのよ、琴子ちゃん。一度だけそう言っておきたかったの。
今度何かあったら、また私のところへいらっしゃいね。もちろん今度…はないでしょうけど?」
「…もちろん、ないですよ」
俺の言葉にまた女はにっこり笑った。
「ですって。よかったわね、琴子ちゃん。
それに、元気な顔が見られてよかったわ」
琴子は俺の機嫌を伺いながら笑った。
「あのね、仲直りしたらちゃんと報告に行くって約束してたの」
「いいけど」
俺たちはその女と同じテーブルに座った。
琴子は一通りその女と話した後、俺に向かって言った。
「ここね、土屋君がバイトしてたところだったんだって。今でも時々食べにくるって言ってたの」
「仕事は?」
「えーと、今は役者さんとか言ってた。何とかっていう劇団。ほら、よくテレビでも宣伝やってる所」
「ああ、なるほど」
確かにどう見ても会社員とかそういう職業ではなさそうだったが。
役者の給料なんて最初は研修医と変わらないはずだから、養ってもらっているんじゃないかという意地悪な見方になる。もちろんそんなのは本人の甲斐性次第だが。
「でね、本当は土屋君も来るはずなんだけど」
「ふーん」
俺は駅で会ったときのことを思い出した。
途端に少し不愉快になる。
彼女もちで良かったと言うべきか。
「入江くん、何食べる?」
早速メニューを開いている。
「えーと、えーと、エビチリもいいな。あ、この天津飯おいしそう。でも、このカニの爪みたいなやつも食べたいな」
琴子の注文決めを待っていると時間がかかりそうなので、俺は店の中を見渡して適当なメニューを選んだ。
「中華飯セットをひとつ」
「え、ちょっと待って、入江くん、あたしまだ…」
「さっさと決めろよ」
「じゃ、じゃあ、この天津飯のセットのから揚げつきで」
注文が済むと、目の前の女と目が合った。
夏帆と名乗った女はにっこり笑い返してきた。
琴子はうれしそうにニコニコと笑って店内を眺め、女に言った。
「夏帆さんは何を食べるんですか?」
「炒飯セット」
「土屋君はいつ来るのかな」
「さあ、もしかしたら食事が終わる頃かも。今日は遅くなるって言ってたから、気にしなくていいのよ。
琴子ちゃんに会いたかったのは私なんだから」
そんな話をしているうちに、炒飯セットが運ばれてきた。
琴子は止めどなくあれこれと話をして、女はうなずきながら根気よく話を聞いてやっている。
琴子に対するそのさまは、まるで仲のいい姉のようだ。
思えば琴子には兄弟姉妹がいなくて、やっとできた弟は、とてもかわいいといえるようなやつじゃないからな。
思ったよりも早く注文した食事が運ばれてきた。
そして、それを食べ始めても、土屋吾朗は来なかった。
俺たちが食べ終わった頃、店のドアが音もなく開いて上機嫌の男が入ってきた。
「夏帆さん、悪役ゲット」
「吾朗君、おめでとう」
開口一番、それだけ言った。
「ごめん、もう食べ終わっちゃった」
「うん、俺もこの後また打ち合わせ。でも夏帆さんには直接言いたいから走ってきちゃった」
二人だけで会話は進む。
「土屋君、何かいいことあったの?」
琴子の言葉にやっとこちらを向いて、うれしそうに言った。
「あ、こんばんは。
うん、役を、もらえたんだ。それも今度はちょっと出番の多い役をね」
「そうなんだ。よかったね〜!」
「吾朗君、私もそこまで一緒に行くから、ちょっと待ってて」
多分会計を済ませようというのだろう。財布を取り出しながらレジの方へ向かっていく。
俺たちも食べ終わり、出て行くにはちょうどよかった。
「琴子ちゃんが元気になって、よかったよ」
「うん。だって、入江くんと一緒だもん」
「そっか…。
あの後夏帆さんてば、家まで様子見に行こうかって心配してて」
そう言って土屋は俺の方をチラッと見た。
「ちゃんと謝ったんだ」
俺に向かってそう言った。
「…俺はおまえみたいに中途半端なことはしない」
「………あ、そう」
肩をすくめてうつむく。
「やっぱ、中途半端かな」
「さあ?琴子は6年待ったとは言うけど、俺は2週間しか待たせてないけどね」
「よく言うよ。おふくろさんのお陰のくせに」
「…同じだよ」
そう、同じだ。
琴子を手に入れたいと思ったことも、それなら結婚しようと思ったことも。
「そうじゃないと手に入らない女なんだ」
俺の言葉に少しだけ驚いた顔をする。
「…そっか…。うん、わかったよ」
会計を終えて女が戻ってきた。
「吾朗君、お待たせ〜。あ、琴子ちゃん、入江さん、お先に」
「あ、はい」
先ほどよりも明らかに軽い足取りで、店の出入り口に向かう。
そこにたどり着く前に土屋が笑って言った。
「夏帆さん」
「ん?何、吾朗君?」
「今から区役所に行こうか」
「区役所?」
「うん」
「………何でこんなときまで省略して言うかな〜?」
満面の笑顔で女は土屋の頬をつまむ。
「ああ、ごめん」
頬をつままれたまま、土屋は笑顔で答える。
「よし、行こう!」
「…ありがとう」
「その代わり、後でちゃんと言ってもらいますからね!」
「あ、はい。覚悟してます」
「じゃ、琴子ちゃん、またね」
そのまま浮かれた足取りで、あっという間に二人は出て行った。
俺は何も言えずにただ見ていた。
なんて唐突なやつ。それで承諾する女もただものじゃない。
「ねえ、ねえ、何話してたの?」
事の成り行きがわからず、琴子は俺に説明を求める。
「あの二人、結婚することにしたってさ」
「え、えーーーーーー!!」
耳元で叫ばれて、俺は顔をしかめる。
「そっか〜、結婚するんだ〜」
俺はレジに向かいながら、そばにぴったりとくっついて話し出す琴子を少し見やった。
「お祝い、しなくちゃね」
うれしそうに言う琴子は、幸せでおめでたいやつ。
でも、人の幸福を素直に喜べるやつ。
「先ほどのお客様より勘定はいただいています」
店員の言葉に財布から金を出す手が止まった。
…参った。
結局あの二人を嫌でも祝うことになったらしい。
ま、いいか。
お祝い事は琴子に任せておけば。
そして、それを笑って見ていられること。
それこそが俺が優位に立てるたった一つのことだろうから。
(2007/04/11)
To be continued.