幼なじみ



12


翌朝、まだ眠そうな琴子をベッドに残して、仕事に出かける準備をする。

「あら、琴子ちゃんは?」

すっかり機嫌のよくなったおふくろは、俺に変わりなくそう言った。
琴子が家を出ている間、機嫌が悪すぎて誰も近寄れなかった。
どうやら琴子はおふくろに連絡をいれたらしいが、おふくろも家出先を友だちの家としか聞かなかったため、俺に捜し回るようにうるさかった。
捜したが見つからなかった…なんて言おうものなら捜索願まで出しかねなかったので、とりあえず黙っておいたのも一因だった。
このまま琴子が戻らなかったら、俺と縁を切るとまで言ってのけた。
いったいどっちの母親なんだかわからないくらいだったのだ。
その点相原のお義父さんは落ち着いたもので、そのうち帰ってくるだろうとしか言わなかった。
もちろん胸のうちでは心配していただろうが、特に俺を責めることもなく、夫婦にしかわからないこともある、とおふくろをなだめてくれたのだった。

「まだ寝てる」
「まあ、起こしてあげなくていいの?」
「俺は早出だからもう行くけど、そのうち起きるだろ」
「え、ちょっと、お兄ちゃん?!」

おふくろが何事か言わないうちに家を出た。


 * * *


「おはようございます」

小児病棟に顔を出すと、採血を終えたばかりらしい中島映子が言った。

「今日は担当の子の採血もこれで終わりです」
「早いですね。ありがとうございます」
「今日は私が早く帰らせていただきますので」
「へぇ、珍しいですね」
「ええ。今日は海外から夫が帰ってくる日なので」
「………ああ、そうだったんですか」

中島映子がさらりと言ってのけたことに、俺はやっと名字が変わったわけを思い出した。

「ええっ、中島先生、結婚されてたんですかぁ?!」

そう叫んだのは、他の研修医。

「はい、言いませんでしたっけ?」
「うわ〜、ショックだぁ」

そんな風に落ち込む研修医はさておき、中島映子は笑って俺に言った。

「結局父と同じような人を選んでしまったの。忙しい人で、海外を行ったり来たり…」
「そうですか」
「でも、私が母と違うのは、忙しくても話を後回しにしたりしないことなの」

そう言って、彼女は昔と同じように微笑んだ。
幼い日の記憶がよみがえる。


『わたしね、パパみたいなひととけっこんする。なおちゃんは?』
『いつもニコニコしてるひと』
『うん。ニコニコしてると、しあわせがいっぱいだよね』
『うん。だって、ママがね、パパのいつもわらってるところがすきなんだって』


思い出して一人で苦笑する。
そう言えば、そんなことも言った気がする。

「どうしたんですか、入江先生?」
「いや、別に」
「なんだか、凄く幸せそうな顔だったから」

それは多分、今の俺には琴子がいるから。
自分を好きだとも思えない、そんな俺の一生そばにいて、きっとこれから何度も幸せだと感じさせてくれる存在がいるから。


 * * *


外科病棟へ行き、ガーゼ交換に回る。
今日は珍しく琴子が寄ってこない。…と思ったら、山田弘樹のところにいた。
部屋に入ると明らかに隠し事をする。
ガーゼ交換だけ手早く済ませ、隙を見て後ろ手に隠し持ったものを取り上げる。

「あ、だ、だめ〜〜〜〜!!」

山田は引きつった顔で俺を見ている。
取り上げた写真のようなものを見る。

それは、複数の男の子が写ったもの。
俺たちの幼稚園時代。ただし、女装じゃなくてすでに普通の格好をした俺。

「何でこんなもの」
「いや、昨日サエが…」
「加藤サエ、か」

俺はふんとばかりに写真をつき返す。

「あ、もう!」

琴子はつき返された写真を見て笑う。

「凄い仏頂面よね、これ」

多分、参観日かなんかに皆で並ばされてとった写真に違いない。

「その写真、何であいつが持ってるんだ?」
「それは…」

琴子の言葉を引き継いで、山田は言う。

「やっぱり入江が写ってるからかな」
「…何で、俺なんだ」
「何でって…、それはサエが…」
「私が何だって?」

そう言いながら加藤サエが病室に入ってきた。

「サエか。…早いな」

琴子は時計をチラッと見る。
面会時間ではないので、気にしてのことだろう。

「はい、着替え。おばさんに頼まれたの。今日は来れないからついでに持っていってほしいって」
「おふくろが?悪かったな」
「じゃ、渡したわよ」
「あ、あれ、もう行くのか?」
「言ったでしょ、私は今日から出張で、あんたの退院日までには戻ってくる予定だって」
「あ?そうだったっけ」
「もう、しっかりしてよ。入院して頭までぼけちゃったんじゃないの?」
「ひでーな」
「とにかく、面会時間でもないんだから行くわね」
「あ、ああ」

山田は気圧されたように荷物を受け取り、加藤サエは俺たちに頭を下げた。
俺も外来に行く時間だった。
まだ写真を握り締めている琴子を置いて、さっさと病室を出た。
自然と加藤サエと一緒に廊下に出る。

「…これから外来ですか?」
「はい」

これと言って何か話したいわけでもなかったが、お互いに何か沈黙して歩いているのが気まずかった。

「あの、あいつ、入江…先生に迷惑かけるつもりはなかったんです。あいつ、バカだから、仕事のことしか頭になかったみたいで」
「ああ、そういうのは身近にいるんで」
「…相原さん?」

加藤サエはそう言って笑った。

「あいつが何か言ってたって?」
「ええ。小さい頃の入江くんはかわいかったかって」

今度はうつむいて泣きそうな顔になる。

「…私、今でも後悔してる。ひどいこと言ったって。誰もその話をしないのは、きっとみんなそう思ってるから」
「それで?」
「あの時は…ごめんなさい」
「そんなのは、もうどうでもいいよ」
「え?」
「琴子には、何て答えた?」

俺の質問がわからないかのように戸惑っている。

「…かわいかったし、かっこよかったって」
「ふーん」
「相原さんは、どっちも見たかったなって」
「写真では見てるけどな」
「そう、なんですか」

琴子は、俺を守りたかったと。
多分、本当に守られたら、きっと俺のほうこそひどい言葉を投げつけるだろうに。
それでも、多分俺は救われただろう。
もちろんそんなそぶりも見せないかもしれないし、逆に琴子を傷つけたまま過ごすかもしれない。

「山田が…」
「え?」
「…いや、心配して一番に駆けつけてくれる友だちがいるなら、きっと心配ないよ」
「そうだと、いいんですけどね。
本当は入江くんと話す機会が来ること、怖かった。だから面会時間もなるべくずらして…。
いつか謝った方がいいのかなって心残りだったこと。言ってしまえば自分は楽になるけど、言われた方はきっと忘れてないし、簡単に忘れられないでしょ。
でも、相原さんが…」
「…琴子が?」
「今の入江くんなら大丈夫って」
「ふうん」
「頭がいいから忘れてはくれないだろけど、許してくれるだろうって。
ああ、違うかな。
ええっと、『きっと死ぬまで覚えてるだろうけど、きっともうあたしで免疫ついてるだろうから大丈夫よ』って」
「………」
「あ、もう急がなくちゃ。それじゃ、あいつのこと、退院までお願いします」

加藤サエが去って、エレベータの前まで来て立ち止まる。

免疫って、高校のときのことや結婚式のときのことかよ。
それに、死ぬまでって…。

「あ、入江く〜ん!」

エレベータに乗り込む寸前に琴子が駆けてきた。

ったく、こいつは…。

「走るな」
「う、うん。あの、今日は手術のない日だよね。早く帰れそう?」
「さあ?」
「もう、意地悪」
「で、早く帰ったらどうするんだ」
「今日は頑張ってお料理作るから!」

…ゆっくり帰ったほうがいい気がしてきた。

「ふーん、それで、俺にスタミナつけてどうするの」
「へ?どうもこうも…」

エレベータに乗り込みながら、すかさず琴子の耳元でささやく。

「昨夜はそんなによかったのか?」
「は?」
「リクエストに応えて、今夜も足腰立たなくなるまでしてやろうか?」
「い、入江くん、や、やだ、何言って…!」
「へー、意味わかるんだ?」
「なっ、わ、そんなんじゃ…」

照れて俺の白衣に向かってこぶしを振り上げる。

「…今日はすぐに寝るなよ」

それだけ言うと、ちょうどエレベータが閉まった。

ダン!と鈍い音とともに、「いったーい!!」と言う琴子の声がエレベータの駆動音に混じって聞こえた。


(2007/05/10)


To be continued.